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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:老いて未だ目的のある喜び

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第80回は、ギャラリー「紫苑」を営みながら作家活動を続ける中村田鶴さんに迫る。

文=櫛野展正

中村田鶴さん

 「現在95歳、これが最後の個展になる」。

 そう銘打って開催された展覧会へ足を運んだ。静岡県浜松市のギャラリー「紫苑」で催された会場には、100号級の油彩画の大作や、あちこちへ出掛けてスケッチした風景画などが並んでいる。とても95歳の女性が描いたものとは思えなかった。

ギャラリー紫苑
ギャラリー紫苑

 「ギャラリーの名前にしている『紫苑』という花は、忘れな草の類で非常に可憐な花ですが、茎や葉がとてもしっかりしていて女性の芯の強さをあらわしている大好きな花なんです」。

 そう声をかけてくれたのが、作者の中村田鶴(なかむら・たづ)さんだ。華道家や書家としても活躍する中村さんは、高齢になってから突然に絵を描き始めたのだという。その小柄な姿から、ふつふつと湧き上がってくる、この溢れんばかりの熱源を探るため、じっくりとお話を伺った。

紫苑をだモチーフにした絵画

 中村さんは、1929年に三重県度会郡柏崎村(現在の三重県度会郡大紀町)で5人姉妹の3女として生まれた。父親は、自身が所有する広大な田畑や山林の管理などをしており、戦争未亡人となった女性を多く雇用していたようだ。

 「学校から帰ると、いつも誰かが働きにきていて『父さんに助けてもらっている』とみんなが口々に言っていましたね。私は、小さい頃から文学が好きで、親の手伝いもしないで、隠れて本を読むような文学少女でした」。

 当時の人気作家だった菊池寛や吉屋信子などを読み漁り、東京へ行って小説家になることを夢見ていたが、田舎暮らしの現実とは程遠いものだったという。代わりに、若山牧水や石川啄木などの歌人にも憧れを抱き、短歌や俳句づくりに傾倒していった。

 12歳のときには、太平洋戦争が勃発。尋常小学校から国民学校に名称が変わり、教科書の内容も一新された。担任教師たちも徴兵され、多くの代用教員がやってきたが、その人たちも戦火が激しくなると、徴兵されていなくなった。

 「学校を卒業して、看護婦になったら戦地へ行かなければならなかったんです。だから、私は非国民だったかもしれませんが、戦争を避けて機関銃弾や砲弾の会社へ勤めるために、タイピスト養成学校へ行ったんです。特待生で卒業して、鉄砲をつくる会社の秘書に学校推薦で入ることができたんですけど、2ヶ月ほど働いたら終戦になりました」。

中村田鶴さん

 戦後は、商工会議所から「うちで働いてほしい」と声を掛けられたが、父の勧めで三重県松阪市にあった文化服装学院の分校に進学。ちょうど、戦後の洋裁ブーム、そして家庭用ミシンの普及によって、ファッションとしての洋服が定着してきた時代で、「父は先見の明があったのかしら」と当時を振り返る。3年ほど通って、家庭科の教員免許も取得した。

 卒業した後は、地元に戻り、自宅の敷地の父親が建ててくれた小さなスペースで、近隣の女性を集めて洋裁教室を始めた。2年ほど経った頃、隣村にある呉服店の息子・中村哲也さんと恋に落ち結婚。やがて3人の子供を授かった。

 「夫は私より4歳年上で、三重県立松阪工業高等学校を卒業したあと、満州鉄道に志願した優等生でした。家業を継いで呉服商を営んでいたのですが、三重県の田舎では呉服が廃っていくことを危惧し、夫が総合卸業の会社を設立するのに伴って、1977年にこの浜松へ転居してきたんです。私は故郷の三重を離れたくなかったから、泣いていましたけどね」。

 商売も順調で、万事幸せな日々を送っていたが、45年間連れ添った夫婦生活は突然に終わりを告げてしまう。夫が69歳のとき、不調を訴えて病院に駆け込んだら、前立腺の末期癌を宣告され、1997年1月に71歳で他界。

 「すべてを夫に委ねて生きてきた私でしたから、ひとりになって悲しみに暮れる毎日でした。今までに手を合わせることの少なかった仏や神に手を合わせ、教会へ牧師の話を聞きに行って、同じ悩みを抱えた人を探し求めていました」。

 夫の一周忌を過ぎた98年、友人の勧めで県の生涯学習事業の油絵教室に入会。教室には自分と同じ境遇ながら、逞しく生きる女性の姿に勇気づけられたと語る。

 68歳から本格的に筆をとり、2000年にトルコを旅して描いた100号の大作《カッパドキアの朝》が、浜松市芸術祭で大賞を受賞した。以後、国内だけでなく、ネパールやカンボジア、インド、エジプトなど世界30カ国以上を巡り、各地を行脚して現地の風土や歴史を­とらえてきた。旅行中の写真を何枚か見せてもらったが、どの写真にもスケッチをしている中村さんの姿が映されている。

カッパドキアの朝

 「私は写実ではなく自分の夢を描きたいと思ったから、二科会へ入会したんです。たとえ抽象画でも現場を見てから描くということを心がけていて、そのとき感じた息吹を色彩で表現するようにしました」。

 そう話す中村さんの絵の特徴は、その色彩の豊かさにある。市内にある鍾乳洞「竜ヶ岩洞」へは3度も足を運び、洞窟の中をくまなく歩いて、コウモリが羽ばたく音や水が滴る音を聞きながら想像を膨らませた。洞窟内を温かみのあるオレンジで表現した絵画《地底の響》は、お気に入りのモチーフのひとつとなり、何作も仕上げた。

地底の響

 76歳からは、より高みを目指し、東京藝術大学の公開講座を3年間受講した。移動中も電車で寝ている人をスケッチするなど、貪欲に絵を描き続けた。これまで描いてきたスケッチの枚数は数知れないが、100号級の大作は50枚にも及ぶのだという。

 中村さんは、夫の死という大きな対象喪失を経験しても絵画に出合ったことで、再び立ち上がり、自分の人生を逞しく生きている。僕が注目したのは、展覧会の搬入出や自費出版物の作成、ギャラリーのブレーカーのオンオフに至るまで、中村さんの手足となって手伝ってくれている知人の姿が垣間見えていたことだ。言葉にできない思いを表現するのが、アートの力だとしたら、まさに絵画を通じてセルフケアとでもいうべき社会的処方を中村さんは実践しているわけだ。

東京藝大で描いた裸婦画

 「天国に携帯電話があるならば 暮らしいかにと 声も聞きたし」。

 帰り際に、中村さんが詠んでくれた短歌からは、変わることのない最愛の夫への想いが僕の心に響いてくる。今後はこれまで習得してきた華道、書道、そして絵画を融合させた表現に取り組んでいきたいと語る。中村さんは、老いて未だ目的のある喜びを持ち続けることが長生きの秘訣なのかも知れないと教えてくれた。「老いて未だ目的のある喜び」とは、なんて良い言葉なのだろうか。

編集部

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