椹木野衣 月評第98回 新しき「原発の図」 貝原浩「風しもの村 チェルノブイリ・スケッチ」原画展
貝原浩については、2010年に刊行された大判の画文集『風しもの村』で初めて知った。もっとも、手にしたのは福島原発事故以降のことになる。チェルノブイリの事故現場の「風しも」(=汚染地帯)に位置するベラルーシの小さな村(チェチェルスク)を繰り返し訪ね、そこに残ることを選んだ「サマショーロ」と呼ばれる人たちを描き、惜しまれつつ2005年にガンで亡くなった画家がいたことを知ったからだ。そんな画集が東日本大震災の前年に出たというのも、今から思えば何かの前触れだったのだろう。
なかなか原画を目にする機会を得られずにいたところ、1992年に画家自身と現地を同行した写真家、本橋成一さんのご自宅で、ふと目にしたチラシが本展を伝えていた。場所は日比谷公園、市政会館内の小さな展示スペース。決して恵まれた場所ではない。しかし、ここは事故を引き起こした東京電力本店を道一本挟んですぐの場所に臨み、文字通り「中央」という「風かみ」であると同時に、福島から放射能が届いた「風しも」にもあたっている。そして今年はチェルノブイリ事故からちょうど30年。いろいろな曲がり角が交錯しているように感じながら、1929年に竣工し、今では東京都選定歴史的建造物に指定されているという建物の厳かな玄関を、初めてくぐった。
待ち受けていた貝原の絵に、私はいきなり驚かされた──まさか、こんなに大きかったとは。手漉きの和紙の上に墨で描き、丹念に色づけされ、印象を綴った文が寄せたれた絵を、私はもっとずっと小さなものだと感じていたのだ。
貝原はきっと、あの果てしなく広い大地や、そこに生きるたくましい人たちを伝えるには、小さな紙では物理的にも十分でないと感じたのだろう。にもかかわらず、老人たちから子供たちにまで至る、あの表情や動作の細やかで生き生きとした様子はどうだろう。これほど大きな絵が、まるで手づくりの絵本のように、繊細に色づけされているのに、私は目を釘づけにされた。
だが私は、立ち入り禁止区域に戻った人たちが、その「外」で暮らす人などより、はるかに生き生きと見えることの恐ろしいギャップについても考えざるをえなかった。貝原が身をもって予告していたかのように、福島原発事故のあとでは、これらの絵はもう、決して遠い遠方の出来事と片付けられない。震災以降、北は札幌から南は広島まで、5年間で31回もの展示が求められてきたという事実が、何よりもそのことを物語っている。今回のタイトル「ここは風しも、そして風かみ」は、そうした矛盾を示して余りある。私たちは、この美しい絵を通じて悩み、考え続けなければならない。
奇しくも、私自身が参加している福島県内の帰還困難区域で開催中の〈見に行くことができない〉展覧会「Don't Follow the Wind」も、「風」を扱っている。かつて貝原は「風しも」の地を訪ねて繰り返し境界線を超えた。いま私たちは「風を追うな」と唱えながら境界線の向こうに足を運び続ける。その違いはいったいなんだろう。どこに帰結するのだろう。その答えが出るのはまだ少し先なのだとしても、きっと、そんなに遠い未来のことではないはずだ。
PROFILE
さわらぎ・のい 美術批評家。1962年生まれ。近著に『後美術論』(美術出版社)、会田誠との共著『戦争画とニッポン』(講談社)、『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)など。8月に刊行された『日本美術全集19 拡張する戦後美術』(小学館)では責任編集を務めた。『後美術論』で第25回吉田秀和賞を受賞。
(『美術手帖』2016年10月号「REWIEWS 01」より)