女性画家たちが描いた戦争画
「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」(東京国立近代美術館)
米軍からの無期限貸与として戦争記録画153点を収蔵する東京国立近代美術館では、「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」が開催されていた。過去最多となる戦争記録画24点を展示した本展は、コレクションだけでなく、借用した作品や資料なども合わせて、1930年代から70年代の戦前から戦後にかけての時期に、戦争がいかに「記録」され、またどのように「記憶」されたかを、美術館という記憶装置において問うものであった。

日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸海軍は前線における兵士たちの姿を内地に伝え、それを永遠に留めるべく、画家たちに作戦記録画の制作を依頼した。写真による迅速な記録と伝達が可能な時代に、絵画はなお、描かれる対象の神話化に貢献するメディアであると考えられていたのだ。戦争画は、西洋絵画のヒエラルキーの最上位を占める歴史画に倣って、大胆かつ厳かな構図で大画面に展開され、戦場の兵士たちの活躍を伝える一大スペクタクルとなった。ドラクロワやベラスケスの歴史画に範を取った藤田嗣治の戦争画は、勇壮な迫真性で今も観る者に迫ってくる。しかしその芸術性こそが、戦争画の位置付けを困難にしている。たんに国民を総力戦に導くためのプロパガンダなら廃棄しても良いが、芸術作品であるなら保存・公開すべきであるというアポリアを抱えているのである。戦争画は、人間に潜む暗い欲望を露わにしながら、芸術が熱情で人々を束ねて突き動かすプロパガンダになりえることを、鋭く突きつけてくる。
さて、本展に展示された勇壮な戦争画はほぼ男性画家の手によるものだが、女性画家たちが描いた戦争画も展示されていた。長谷川春子が呼びかけ人となって結成された「女流美術家奉公隊」による《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944)である(*2)。奉公隊には三岸節子や桂ゆきも参加しており、桂がその下図を手がけたという。

吉良智子著『女性画家たちの戦争』によると、女性画家たちが戦争画を描くことになった背景には、複数の要因があった。まず、1943年に画材が配給制になり、丙ランクに位置付けられた多くの女性画家が絵を描き続けるには、戦争画しかなかったということ。また、陸海軍に献納された戦争画は、当時日本全国を巡回して大変な人気を博したといい、押し寄せた観衆は、絵画を前に兵士たちの活躍に喝采を送り、ときに涙を流した。当時日本画に比べて需要が低かった洋画の、さらに女性画家たちが、戦争画に向ける大衆の賞賛に浴したいと思っても不思議はなかった。
しかし女性画家たちが描いたのは、戦争画の花形としての戦闘図ではなく、女性や老人、子供たちが過ごす銃後の生活であった。《大東亜戦皇国婦女皆働之図》は歴史画を思わせる大画面ではあるものの、約50人の女性画家たちが代わる代わる部分的に描いているため、全体の統一感を欠き、巧みな写実性や精緻な構図は見られない。工場や建設現場、通信所や農村で勤労奉仕をする女性たちの姿を描いたこの絵は、雄々しさや緊迫感がなく、どこか牧歌的で和やかでさえある。
学徒勤労動員が発布された翌年の1944年に女子挺身勤労令が出され、12才から40才未満の女子の軍需工場を含む様々な場での労働が義務付けられるようになった。奉公隊は絵を描いて国に貢献するだけでなく、幾人かはこうした勤労奉仕にも積極的に従事したという。男性画家が戦争画に描く女性の多くが、銃後で兵士のために祈り、また偲ぶ姿で描かれるのに対して、本作で女性画家たちが描いたのは、ともに手を携えて働く姿であった。しかし、多くの女性画家が短期間で描き上げたこの巨大な絵画は、その明るさのなかに、国民を同じ方向に向かせた時代の空気の同調圧力も、また感じさせるのであった。
*2──「女流美術家奉公隊」による《大東亜戦皇国婦女皆働之図》については、吉良智子『女性画家たちの戦争』(平凡社、2015)を大いに参考にさせてもらった。



















