雑多に広げられたブルーシートや、細かい図形と色彩が弾けたようなドローイング。一度は耳にしたことのあるポップ・ミュージックと、身体のエネルギーの発散と密閉を繰り返すようなダンス。ダンサー・アーティストのAokidはこうしたソロ作品やドローイングの制作と並行して、代々木公園を回りながら出演者が作品やパフォーマンスを発表する「どうぶつえん」など、都市のなかで自身も含めたアーティストのための発表の場をつくり続けてきた。いつもの公園から舞台を移し、トーキョーアーツアンドスペース本郷の企画公募プログラム「OPEN SITE」で「どうぶつえん in TOKAS 2021」(1月15日~17日)を終えたAokidに話を聞いた。
ストリートから「都市」へ
──Aokidさんはイベントを「主宰する」というより、ほかのアーティストたちと発表の場を「つくる」活動を続けられています。まずは、現在のような活動形態にいたるまでの経緯を教えてください。
僕は中学生のころからストリートダンスをしていて、東京造形大学の映画専攻に入りました。そこでパフォーマンス・アートや現代美術に触れて、コンテンポラリー・ダンスがどのようにつくられているかという制作の方法の部分に関心が向きました。高校生のときにも、友達を誘って文化祭で「ウォーターボーイズ」をやったり、ひとりで実験的に踊ったりしていたんですが、意識的に創作をスタートしたのは大学に入ってからです。大学も映画専攻と言いつつ自由な場所だったので、ダンスという専門的なものよりは、お客さんが参加できるような創作をしたいと思って手探りで始めました。
ストリートダンスは20歳まで本気でやっていたんですが、特定されたジャンルで優劣をつけることに対して葛藤がありました。僕が始めた頃はまだ日本のブレイクダンスのシーンのなかに、日本人特有の体の面白さやマニアックでオタクな感じを生かす流れがあったんですが、だんだんアメリカのクラシックスタイルがかっこいいという認識が世界的にも広まっていったんです。自分の所属するチームも活躍しはじめた時期でしたがその流れに乗れず、だんだんと「ここじゃないな」という感じが強まっていきました。
日本のヒップホップにも言えることだと思うんですが、アメリカとは違う状況でスタイルだけをコピーする嘘っぽさや違和感を強くストレスに感じたんです。高校3年生くらいから銀杏BOYZとかパンクミュージックを聞いていて、そっちのほうがリアルで切実な身体があるなと。変な工夫をしないと、テクニックとリアリティの両方に乗り越えられない部分があると思っていました。そこから、すごさを競うストリートダンスの場ではなく、本を読んだり映画を見たりして感動するみたいな、もっと自分のなかにあるポエティックな要素を表現できる場所をつくりたいと思うようになりました。
そのころ同時並行で、自分でイベントをしたり、ほかの人が主宰するイベントに参加したりしていました。なかでもアーティスト・大木裕之さんの「たまたま」というイベントは、その内容と大木さんの日記が連動していて、mixiを使ったコミュニティづくりも画期的だったと思います。様々な人が集まっていて、大木さんから無茶振りをされることも多かった。あるいは、あるコミュニティの人が集まったBBQの場でいきなり踊ってと言われたり(笑)。最初はよくわからずにとにかくやっていたのが、そうした経験で鍛えられて、いつのまにか自分ひとりで、どこででもアウトプットできる技術に変わっていったように思います。
──ソロ作品の発表やイベントの開催と並行して、ドローイングの制作も継続されています。2015年の第12回グラフィック「1_wall」ではグランプリも受賞されていますが、ドローイングはAokidさんの活動のなかでどのような位置づけにあるのでしょうか。
ドローイングは大学のとき「一枚の紙を埋め尽くそう」という誰にでもあるような動機から始めました。アーティストのたかくらかずきくんが当時同じ学科にいて、講義中に絵を描いていたのを真似したんです。私写真的なものも流行っていたので、自分が行った場所で写真を撮ったり文章を描いてみたりと、ダンス以外の表現もだんだん増えていって、それらをセットで考えていました。
その後大学を卒業してすぐ、多摩川の河川敷でピクニックをして、それが緩やかに紙芝居やパフォーマンスの発表に変化していくというイベントをやりました。そのときに描いた紙芝居を「1_wall」に応募したら展示できることになって。それから5年くらい毎年「1_wall」に応募して、2015年にグランプリをもらったんです。はじめは自分でも描いているものがいったい何なのかわからなかったんですが、だんだん判断がつくようになってきました。ドローイングはそういう意味で練習の場になったり、または「描く」こと自体が目的になったりしていると思います。
──「どうぶつえん」は2016年にスタートしましたが、その前身として様々なイベントをつくっていらっしゃいますね。
2014年くらいから、屋外で「ブルーシート」というイベントをしていました。色々な人と話すのに飲み会だとお金がかかるし、公園にブルシートを持っていって集まれば多少安上がりだなと思ったのがきっかけで、飲み会じゃなくてちゃんと話す、プレゼンするというのがポイントです。現在は演劇カンパニー「新聞家」を率いている村社祐太朗くんも参加してくれたりして面白かったんですが、やはりわかりあえなさもあって。向いている方向が違う人たちが言葉だけでコミュニケーションをするとどうしてもぶつかって、会話が動かなくなってしまったりするんです。それから、「ヨコハマトリエンナーレ2014」にあわせて会場の周辺でゲリラパフォーマンスをする「make some noise」や、渋谷駅でのパフォーマンスなども行っていました。
小さな単位から都市を変える
──「都市」は多くのアーティストが扱っているいっぽうで、大きくとらえにくいテーマでもあるように思います。実際に介入することで都市を変えていこうと考えた具体的なきっかけなどはあったのでしょうか。
もともと都市を舞台にした映画や音楽が好きだったんですが、大学生のころ、友人とアムステルダムやベルリン、ロンドン、パリと、ヨーロッパの都市を回る旅行をしたのが大きなきっかけのひとつだと思います。その友人はいつも面白い都市を探している人で、その考えにも影響を受けました。
ひとりでニューヨークに行ったときには、「自分たちがここでやってる」という雰囲気を強く感じました。地下鉄の駅で踊っている人たちに混ぜてもらったことが何回かあって、一緒に踊ったあと地面に腰を下ろしてみると、行き交う人の見え方が全然変わってくる。東京はショッピングには適しているかもしれないけど、「自分がいまここにいて、何かできる」っていう気にはあんまりさせてくれないですよね。たぶんどこでも同じようにそれぞれのやりづらさがあるはずですが、自分たちでその都市を読み解いて、景色をつくり変えるアクションに参加して試していくことが必要だなと思いました。いまは、多感な学生の時期に思っていたことを実践を通して少しずつ熟成させ、身についた技術で活動しているという感じがします。
それからだんだんいろんなジャンルの乗り気な人たちとのつながりも増えてきて。これからの活動についても気軽に相談できる人がいて、協力もしてくれそうな雰囲気がありました。そこで、代々木公園を回りながらアーティストの発表を見るという「どうぶつえん」のアイデアが浮かびました。代々木公園では多様な人たちがみんな豊かに過ごしているように見えるから、景観を塗り替えるというより、遊びに来ている人たちとこちらの集団のアクションが、景色のなかに同時にあるということを大事にしたいなと。
いっぽうで、「どうぶつえん」には美術やダンスに興味がある人が集まっていて、ある程度専門性が高い場になっています。そこで人前に出ていく動機には、芸術の技術を使ったプレゼンテーションを日常のなかに出現させたいという思いがあります。公園のなかに現れたちょっと違う空気感やリズムを持った集団のやりとりを目にすることで、見た人が少しでも考えを変えられるはずだし、発表者にもフィードバックがあると思うんです。興味を持ってくれた人やのぞいていく人には話しかけて、内容や目的を話したり、プリントを配ってその場でプレゼンしたりもしています。
──ある程度のハードルが設定されているというのは、発表する側が共通の認識をつくるためにも重要なことですね。最近では、代々木公園から街にも舞台を移し、渋谷ストリーム付近でのストリートパフォーマンスも行われています。
渋谷のストリートでやりはじめたのは、「どうぶつえん」以上に気軽に、路上ミュージシャンのような軽やかさでパフォーマンスをしたいと思ったのと、個人的に歌の技術を上げたかったからです(笑)。それと、公園以上に都市の核に近づくというような意味もありました。最初は歌とダンスを半分ずつくらいの割合でやっていたんですが、コロナがあるので歌をやめて1時間踊ることにしたら、そのシンプルな方法が意外としっくりきたんです。
普通だったらストリートパフォーマンスは立ち止まって見てもらうことが目的になると思うんですが、僕は行き交う人や車、街の灯りと一緒に踊っています。歩いている人の目線に飛び込んだり外れたり、一緒に横並びに踊ってまた抜けたり。するとかかっている音楽がその人の体に入ってきたり、歩いている状態が一瞬誰かのユニゾンに思えたり、ということが起きていくのではないか。それはこちらの予想でしかないですが、いわば奇妙な体験を生む場所としてやっている。基本的にはそれぞれ移動する目的があって街のなかを歩いているわけですが、一瞬誰かが介入して小さな接点を持つことで、ストリートのなかで自分の存在をもう一度認識できるのではないかと思います。
──通り過ぎる人と踊りあう関係は、「ソーシャルディスタンス」という言葉が当たり前になった現在の状況ともリンクしているように思えますね。
直接的な接触がなくても、一瞬ニコッとしてくれる人や、一緒に踊っていく人がいたりして。ちょっとおせっかいみたいな感じはあるんですが、その人に触れたり傷つけたりすることなく、距離感をわかってやっていることが伝わると、ポジティブな、そうでなくてもある種の変な経験になるのかなと思っています。迷惑そうな人には「だよね」って顔をして、それでも踊りながら避けていったり(笑)。
日によっては気持ちが上がらないまま踊りはじめるんですが、通りゆく人との一瞬のコンタクトの積み重ねにだんだんと励まされたり、踊りあうだけでなくただ話す時間がまれに生まれたりもします。踊り終えたときには街や人のことをちょっと好きになっていて、街の単位で、あるいは小さな動きの単位で、僕たちにもっとできることがあるんじゃないかという気が起きてくるんです。他人は思っているより優しいということがダンスを通してわかってくるというか。ぜひ誰でも参加しに来てほしいです。
豊かな土壌としての「どうぶつえん」
──コロナ禍でも活動を続けながら、今年1月には「どうぶつえん in TOKAS 2021」を開催されました。これまで「どうぶつえん」に参加した約80名が出演する3日間のプログラムでしたが、発表を終えてみて、率直にいかがですか?
「どうぶつえん」はこれまでその日の催しとして終わってしまっていたので、一度アーカイブ的な側面を持たせたいと思い、TOKASの「OPEN SITE」に応募しました。最初はシンポジウムのようなものを想定していたのですが、大人数で集まることもできない状況なので、やり方を変えていく必要がでてきました。最終的には3~4人程度でチームを組んで発表する形式になり、会場に作品を展示する人やオンラインで参加する人もいました。
イベントの運営という面では、これまで手伝ってくれていた人たちとチームをつくって、自分がしっかりマネジメントしていこうと思っていました。でも終わってみると、例えばテンションが上ったときにメールを返したり、一人ずつコンタクトしたり、それらの作業を僕自身の体を通した有限なパフォーマンスの延長としてやっていたという感覚があります。当日も全体像に対して決まっていないことが多すぎて、劇場での公演に比べたら即興性が高い現場でした。だからこそ、そこでそれぞれが何をするのかというのはすごく面白かったですね。プロフェッショナルな現場ではなく、友達ということに頼るみたいなことが多かった(笑)。もちろんその分抜けてしまう部分もありましたが、エラーがあるという前提を共有して運営することができたように思います。
──当日の記録映像はYouTubeでも見ることができます。1チーム3~4人に対して2時間の枠が設けられていますが、発表にも色々な密度があるのが印象的でした。
チーム決めは、僕が面白いかもと思った組み合わせで組んでもらったり、あるいは時間の関係でやむを得ずという場合もあったり、あるいは希望があればそこで組んでもらいました。手が入った部分とそうでない部分がまばらになっています。普段の「どうぶつえん」は3~4時間くらいなのですが、今回は1日7時間あったので相当な長丁場でしたね。
それぞれの発表には、美術や演劇などの文脈を共有していないとわかりにくい部分もありました。ほかのイベントだったらそういう部分を整えて見る人のための動線をつくるかもしれませんが、今回はそうではなく、アーティストのための時間になるといいなと思っていたんです。傲慢かもしれないけど、みんなのことを面白いと思える僕という前例があるから、誰かにとって退屈でもそれが重要だと言える、と考えていて。
──そうした前提も、これまで約4年間の活動を通してアーティストたちとつくってきた土壌があるからこそ成り立つものですね。
まずは、得体の知れないイベントの第1回に集まってくれたアーティストに感謝ですね。2回目は1回目に見に来てくれた人などに声をかけて、3回目以降だんだん知れ渡っていった感じがあるんですが、そうやって「この人となら一緒にやれる」という人がいろんな分野に見つかって本当によかったです。初めて会う人と作品を介してコミュニケーションをして、関係が始まるのはすごく豊かなことだと思います。そして一度関係を持った人と、その後も一緒に何かに取り組むことができればいいなと。
──ひとつの基準を設けることでイベントのある種の質を高めていく方法もありますが、「どうぶつえん」では、作品以前に存在するその人の考え方やアイデアに重きを置いていることが大切であるようにに思います。
「どうぶつえん」は、発表する人に先生になってもらう時間みたいだなと思っていて。誰かに教えることによってその人は自分の技術を自覚するだろうし、教わる側にも尊敬する気持ちが生まれる。芸術にはもともとそういう部分があるはずで、絵を見せたり人前で踊ったりするのは、改めて自分の考えをプレゼンテーションし、それについて見る側と検証するということだと思うんです。これからは本屋さんや料理人、学校の先生など、もっといろんなジャンルの人を呼んで、ゲリラスクールや青空教室みたいなことをできたらいいなと考えています。それぞれの分野で技術や経験がばらばらな人が集まり、誰もが先生になりうるというか、先生と生徒の立場が入れ替わっていくのが大事だと思います。
──とても面白そうです。「教える」方向にフォーカスすると、これまで以上に仕組みづくりが重要な要素になりそうですね。
大ざっぱな言い方ですが、うまいシステムをつくるみたいなことが、日本はずっと下手だったと思うんですよね。政治もそうだし、ハラスメントの原因もそこにあると言えるかもしれませんが。僕も、その場ごとにやっていくフォーマットしか持ち合わせていないという実感があるので、集団などで形式を受け継ぎながら変化も伴うような仕組みや動き方を探そうとしています。