回帰する写真
3月のアート・バーゼル香港には、ここ数年の絵画ブームが終わる予兆があった。写真の回帰である。賞味期限を見切って低いハードルで選ばれた「売れ筋」の画一的なペインティングが市場に溢れて久しかったから、その予兆には確かな手応えがあった。台北のEach Modernが中平卓馬をフィーチャーし、ヘラルド・ストリート、 Mai36、タカ・イシイギャラリーといった著名ギャラリーが、ポピー・ジョーンズ、トーマス・ルフ、荒木経惟の作品を展示し、次の潮流を示唆していた。話を日本写真に限れば、森山大道(とウィリアム・クライン)のテート・モダン展(2012年)に象徴されたブームがその後に続くこともなく、杉本博司はその作品の集大成としての江之浦測候所に専念するあまり写真表現からは遠ざかったようで21世紀の最初の15年ほどに上昇した日本写真の再発見と再歴史化の熱は、いまでは沈静化したように見える。祭りの後で、写真は新たなステージを迎えている。
Yumiko Chiba Associatesでは連続企画「写真を問う」の第1部として鷹野隆大の「bodies」が開かれていた。先の東京都写真美術館での「カスババ」展は、その洗練されたインスタレーションで好評だったが、その洗練は2021年の国立国際美術館での回顧展「毎日写真1999-2021」に遡る。インスタレーションの意味は、作家による自らの過去作品の再発見・再解釈である。写真だけでなく、写真の見せ方をも見せるという方法論は、見せ方次第で写真の意味は変わりうるという脆弱性を示唆する反面、写真自体を撮影された被写体から解放することでもある。あらゆる写真は、自然に撮ろうが作為的に撮ろうが、どのみち作為であるほかはない。何かを「ありのまま」だと判断することに勝る作為があろうか。これを踏まえて、鷹野は上の方法論を、まず絶対的につまらない、毒にも薬にもならない被写体「カスババ」に適用したのだった。そして今回はその正反対、鷹野作品の被写体のなかでもおそらく最もインパクトのある「キクオ」に絞ったインスタレーションである。

ダイアン・アーバスは、彼女の「フリーク」な被写体について、決して替えのきかないスティグマ(アーバスはトラウマという言葉使っている)を帯びた絶対的な被写体である点で「彼らは貴族です」と述べた。絶対的な被写体の前では、ありのままであるかないかという判断自体も、写真の見せ方にも意味がない。「ウルビーノのヴィーナス」の「オランピア」のフリークな見立てによる「キクオ」もまた「貴族」のひとりであるだろう。その絶対性をどのように中和するか。それは分割と断片化、つまりトルソにすることである。「bodies」が複数形であるのは、たくさんの身体があるからではない。キクオのひとつの身体をトルソにすることが、世界を断片化すること=写真の本質のひとつに通じていく。「キクオ」は、写真を撮るということのメタファーとして再解釈される。

KOSAKU KANECHIKAの天王洲と京橋の両会場では、武田陽介の新旧作品が見られる。武田はキヤノンの写真新世紀で注目され、2014年には作品集『Stay Gold』を出版、「Digital Flare」のシリーズで知られていた。その後体調を崩して活動を停止していたが、去年、再デビューした。「Digital Flare」は、カメラ=箱の中に光を入れ、空間に音を響かせるように光を反響させ増幅してつくられる。高解像度で撮影された写真の細部に、光のテクスチュアが泡立ち、作者は光の泡に満ちたカメラ=部屋のなかに没入する、と。他方で、作家はその没入に対して距離を取る。箱の中の光を撮影した写真は、写真の原理の写真、メタ写真である。とくに「Digital Flare」は、強い逆光に向けられたレンズがハレーションを起こして、レンズ自体の存在を画像上に刻印する写真であるため、写真というメディアが透明性を失って、間に挟まった機構(=メディア)として露顕する写真として理解できるからだ。去年から開始された新シリーズのモチーフは箱の中の光ではなく、表面に結露した水滴である。部屋の中で、撮影条件をさまざまに変化させながら撮影を繰り返し、そこに生じた膨大な数のイメージから厳選された作品が展示されている。これらは一見ありがちなレンズを使わない抽象写真に見えるが、じつは、小さな水滴の、その無限の多様性を映し出すストレート写真である。極小世界の乱反射のなかで結像する具象の豊かな変容を、観客が認知するためには、ある程度の時間が必要であろう。つまり気散じのワイド画面=横位置よりは、注視の縦位置がふさわしい。が、メイン会場の作品はすべて横位置で、つまり損をしていた。隣室の縦位置作品のほうが、その訴求力において明らかに勝っていたからである。

武田作品と呼応するかのように、馬喰町のkanzan galleryでは、岡本明才の小回顧展「Pinhole Camera Extended」が開かれていた(企画=菊田樹子)。岡本は、高知市の名物「違法建築」として知られるあの沢田マンションのコミュニティに関わり、地元で草の根のアート活動を展開してきた。その作品は独特のピンホール写真で、写真のこの最も基本的な原理の本質を新たに認識させるものである。ピンホール現象では、対象から発せられた光が小さな穴を通過して結像するわけだが、像は、その穴のサイズのピクセルによって形成される。穴=ピクセルが小さければ緻密な画像となり、大きければぼやけた画像となる。また、光は到着した面に結像するので、像は穴と正対する面のみならず、左右の壁、床や天井にも出現する。さらに、自然現象に区切りはないから、穴が小さくても大きくても、等しくピンホール現象は発生する。つまりその穴が窓の、戸口の、開口部全体の大きさであろうとも、像が極大にぼやけるせいで人間の眼に「像」として見えないだけで、実際には部屋の外界の倒立像が出現している。光を通す入り口をもつ空間の内部は、つねに外界の像で充満しているのである。

遠近法は、空間を満たしているという意味で立体的と言えるこれらの像を、光の入射口と正対するひとつの平面に集約する概念であった。ピンホールにはレンズがはめ込まれ、その焦点距離に合わせて、スクリーンが仕立てられた。16世紀を通じて広く普及していったカメラ・オブスクラは、ロラン・バルトの言う「屈折光学的芸術」を支える装置でもあった。空間を満たす光の粒を任意の表面(平面とは限らない)ですくい上げていた写真の原理は、投影という原理によって平板化され、レイヤー化され、ピントの概念に縛られるようになった。岡本の作品は、ピンホール写真の本来の原理が、レイヤーではなくピクセルにあること、つまり写真の最古の原理が、最新のデジタル写真の原理に通じていることを露わにしている。
ピンホール現象といえば、ヴォルフガング・ティルマンスの「Paper Drop」シリーズの核心にほかならない。ティルマンスは、目下、大規模改築のための閉館前の最後の展覧会として、パリのポンピドゥ・センターの2階(元図書館)の空間をすべて使った個展「Nothting could have prepared us−Everything could have prepared us」を開いている。諦念と後悔の滲むタイトルからは、フランス大統領の名を冠した建物での記念展に、著名ドイツ人作家が招聘された理由、つまりアメリカ、ロシア、中国の横暴に対抗すべきEU=統一ヨーロッパの団結力、つまりは独仏の団結を強調するという理由がうかがえるが、展覧会自体は、ティルマンスのすべてが図書館の巨大空間の中で満遍なく展示された結果、どうしても薄味になる恨みが残った。
(『美術手帖』2025年10月号、「REVIEW」より)

























