刺繍絵画とは、日本画家が描いた下絵をもとに、刺繍でつくられた絵画を指す。明治期の日本では、工芸(染織品)と芸術(絵画)の区別が曖昧で、日本画家が染織品の下絵を製作していたため、芸術性の高い刺繍が製作され、海外で高く評価されていた。日本を代表する美術工芸品であるものの、その多くが輸出されたため、これまで日本人が実際の作品に出会う機会はほとんどなかった。
「刺繍絵画の世界展 ‐明治・大正期の日本の美‐」は、国内の貴重な刺繍絵画を中心に、当時、同じように人気を博したビロード友禅や、それらの下絵も展示するものだ。
まずは刺繍絵画の代表的な作品を見ていこう。《老松鷲虎図》は、1884年(明治17年)に第13回京都府博覧会に、1885年(明治18年)にロンドン万国発明品博覧会に、それぞれ出品されたもの。刺繍糸を白から黒のグラデーション10色に染め分けて刺繍を行っている。
展覧会監修を手がけた京都画壇に詳しい京都女子大学名誉教授・廣田孝は、本作品について「虎の絵で知られる岸竹堂が下絵を描いており、虎や鷹、松が複雑重なりあう複雑な構図」と語る。
また、明治期の工芸史を専門とする北野天満宮北野文化研究所室長の松原史は本作の見方を次のように示す。「東京展では、刺繍には見えないという声もよく聞いた。本作は、色と色との境界線をよく見てみると、針穴が少し見えたり、若干ながら糸が剥落しているところがあるので、よく見てみてほしい。いずれにせよ、江戸時代は大名家や寺院らの人々をパトロンとしていた刺繍職人たちが、明治期になり新しい表現を求められて模索していたのがよくわかる名作」。遠くから見ると、水墨画のように見える本作も、近づいてみてようやく刺繍であることがわかる。
《獅子図》は、髙島屋が明治から大正にかけて欧米に向け輸出した作品のひとつ。下絵を神坂雪佳の弟で日本画家の神坂松濤が手がけている。この下絵にはさらにもととされた絵があり、それはハンガリー人画家でおもにイギリスで活躍したヴァスリフ・ゲーザの油彩画であることが判明。髙島屋がどこからか入手した油彩画のカラー印刷図版をもとに、下絵を製作したと考えられている。展覧会では、この《獅子図》とともに、理由はわからないものの反転した下絵、そして松濤が参考としたであろうカラー印刷図版をあわせて展示している。
廣田は、この作品について「当時から髙島屋はロンドンに出張所を構えており、刺繍や染色で下絵になりそうな作品を探して日本に送っていたりしたようだ。本作品の原画も、その過程で日本に送られたのではないか」と推測する。そして、松原は次のように語る。「明治時代は様々なモチーフが描かれるようになった。写実的な動物もそのひとつ。ライオンのたてがみの描写の細かさには圧倒されます。糸の向きを変えるだけではなく、糸の撚りの違いで質感を出していたりする。江戸時代までなかった刺繍の技法なども研究されており、その結果がこの表現につながっていると想像できる」。
刺繍絵画のモチーフとして動物のほかに、古来から描かれていた花鳥画も人気があったという。《孔雀図緞帳》は下絵を担当したのは明治時代の京都画壇の代表的存在であった今尾景年。製作に約4年かかったそうだ。廣田は日本画の見方で本作を次のように分析する。「孔雀のつがいが木の上に止まっている構図。美しい羽を持つ雄はあえて羽を畳んだ状態でおり、画面の対角線上に羽が広がっているのが見どころのひとつ」。いっぽう松原は次のように評する。「ゴージャスな図柄として人気のある孔雀図は、目がポイント。いい作品は目が『生きている』と言われている。腕のよい職人を呼んできて、目だけを刺繍することもあるほど。本作も、目に肉(刺繍の下に綿を入れたり、ステッチを重ねるなどして、刺繍を立体的に魅せる技法)を入れているのがわかります」。
動物画、花鳥画とともに風景画も海外のニーズが高かったが、なかでも水が描かれている作品は、刺繍職人にも絵心が求められた。水の反射や流れるスピード感を表現するため、職人たちは新しい技法や糸の太さや撚りの強弱なども駆使し、絶え間ない研究を重ねていたという。
《波》は生地のすべてに刺繍が施されている総刺繍の作品。廣田は本作品を次のように評した。「波のうねる様子、水面に反射する光などが細かく描写されており、空の描写は印象派の影響も受けているかのよう。波を描いた刺繍絵画は他にもあるが、非常に質の高い優れた作品」。また、松原も次のように語る。「波に光が当たって反射する様子は近代ならではの表現です。人気の柄で、同系統の作品も多く製作されており、そのひとつはイギリスのヴィクトリア&アルバート博物館にも収蔵されている」。
同じように、水の表現に細心の注意が払われた作品が《瀑布図》だ。「この作品は大阪府箕面市にある箕面の滝を描いたものです。同じ構図の絵葉書とともに展示しています。滝の表現はもちろん、紅葉の葉の色づきや、水面に張り出している場面も美しい」(松原)。松原はこの作品を、刺繍絵画の最高峰に位置づけていると評する。「江戸時代に名人と呼ばれていた刺繍職人たちが、写実的な刺繍に取り組んだときに苦労したもののひとつとして『滝』があったと言われています。滝がまっすぐに流れ落ちていく様は、普通の糸でまっすぐに刺繍するとそうめんのように見えてしまう。また、滝壺の水の乱反射は絵画でも表現が難しい。そのため、何度もやり直しを重ねたそうです。川のせせらぎや、滝壺の轟音も聞こえてきそうな作品です」。
これまでに紹介してきた刺繍絵画と趣が若干異なるのが《大工図》だ。「画面右に繍印で竜という字があります。これは昭和の時代まで京都で製作を続けていた『昇竜』という、職人工房の印。この工房は肖像画や風俗画を得意としていました。まだらなひげまでリアルに表現されている」(松原)。このような肖像画、風俗画もまた日本土産として海外の人々に人気があったという。
完成までに非常に時間のかかった刺繍絵画と同時期に出現したのが「天鵞絨友禅(ビロード友禅)」だ。松原はビロード生地について、次のように語ってくれた。「ビロード生地はパイル(輪奈)状になっています。このパイルの頂点部分をカットすると起毛し、光沢と温かみのある風合いが生まれます。同じ色でも起毛していない部分はマットな雰囲気になるので、その風合いもお楽しみいただければ」。
本展では数多くの刺繍絵画、ビロード友禅に加え、髙島屋が設置していた「髙島屋画室」が製作した下絵も展示している。岸竹堂、幸野楳嶺、今尾景年などのほか、竹内栖鳳も画室で下絵製作を担当していたという。
日本ではなかなか見ることができない技工をほどこした刺繍絵画や、ビロード友禅とその下絵が一堂に会する貴重な展覧会。この機会に、京都髙島屋に足を運んでみてはいかがだろうか。