社会的関与の芸術
写真性をつきつめることで絵画を開拓する作家(城戸保、1974年生まれ)と、絵画によって写真を、写真によって絵画を相対化する作家(野村浩、1969年生まれ)の展覧会。ほぼ同じ世代で(昭和40年代生まれ)、どちらも芸大(愛知と東京)の油画の出身であり、絵画について、見ることおよび見る主体について考える、すなわち社会と根本的に関わるために、写真に手を伸ばした。以下の議論において、フレームは認識のフレーム、レイヤーは制度的思考の比喩として読み替えられる。
城戸保が徹底的に追求するその「写真性」とはレイヤーのことである。それは、スティーグリッツのストレート・フォトグラフィ、すなわちシュルレアリスムによって変質しドキュメンタリーへと流れていく以前の、第1世代のモダニズム写真へと遡る。20世紀初頭、同時代のピクトリアルな写真から「分離」したスティーグリッツは、ピカソやブラックのコラージュに「写真のイデア(idea photography)」を求めた。コラージュが、既存のものに新しいフレーム(レイヤー)を重ねるプロセスであるなら、既存の世界に新しいフレームを与えるプロセスが写真である、つまり「写真のイデア」はフレーミングにある、と。万人の頭上に広がり、人工物の矩形──自動的に画面内にレイヤーを生み出す──から自由な「雲」をフレーミングするだけで成立する「イクイヴァレント」は、いわばゼロ度の写真であった。存在するすべての物象は「写真に撮られる」=「レイヤーになる」ということにおいて「等価」なのである。
写真の本質はフレーミングにある、と。古典的なストレート・フォトグラフィにとって、それは撮影時に構図を決めることであり、その結果、画面が複数のレイヤーの積層として現れることである。それぞれの面を底面とする四角錐の頂点、すなわち「視点」は、大抵の場合、一致するか、画面から当距離の位置に散在する。しかし城戸は、フレーミング(=矩形の設定)とレイヤー(=透明面の出現)をまったく別々に構成する。写真を見るとは、レイヤーを見ることにほかならないが、それらレイヤーは四角い風景に統一されない。とはいえ城戸作品は、加工された画像ではなく、あくまでもストレート・フォトグラフィである。作家は、対称性など被写体同士の関係性から生まれるレイヤー、画面を構成する色面のレイヤー、光の受光面、反射面、影の面、水面、鏡面、風景のなかの矩形、看板や壁の塗装面、撮影された風景を前後に分断するピントの面、画面を横断する数字や文字(コラージュにおけるステンシル文字に同じ)、そして最後に「光画」と呼ばれるテクニック(*1)による光の帯……等々、様々なレイヤーを出現させ、それらレイヤーから想定される視点同士の距離感を意図的に混乱させる。
その混乱の方法として縦横に利用されるのが、大型カメラによるアオリ(レンズの光軸に対してレンズ面やフィルム面を動かすこと)と、撮影時の視角を裏切るように施されるトリミングである。城戸は、フレーミング、大型カメラ内でのフレーミング(アオリ)、そして撮影後のフレーミング(トリミング)を連動させて、一見、身近な無人風景のなかに、小さな「?」や「!」を細かい気泡のように発生させる。アオリによるリリパット効果の風景に、通常の距離感の自動車(城戸作品のなかではサイズの指針として機能する)が映っている! 自動車と大木の両方を収める引いた構図のその木の枝の端に、目に見えるサイズ=巨大すぎるトンボが映り込んでいる! 石壁に長い影を落としているはずの枝が見えない! 蝶の影もあるが蝶はどこにも飛んでいない? ……見れば見るほど、名古屋近郊の日常雑景は、眺めるための安定した距離感、つまりは視点(誰が何を見ているのか)を失っていく。城戸が開拓する風景画は、見る人の内面や主観性の投影ではなく、それらの分解である。
デイヴィッド・ホックニーによれば(*2)、レイヤーすなわち投影された映像を超絶技巧の油彩で定着させるタイプ、いわば描かれた写真としての絵画は、すでに15世紀末、凹面鏡による像を用いて制作され始め、17世紀にはカメラ・オブスクラの普及とともに主流となっていた。ピーテル・パウル・ルーベンス(1577〜1640)やフランス・ハルス(1582〜1666)の、ダイナミックなタッチを活かした作品群は、そういう主流の絵に対抗して描かれたと言える。一つひとつのタッチやストロークを隠さない「ペインタリー」な絵画は、じつはアンチ写真絵画として描かれ始めたのだ。以降の西洋美術史は、写真的なスタイルとペインタリーなスタイル──アングルとドラクロワ──の競合として発展してきた。写真術の発明は、前者を自動化したに過ぎない。
しかし例えばマネの、小型カメラによる表現を先取りする視角や《フォリー・ベルジェールのバー》の大きな鏡、モネの睡蓮連作における水面の出現、デュシャンが絵画に渡した引導としての「大ガラス」などを見ると、写真術の普及につれて、むしろレイヤーの意識がペインタリーな絵画を侵したように見える。写実の役目を写真に奪われた絵画は、たんなる写実を超えた印象、象徴、抽象へと、つまり「見えないもの」へと向かった。モダニストのクレメント・グリーンバーグによれば絵画の本質とは「平面性」であり、それは目に見えるすべての像を支えている、見えない非物質的な面、つまりレイヤーのことである。「見えないもの」へ向かったモダニズム絵画が、見えない「レイヤー」を再発見した、と。戦後のカラーフィールド・ペインティング、ゲルハルト・リヒターのフォト・ペインティングやアブストラクト・ペインティング、さらにはデジタル画像加工ソフトの基本概念として、投影面と視点による四角錐のモデルに基づく視覚の制度は、いまだに支配的である。
それに対抗する「ペインタリー」な絵画には、四角錐の頂点に位置する主体とは異なる質の主体が含まれる。ジャック・ラカンの『精神分析の四基本概念』ⅥからⅨ章は、そのような主体の「眼差し」をめぐる絵画論である。ラカンにとって投影面はつねに、ひとつの主体の視点からのそれ(上述の四角錐モデル、ラカンの言葉では「実測的な光学」)であるとともに、無意識の欲望に浸透されたものであり、すべての画像には、主体に加えて、主体を超える影(シミ、傷、無意識)が二重に写し込まれている。一枚の絵画には、視点としての主体に対応する消失点と、絵を見る主体にとっての盲点の2つが含まれると言い換えてもよいかもしれない。野村は、この盲点を眼差しとして描く。言い換えれば、作家は世界を描くとともに、世界の境界を描き入れるのである。本展に合わせて出版されたアーティストブック『Painter』には、先行する『CAMERAer』(2018)の続編に相応しく、絵画と写真をめぐるいくつもの概念が、独特のキャラクターとなって登場する。その概念的キャラクターたちの記念写真およびスナップショットが、油彩、シルクスクリーン、映像、グッズとなって本展を構成している。必要最低限の自由闊達なタッチで描かれた心地よい作品群が、絵画と写真のあいだの狭くて際どい批評空間を守っている。
*1──「36枚撮りのカラーネガフィルムを撮影後、カメラの蓋を僅かに幾度も開けながらフィルムを巻き戻す事で、画面上にランダムな異次元の光の層を現出させる」行為。同展サイト内、作家のステイトメントより。
*2──David Hockney. Secret knowledge: Rediscovering the lost techniques of the Old Masters. London: Thames & Hudson, 2001.
(『美術手帖』2024年4月号、「REVIEW」より)