ミヤギフトシ連載21:ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』『わたしのいるところ』変身の選択肢

アーティストのミヤギフトシによるレビュー連載。第21回のテーマは、イタリアで考えた、イタリア語での執筆も行うアメリカの小説家ジュンパ・ラヒリの作品について。自身の作品のためリサーチしていた天正遣欧少年使節のエピソードを重ねながら、「変身」をキーワードに読み解く。

文=ミヤギフトシ

ヴェネチアの路地 撮影=ミヤギフトシ

芸術の力というのは、わたしたちを目覚めさせ、徹底的に衝撃を与え、変化させる力だと思う。わたしたちは小説を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりしながら、何を求めているのだろう?  それまで気づかずにいた、自分たちを変えてくれる何かを求めている。オウィディウスの傑作がわたしを変えたように、わたしたちは変わることを願っている。

ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳、新潮社、2015)

 イタリアに行くのは初めてだった。2015年に開催された、あいちトリエンナーレのコラムプロジェクト『交わる水-邂逅する北海道/沖縄』で発表した、天正遣欧少年使節をはじめとする16世紀のキリシタンにまつわる映像インスタレーション作品《いなくなってしまった人たちのこと/The Dreams That Have Faded》の続編をつくる機会を得て、2019年の冬、私はいくつかの土地を巡った。

 いろいろ調べていくなかで私は、天正遣欧少年使節に惹かれるようになっていた。400年前にヨーロッパを旅し、ローマで教皇に謁見した4人の青年たち。彼らは当地の音楽を学び、芸術にふれ、そして印刷機とその技術を日本に持ち帰ったが、弾圧が激しくなったために、それらが根付くことはなかった。弾圧によって失われた「種子」について、若桑みどりはこう記す。

それが我が国の美術にどのような影響を与えたかはそれらが徹底的な迫害のためにほとんど消滅してしまったのでにわかには言いがたい。しかし、日本における西洋音楽と西洋絵画の種子はこのとき確実に苗床に播かれたのである。その若木は迫害という厳冬を生きのびることはできなかった。しかしそれがわれわれの文化の基層、あるいはわれわれの感性の底に残したものがなんであったか〔……〕

若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 上:天正少年使節と世界帝国』(集英社、2008)

 異国の地で変身のプロセスを経た彼らが見たかもしれない風景が見たくて、まずヴェネチアを訪ねた。使節団がこの街を訪ねたのは、1年8ヶ月にも及ぶ旅の終わりごろ。彼らはアドリア海をどのような思いで眺めただろう。私が訪ねたとき、街では近年でも最悪と言われるアクア・アルタ(高潮)が発生していた。サン・マルコ広場は一時閉鎖されていて、行くあてもなく適当に水没した路地を歩き回る。住宅街の広場を黄色いカヤックに乗った青年が横切ってゆく。どこか非現実的な光景に見とれた。我に返りカメラを構えたけれど、カヤックはすでに角の向こう側へと消えていた。

ヴェネツィア、水没した広場 撮影=ミヤギフトシ

 イタリアに初めて行くにあたり、そして制作のヒントを求めるように、私はジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』を手に取った。カルカッタ出身の両親のもと、アメリカで育ち、英語で小説を発表してきた彼女が、次第にイタリア語に惹かれ勉強をはじめ、2012年、家族とともにイタリアに移住する。そして、イタリア語で作品を発表するようになる。ラヒリはヴェネチアで、自分のイタリア語がまるで華奢な橋のようであると考える。下には英語という水が流れている。橋が壊れて落ちても、泳げる。でも、その水にふれたくない。

 ヴェネツィアの町を歩くのは、イタリア語で書くのと同じように、驚きに満ちた経験だ。黙って従うしかない。書いていると、袋小路や狭苦しい街角にぶつかることが何度となくあり、そこから自力で抜け出さなければならない。途中で離れなければならない道もある。絶えず修正しなければならない。イタリア語を書いていると、ヴェネツィアにいるときと同じように、息が詰まり、気が動転していると感じる瞬間がある。そこで向きを変えると、予期していない時に限って、人気がなく静かで光あふれる場所に出る。

ジュンパ・ラヒリ(中嶋浩郎訳)『べつの言葉で』(新潮社、2015)

 ラヒリの初期作品に登場するイタリアの街もヴェネチアだ。2003年にアメリカで出版された『その名にちなんで』の主人公ゴーゴリが、2000年にヴェネチアを訪ねている。ロシア人作家ニコライ・ゴーゴリから取られた名前を嫌い、18歳の時にニキルと名を変えた青年。しかし、外の世界で名前が変わっただけで、家族も、そして著者であるラヒリ自身もまた、文中で彼をゴーゴリと記し続ける。つまり、ニキルという名前は家族以外の誰かとの会話にしか出てこない。または、友人や恋人を家族に引き合わせたときに。そんなときに両親が間違えてゴーゴリと言ってしまうことを、彼はひどく嫌がっている。マンハッタンで生まれ育ったマクシーンと付き合い始めるも長続きせず、母親が会ってみることを勧めてきたインド系二世のモウシュミと結婚する。しかし、パリに留学経験があり、研究者としてのキャリアも視野に入れるモウシュミにとって、結婚生活は次第に息苦しいものとなり、彼女は浮気に走り、そして結婚は破綻する。すでにヴェネチア行きのチケットを買っていたこともあり、ゴーゴリはひとりぼっちでヴェネチアを旅する。その風景は、寒々しいものだ。

リド島、閉鎖されたビーチ 撮影=ミヤギフトシ

 ヴェネチアという海に囲まれた、しかもそのときは水没していた場所にいるのに、周りは濁った水ばかりで海を見逃している気分だった。開けた海を見たくなり、私は船でリド島に向かった。映画『ベニスに死す』(1971)の舞台にもなったビーチがある。しかし季節は冬、ビーチはすでに閉鎖されていて、フェンスの向こうに寒空の下コテージが並んでいた。海にたどり着けないまま、ヴェネチア本島に戻る。潮位が下がり入れるようになった夕暮れ時のサンマルコ広場は空も水面も鮮やかなオレンジで、突如街が色を持ちはじめたように感じる。

 夫の死から数年、夫に先立たれ子供たちが自立したことで、ゴーゴリの母親はインドとアメリカを半年ごとに行き来する生活を始めることを決意する。物語は、彼女の送別パーティーで終わる。ベンガル系の知人たちが集まるなか、ゴーゴリは自室でひとり、父がくれた名前に思いをはせる。彼は、ニキルという名前のまま、名前や、家族をつなぐ歴史を思う。物語を通してゴーゴリは、変身を試みる。しかしどこかそれは不完全な変身に見えて、最後も父親とのつながりを再認識して終わる。

 ラヒリは1994年に妹とふたりでフィレンツェを訪ね、イタリア語に魅せられる。理解できないイタリア語の響きから、「雷の一撃」を受ける。しかし、「わたしとイタリアの関係は亡命の地、別離の関係で進行する」と彼女は書く。そして同時に、自身が「言語的な亡命とでも言うべき生活に慣れていた」と。ベンガル語を話す両親のもとに育ちながら、自身のベンガル語はおぼつかない。彼女にとって、「母語が外国語」だった。

自分のものでない言語から引き離されたと感じることが、どうしてできるのだろう? 知らない言語から? たぶん、それはわたしがどの言語にも完全には属さない作家だからだろう。

ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳、新潮社、2015)

 それから、家庭教師のもとで学び少しずつイタリア語を習得していく。そして7年後、2000年の春にラヒリはヴェネチアを訪ねる。ゴーゴリがその街を訪ねた年と同じだ。それから何度かイタリアを旅した彼女は、ローマに引っ越すことを決める。

夕暮れ時のサン・マルコ広場 撮影=ミヤギフトシ

 ヴェネチアを後にして、フィレンツェに向かう。いくつかの教会や美術館を訪ね歩く。使節団が見たかもしれない風景、そしてふれたかもしれない芸術。『クアトロ・ラガッツィ』で若桑みどりは、神父らは少年たちにボッティチェリの絵画やミケランジェロのダビデを見せたがらなかっただろう、と指摘する。刺激が強すぎるから。彼らがもし、より多様な美術作品を見ていたら、と想像する。そしてその経験が、日本で次の世代に託されていたら、と。

 『その名にちなんで』をはじめラヒリ作品の多くは、インドから移り住んできた一世世代、そして彼らの子どもたち、二世世代の変身を描く。ゴーゴリなどの二世世代は、アメリカで人生の大半を過ごし、英語を常用し、インドには精神的にも距離感を持っている。見合い結婚をし、アメリカでもインドの文化や習慣をできるだけ維持しようとする両親に対して、自分たちはそうはなりたくないという願望がある。様々なかたちで彼らは、変身のプロセスを続ける。

サン・ピエトロ大聖堂のクーポラから 撮影=ミヤギフトシ

 ラヒリの小説のなかでもっとも劇的な変身のひとつを描いたのが『低地』(小川高義訳、新潮社、2014)だろう。カルカッタで育ったスバシュとウダヤンの兄弟。スバシュはアメリカに進学。ウダヤンは革命運動にのめり込み、射殺されてしまう。スパシュはウダヤンの妻ガウリが身重だと知り、そのままインドで寡婦として不自由な暮らしを送るよりは、自分の妻としてアメリカに来ないかと提案する。ガウリは乗り気ではないものの、それに従う。アメリカで娘のベラが生まれ、ガウリは自分の勉強時間が削られることに不満を持つ。研究者としてキャリアを築こうとするも、スパシュは協力的ではない。ベラに対する感情にも確かなものを感じられずにいる彼女は、ある日何も言わずに家族のもとを去り、カリフォルニアでひとり、新しい暮らしを始める。スパシュや娘ベラにとっては、破壊的とも言える裏切りだろう。しかし私は、自分が生き抜くための身勝手で大胆な変身に、少しの希望をみる。選択肢は存在している、ということに。