まずは知っておきたい「芸術実践とジェンダーの平等」について。社会学者・山田創平
シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(5)

世界経済フォーラム(WEF)による2018年度版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は「調査対象の149ヶ国中110位」という低順位であることが明らかになったが、日本の美術界の現状はどうか。美術手帖では、全11回のシリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」として、日本の美術界でのジェンダーバランスのデータ、歴史を整理。そして、美術関係者のインタビューや論考を通して、これからあるべき「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」のための展望を示していく。第5回では芸術、地域、マイノリティといったテーマを研究してきた社会学者・山田創平があるべき「芸術実践とジェンダーの平等」を示す。

2015年から毎年、大阪の釜ヶ崎芸術大学で開催している特別講座「男女と色恋」。山田創平と性教育講師のあかたちかこが、掛け合いでジェンダーについて語る。今年は9月14日に実施予定 写真提供=川端真由

はじめに

 そもそもなぜいま、どのような理由があってジェンダーについて語らなければならないのか。そして、ジェンダーという概念の理論構造を(もちろんそこにはいろいろな立場があるにせよ)、そのおおよその姿を、どれほど多くの人が理解し、受け止めているのか。もともとの私の専門はHIV感染対策だが、いろいろな事情があって現在は芸術に関わる仕事も多い。そのようななかで、とりわけ近年、ジェンダーの平等やセクシュアリティの多様性をテーマに制作を試みたい、あるいは展覧会やフェスティバルを開催したいという話を聞くことが多くなってきたと感じる。それらは間違いなく重要で意義深い社会的動向ではあるが、いっぽうで、そこで語られる「ジェンダー」という言葉が、極めて「限定的」な意味で用いられている場面にも、多く出会ってきた。

 ジェンダーは性別に関する理論であることは間違いないが、同時に現在の社会のほとんど全領域に対して説明力を持つ理論でもある。しかしながらそのような「ジェンダーの理論」の可能性や魅力が、じつはあまりひろく共有されていないのではないかと感じることも多い。かつて哲学者のウイリアム・ジェイムズは『プラグマティズム』(岩波文庫、1957[原著は1907])のなかでハーバート・スペンサーをさんざんに批判した後で、それでもスペンサーが哲学史に名を残す理由についてこう述べている。「彼の諸原理は骨と皮とだけであるかもしれない、しかしとにかく彼の書物はこの特殊な世界の骨組の特殊な型にしたがって、その原理を象(かたど)ろうとつとめている」。

 近年、私は様々な場面で、ジェンダー論の「外形」「構造」「射程」について話してきた。その一部は書物としても刊行した(*1)。それらの議論は、現実に関してはあまり言及しないので、いわば中身のない「骨組み」だけの議論と受け止める向きもあるかと思う。しかし、やはり私はジェンダーという言葉がようやくひろく社会に受け止められるようになってきた現在だからこそ、理論の理解が重要だと思っている。そのため本稿では、限られた字数ではあるが、ジェンダー理論のおおよその外形、構造を、細部を省略し、きわめて大雑把にお話しする。言うまでもなくどのような理論にも様々な立場がある。以下で述べる事柄は、あくまでも私の理解による私の整理である。

ジェンダーの理論

 「ジェンダー」はしばしば「社会的な性別」とか「社会・文化的な性別のありかた」などと説明される。その説明は間違いではないものの、しかし十分とは言えない。なぜかというと、この言い方では、「社会」や「文化」がまずあって、ジェンダーはそのような「社会・文化」という広大な現象の「一部分」というように見えるからである。しかしながら、現在のジェンダー論では、ジェンダーをそのようにはとらえない。ジェンダーは社会や文化の一部分ではなく、社会・文化そのものであり、私たちが「社会・文化」と言うときのその構造は、つまるところ「ジェンダー構造」のことであるととらえる。

 端的に言えば、「社会や文化がジェンダーをつくり出す」のではなく、「ジェンダーが社会や文化を組み立てる」と考えるということだ。その意味で社会や文化を知ろう・学ぼうとするとき、ジェンダーに対する理解は欠かせない。もう少しはっきり言うと、ジェンダーに対する理解がなければ、社会や文化についてほとんど何も知ることはできないと言ったほうがいい。それは美術の文脈においてももちろんそうで、ジェンダーに対する基本的な理解がなければ、美術史も、批評も、現代美術も、地域型アートプロジェクトも何も理解できないのではないだろうか。少なくとも私はそう考えている。

 私たちが普段の生活で「性別」と言うとき、それはほぼすべての場合ジェンダー、つまり社会的性別のことを言っている。いくつかの例を考えてみれば、それはすぐにわかる。例えば地下鉄で隣に誰かが座ったとき、一瞬その人の性別を意識する。地下鉄だけではなく、生活のあらゆる場面で、多くの人は他者の性別を意識する。荷物を届けてくれる配送業者さん、タクシーの運転手さん、学校の先生、会社の同僚、かかりつけのお医者さん、いつもすれ違う近所の人、それがどのような属性の人であれ、多くの場合、たとえ一瞬ではあれそのひとの性別を意識する。それによって、緊張したり、安心したり、感情も動く。だが、そのときに意識している性別は、ほとんどの場合、服装、名前、髪型、化粧などによって判断された、主観的な思い込みである。しかしその思い込みに基づいて、多くの場合、社会生活は営まれる。言うまでもなく服装や名前、髪型や化粧は文化的な現象だから、私たちが普段の生活で意識する「性別」は、文化・社会的な性別であるところのジェンダーということになる。このような感覚で、私たちの身の回りで日々語られる「性別」について考えてみると、そのほとんどすべてがジェンダーであることがわかるはずだ。

 では「ジェンダーではない性別」は存在するのだろうか。かつてジェンダー論では「文化・社会的性別」としてのジェンダーに相対する概念として「生物学的性別」としてのセックスを想定した。しかし、最近ではもう少し丁寧に整理されるようになってきている。生物学的性別と言ったときにその構成要素となるのは、染色体や性腺、性器形態や筋肉量や脂肪の量をはじめとした「体つき」などだが、言うまでもなくこれらには個人差がある。性染色体のあり方にも多様性があるし、性腺の状態も性器形態も体つきも人によって個人差があって、同じ個人においても年齢によって変化する。そのような、複数の構成要素が複雑に絡まり合うなかで、「有性生殖をする人」がいたり、「しない人」がいたりする。いっぽうで社会のなかには生物学的性別を「オス」「メス」という限られた枠組みでとらえようとする、ある種の社会通念や信念が存在する。現実には個人差があるのに、それを社会が、「現実を無視して」2つの枠組みに押し込めようとするなら、その分割は社会的な分割ということになる。現在のジェンダー論においていわゆる「生物学的性別」を「ジェンダー」「文化・社会的性別」に含めたり、極めて近接しているか、ほぼ重なる概念と考えるのはこれゆえである。

 ここで話を戻したい。改めて言うが、私たちが普段の生活で「性別」というとき、それはほぼすべての場合ジェンダー、つまり社会的性別のことを言っているのである。

 さて、次に「社会的」という言葉の意味を少し掘り下げてみたい。社会を構成する要素には、例えば法、経済、歴史、戦争、思想、規範など様々なものがあるが、「社会的性別」という言い方には、私たちが普段使っている「性別」という言葉や概念が、これらの社会的諸要素と連続しているという意味が込められている。例えば「ジェンダー史」という研究が成立するのはこれ故である。性別は社会的なものなので、社会に歴史が存在するのと同様に、性別にも歴史が存在するし、研究することもできる。端的に言えば、ジェンダー規範やジェンダー構造は、時代や地域よって大きく異なるということだ。

 つまり、現在、私たちの社会で当たり前になっている性別に対する意識、現在の社会のジェンダー規範やジェンダー構造は、いま、この時代、この地域において独自のものであって、それ以上でもそれ以下でもないということになる。では「いま、この時代」とはどのような時代かといえば、それは資本主義の時代、つまり「近代」ということになろう。

「近代」とジェンダー

 近代を構成する重要なイデオロギーに資本主義と国民国家がある。このふたつは分かちがたく絡まりあっているが、本稿ではとくに資本主義をひとつの切り口に、ジェンダーを考えてみたい。マルクスの『資本論』を引き合いに出すまでもなく、近代資本主義社会の生産システム、資本家と労働者の関係は、一般的におおよそ以下のように説明されるだろう。すなわち、資本主義的な生産システムのなかで労働者は自らが生み出した富の一部分を給与として受け取る。そして残りの部分は資本家によって資本蓄積される。

 この蓄積により資本家は設備投資を行い(工場を拡張して)、さらに多くの労働者を雇用し、生産効率を上げ、さらなる資本蓄積をすすめる。このプロセスがいわゆる経済成長である。資本主義社会においては、このプロセスの過程で、労働人口が増加し、場合によっては給与所得も増加する(例えば日本の高度経済成長期のように)。いっぽうでマルクス主義においては、資本家による資本蓄積を「不当な搾取」ととらえるので、生産活動によって得られた富は資本家によって資本蓄積されるべきでなく、労働者に対して公平に分配されるべきであると考える。これをここでは便宜的に「第1の搾取」としておきたい。

 このような資本家の労働者に対する搾取の現状(第1の搾取)をまずは踏まえたうえで、じつはその背後にもっと深刻な搾取があると指摘したのがマルクス主義フェミニズムである。詳しくは上野千鶴子の『家父長制と資本制』(岩波書店、1990)を読んでいただくとよいが、マルクス主義フェミニズムでは第一の搾取の背後に、構造的で極めて深刻な、男性による女性に対する搾取があると指摘する。

 ごくごく簡単に説明すると、こういうことである。例えば戦後の日本社会を考えるとわかりやすい。戦後日本社会の特徴的な現象のひとつが「専業主婦」である。社会のなかでもとりわけ典型的な家族形態のひとつが「会社で働く夫」と「専業主婦の妻」という組み合わせである。夫は「モーレツ社員」で、朝から晩まで働くが、それが可能なのは妻の家事労働があるからである。食事の用意も、掃除も洗濯も妻がやってくれるから、夫は朝から晩まで会社で働くことができる。長時間労働は企業の業績にも直結し、これにより資本家は莫大な資本蓄積を実現することができる。だが、そもそも夫の長時間労働が可能になったのは妻の家事労働のおかげだとすれば、企業は妻にも給与を支払うべきではなかったか。しかし現実には妻の家事労働に給与は支払われない。家事労働は「無賃労働」である。これが搾取でなくてなんであろうか。

 この構造は、ちょっと引いて見てみると「搾取」であることがすぐにわかるのだが、この構造のなかにいると、その事実になかなか気づかない。例えば、この理屈に立てば、夫が持ち帰る給料袋の中身の半分は妻のものということになるが、実際、戦後の日本社会にそのような認識がどれほどあったかといえば、ほとんどなかったはずである。夫が妻に給料袋を渡すとき、妻は「夫により養われている存在」「夫によって、経済的にひいては心理的に支配される存在」になる。ここに構造的な「ジェンダーの格差」が立ち現れる。この価値観はメディアや教育を通じて、社会の規範となり、社会の覇権的な言説としての地位を獲得していく。ここに関してはすでに様々な研究が存在しているけれども、テレビアニメーション『サザエさん』が「国民的アニメ」と言われる事実ひとつを考えてもその社会通念や社会規範の構築過程がうかがわれる。

 つまり多くの人は、磯野家を「これが普通の家族」と思うということだ。そして多くの場合、その家族の形態は、はるか昔から「幸せな家族のかたち」として、「伝統的に」存在していたと誤認する。言うまでもないが、そこで描かれる家族像は近代資本主義社会が滞りなく運営されるために、ごくごく最近、近代以降に、明確な意図をもって編み出された「新しい」人間関係(いわゆる近代家族)である。

「近代家族」の苦悩

 近代家族には他にも多くの問題がある。先に述べたように、資本主義はゆるやかな人口の増加を前提としている(設備投資により大きくなった工場や会社で働く、新たな労働者が必要だから)。なので、近代家族では子供が生まれることが理想的とされる。今日、少子化が問題だとされる理由もそこにある。生まれた子供は、「愛情によって結ばれた」両親が「無償の愛情を込めて育てる」ことが理想的とされる(それによって子育てという高コスト事業を行政が担う必要がなくなり、財政支出が縮減でき、法人税減税が可能になる)。そして子供が生まれる関係、すなわち「異性愛」が前提的な人間関係とされる。

 つまり、近代家族は、そもそも構造的に、社会をあげての女性に対する抑圧・差別、単身者や、シングルマザー、非嫡出子に対する差別、離婚した人、同性愛の人々に対する差別を内包しているということになる。そしてこのような構造のなかで、私たちの社会における「性別に対する価値観」「見方」「意識」、つまり「ジェンダー」が日々かたちづくられている。だとすると、現在の社会における「ジェンダー」には、極めて根深い、構造的な女性差別や、マイノリティ差別が内包されているということになる。私たちがいま生きる社会は、つまりはそういう社会だということだ。

 この構造の中心には「異性愛男性」がいるが、これはグローバルに言えば、「ヨーロッパにいる異性愛男性」ということになるので、それ以外の地域の男性はローカルからグローバルへと視野が移った瞬間、中心から弾かれ、周縁化される。植民地主義やポストコロニアリズム、サイードのオリエンタリズムの議論や、スピヴァクのサバルタンについての議論などがその様子を詳細に描き出している。いわゆる「日本の美術史」が、このような錯綜した権力構造の渦中で成立してきたことは言うまでもない。

いま重要なこと

 さて、説明が長くなったがここからが本論である。あいちトリエンナーレ2019で芸術監督を務める津田大介が、「参加アーティストの男女比を半々にする」と宣言したという話を聞いたとき、私は日本のアート界においてこの実践のもつ意味が非常に重いものであると感じた。私自身は微力ながらも、1990年代からセクシュアル・マイノリティの人権やジェンダー平等を求める市民運動に関わってきたので、ようやくここまで来たのだなという実感もあった。

 いっぽうで津田の提案には多くの批判があるとも聞いた。ここまでの私の議論を読んでいただければわかることだが、社会の構造的な不公正を変えるには、社会の構造それ自体を制度的に変える以外に方法はない。参加アーティストのジェンダー比率を半々にするという実践は、現時点において、理論的にも、理念的にも正当な実践であると私は考えている。本稿では触れないが、とくに1990年代以降、いわゆる新自由主義のひろがりによって、一見「セクシュアリティの多様性」「女性」をテーマとして扱い「ジェンダー平等」を実現しているかのようで、じつはぜんぜんそうではない(むしろそれによって資本家による資本蓄積がすすむ)表現が目につくようになってきたと感じている。あいちトリエンナーレでの実践は、これによって「誰かが儲かる」という話ではない。そこで目指されているのは「経済的自由」ではなく「政治的自由」「不公正の是正」であって、だからこそ資本主義・新自由主義的な社会のただなかにおいて、社会に異議を申し立てる方途として力を持つのである。

 そもそも今日の芸術的実践、とくにいわゆる現代的な美術の実践において、既存の社会や価値観やシステムを斜めから見たり、これまでになかったまったく新しい価値観の提示が、ひとつの方向性として目指されているのだとしたら、そもそものその「既存の社会」について、きちんと理解していなければ、何もできないはずである。誰が権力を握っており、誰が排除されているのか。そこを見誤ると、芸術的実践は、強者による弱者の搾取になりかねない。弱い立場の人たちを傷つけることで成立する「アート」や「芸術」など見たくはない。そのような実践は、たんに現在の社会において流布する既存の価値観や規範を上塗りしている実践であって、ひとつのコマーシャリズム、消費主義に過ぎず、つまりはそれ自体がすでに「過去のもの」「すでにある社会の後追い」である。

 今後、芸術の文脈において重要になるのは、「ラディカルであること」に対する理論的で明確な説明力であり(本稿ではその際に役に立つ理論のひとつがジェンダー理論であると言っているわけだが)、これまでの慣例や惰性とは一線を画した、社会的な文脈をきちんととらえた芸術批評や作品評価であり、ジェンダー平等を実現するための様々な「構造改革」であり、社会を覆い、アート界をも覆う構造的なマイノリティ差別への明確な対決姿勢であろうと、私は考えている。

*1──山田創平「なぜ性は語りにくいのか」(SWASH編『セックスワーク・スタディズ』2018、日本評論社、所収)