ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》やムンクの《叫び》などが小さな箱庭風のジオラマとなって並んでいる。ほかにも《鳥獣戯画》やミレーの《落穂拾い》など見知った平面作品が立体造形になっている様に思わず感心してしまう。古今東西の名画だけでない。机の上に並べられていたのは、音楽家の肖像から動物、アニメに至るまで、作者の興味関心に基づいた幅広いジャンルの作品であり、すべてが親指から手のひら大ほどのサイズだった。表面のふわふわした毛並みが作品に独特の緩さを与えているが、これらは立体刺繍(スタンプワーク)と呼ばれ、すべて刺繍を立体的に縫い合わせてつくられたものだ。その歴史は古く、17世紀のイギリスにおいて鏡の周囲や宝石箱の装飾などに使用されたことから広まったと言われている。作者の神谷厚志(かみや・あつし)さんによれば、これらは本に載っている型紙などを参考にしたものではなく、すべて独学で制作したものだというから、思わず口元が緩んでしまう。
静岡県の最西端・愛知県との境に位置する湖西市。この街の閑静な住宅街の一角で神谷さんは夫婦2人暮らしを続けている。1956年に6人きょうだいの末っ子として愛知県豊田市で生まれた神谷さんは、小学校1年生の頃に父親が病気で他界し、母親が女手ひとつで家計を支えてきたという。
「小さい頃は、とにかくわんぱくな子供で、小学校の先生からよく怒られていましたね。手先は器用な方で、竹でピストルや竹とんぼを自作していました。絵を描くことも好きでしたけど、姉や兄の方が上手でしたね」。
電子回路や電子技術などの「弱電」に興味を抱くようになった神谷さんは、中学生の頃には技術クラブへ所属。学校を卒業した後は、市内の工業高校の電子工学科へ進学。高校卒業後は、湖西市内の電子機器製造業へ就職し、磁気コアメモリの研究開発へ携わるようになった。
「実用品としては、キャッシュディスペンサーやレジスタのメモリにも使われていました。働き始めて3年が経った頃、自らの見識を深めるため、静岡大学浜松キャンパスの工学部情報工学科へ入学し、夜間通学を始めたんです」。
大学で学んだ知識を活かし、27歳からはシステムエンジニアとして抜擢された。タイやスリランカ、台湾、シンガポール、中国など海外拠点の工場などに派遣され、海外を飛び回るようになった。2020年1月に63歳で退職するまで、44年間勤め上げた。
そんな神谷さんに転機が訪れたのは、64 歳を迎えた同年9月のこと。自宅でプランターを使って野菜や植物を育てるなどしていたが、働きに出ていた妻から、あるとき「家の中でボーッとしてちゃいかん、ボケるで指先使ったらどう」と指摘された。夫婦で書店に立ち寄り、何か指先を使う活動はないかと探してみたところ、偶然手に取ったのが「立体刺繍」の本だったという。
「どっちがやってもいいよねと試しに購入してみたんです。刺繍は女性が取り組むような活動だと思われているかも知れませんが、とくに抵抗はありませんでした」。
当初は、書籍に掲載されていた通りに、布を刺繍枠に張って立体刺繍を作成していたが、途中で「これなら自分でもできるのでは」と、自ら考えた図案へ取り掛かるようになったというわけだ。薔薇の立体刺繍を見様見真似でつくったことを機に、観葉植物や盆栽など、様々なテーマに挑戦するようになった。
「針金で形をつくって、それに包帯どうしがくっつく『くっつく包帯』を巻きつけて支持体にすることを思いついたんです。その表面を刺繍していけば、どんな形でもつくれるようになったんです」。
近年ではアクセサリーも制作するなどして、これまで200体ほどを制作し、妻や孫からのリクエストに応じることもあった。「売ってほしい」という話があったときは、材料費をいただく程度で積極的に販売などはしていない。構想から完成まで数週間を要することもあるようだ。
「熱中していた頃は、1日10時間ほどやっていたこともあるんですが、いまは疲れてしまうので1日4時間ほどですね。老眼で目は見えにくくなっているんですが、指先を使ってやってるのがいいのか、それほど悪くなってはいないんですよ。ただ、作品が初期の頃よりは複雑に高度になっていますから、やっぱり目が疲れてくるんですよね」。
神谷さんによれば、新たな構想が思いついた際にアイデアを書き留めておくのだが、平面のモチーフをいかにして立体にしていくかを考えるときがもっとも楽しいのだという。「平面作品なんて裏側は見えないわけだから、それを想像して考えるのが楽しいんですよね。だから形はつくりたいんですけど、縫うのは単調な作業だから他の人がやってくれないかなぁって思うときもありますよ」と笑みをこぼす。少なからず前職で培った回路設計の職能が活かされているのだろうか。
「でも、自分ではまだ納得できていないんです。形をつくることに満足して、綺麗に縫うことまでは達成できていませんから。現在はフェルメールの《牛乳を注ぐ女》を制作しているんですが、女性が被っている白い頭巾の質感を再現するのに苦労しています。今後は千手観音像や風神雷神などにも挑戦してみたいですね」。
そう話す神谷さんの作品が初めて公の場所に展示されたのは、いまから2年前のこと。妻が孫の送り迎えのために湖西市ふれあい交流館を訪れたとき、偶然に建物の一角で展示場所を見つけたことがきっかけとなった。以来、毎年1ヶ月ほどの展示を行い、今年で3回目となるという。それまで生活圏のなかで視界に入らなかった場所が、作品を通じて、身近な人の解像度がこんなにもクリアになっていく様はなんとも興味深い。妻は「会社の人に見せたら『凄い』とみんなに驚かれて」とインスタグラムで作品を紹介するようにもなった。いまでは良き理解者であり、アドバイザーでもあるようだ。
400色以上の糸を揃え、作品によって使い分けながら制作に没頭する日々。体を動かすことが好きで、サッカーは46歳まで、ソフトボールに至っては60歳過ぎてまで汗を流してきた。神谷さん自身もここまで熱中していることに驚きを隠せないでいるようだ。道具箱に視線を移すと、少し先の曲がっている針を見つけた。どうやら神谷さんが自ら曲げたものらしい。「少し曲げた方が表面を掬いやすいんですよ、こんな針は売ってないですからね」と教えてくれた。なるほど、独学自習であるため、いろいろな壁に当たってしまうようだけど、それを独自の発想や工夫で乗り越えていくのが楽しいんだろう。腰痛防止のためにバランスボールに座って針仕事に取り組む姿に、僕はどこか可笑しみを感じてしまう。
それにしても、湖西市ふれあい交流館で発表をする以前に、本作の存在は誰にも知られることはなかった。いまも決して多くの人に知られているとは言い難いけれど、それでも神谷さんはそれでいいのだと語る。誰かからの評価など気にすることもなく、社会的役割から離れ、悠久の時間を縫うという行為に費やしていく。一針一針刺していくことで生まれてくる様々な形とそこに費やされた膨大時間を想起したとき、浮かび上がってくるのは、神谷さんのつくる喜びそのものなのだろう。誰にも邪魔されることのないそんな時間の過ごし方を、僕たちも早く味わってみたいものだ。