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気配が写真する。椹木野衣評 高崎恵「Studio Nest Ⅱ」展

大分県国東市国東町で開催されている高崎恵によるプロジェクト「Studio Nest Ⅱ」展を、美術批評家・椹木野衣がレビュー。20年ほど前にドイツのインゼル・ホンブロイヒ美術館で遭遇したという「気配を感じる」美術体験をもとに語られる、高崎のプロジェクトやその作品はどのようなものか。現代における美術館システムがいかに気配を遮断する構造となっているかについて触れながら考察する。

文=椹木野衣

高崎恵 Peninsula 2009- ピグメント・プリント 150×200cm ©Megumu Takasaki

気配が写真する

 気配というものが存在する。科学的根拠はと聞かれても困るが、そのようなものを感じることがあるという事実に変わりはない。特徴としては、多くの場合、たったいま自分の視野を占め、見えているはずのもの以外の何かから見られているような気がする、ということではないだろうか。音(聞いているのに聞かれている)や匂い(嗅いでいるのに嗅がれている)など、ほかの感覚器官でも同じようなことがあるかと聞かれると、触覚(ふれているのにふれられている、しかしそれは、直接性の高い触覚では気配ではなく事実だ)を除くと、すぐには思いつかないからだ。美術の体験は原則として見ることを通じて成り立つとされているから、目前でしっかり視野を占める作品を見ているはずなのに、どういうわけだか見られているような気がするとしたら、その場合の気配とは、いったいどのような状態なのだろうか。念のため付け加えておくと、これはその人が見ている、例えば絵画なら絵画に描かれている人物が、描かれた目を通じてこちらを見ている気がする、というようなこととは一線を画する。

 わたしが美術を通じてもっとも強くこの気配を痛感したのは、ドイツはデュッセルドルフの郊外にあるインゼル・ホンブロイヒ美術館を訪ねたときのことだ。その由来や成り立ちなどについてこの場で詳しくふれる余裕はないが、この美術館の展示室には空調設備も照明もなく、したがって夕闇が迫れば作品はほとんど見えなくなるし、季節や天候が見る者の体験に直に反映される。しかしそれだけではない。入り口は時に開け放たれており、外気がそのまま室内へと侵入し、秋には枯れ葉まで吹き込んでくる。夏には虫だって入ってくるだろう。加えてこの美術館の展示室に監視員は不在で、見たかぎり監視カメラも取り付けられていなかった。作品への危害や盗難の恐れにはびっくりするほど無防備だったのだ(20年近く前の話だ)。

 そんな状態のなかでわたしが発見したのは、普段わたしたちがいかに限られた窮屈な条件のもとで美術作品を見ているか、見せられているか、ということだった。美術館というのは、改めて言うまでもなく、わたしたちの体験を人為的に、かつ人工的にひどく制約する場所でもあるのだ。なかでも「監視」というのは美術作品を体験するうえでひどく厄介な代物だ。監視員のことだけを言っているのではない。いまでは街の至るところに仕掛けられている監視カメラはもちろんのこと、美術館は公的空間なので衆人環視というのも大きい。しかもこれら「衆人」は、それぞれがスマホによって広大なネット空間に常時接続されている。人気の美術館では作品以上に周囲の観客の存在がおのずと目に入ってくるが、そのときわたしたちは作品を見ているようで、複数の視線によって見られているのだ。だが、これからわたしが言おうとしているのは、そのような意味での「見られている」ことではない。その場合は気配ではなく、本当に見られているのだから。

 インゼル・ホンブロイヒ美術館では、逆に「見られる」要素が一切なかった。そして、そのような一切がないことで立ち上がってくる美術の体験が、いかに普段わたしたちが美術館などから得ているものと根本的に異質であるかを理解した。そのとき初めて、わたしは、たったいま見えているものだけからは決して成り立つはずのない気配というものが、美術作品を通じて見えてきた気がした。端的に言えば、それは誰かから見られている、という感覚だった。つまり、そこにはないはずの隠れた視線というものが見えるような気がしたのだ。

 このような感覚をうまく言い表すのは難しい。だから気配、などという曖昧な表現を使うしかないのだが、表現が曖昧でも体験としては間違いない。そうしてわたしはそのときのことをきっかけに考えるようになったのだが、例えば絵なら絵を見るという体験のもっとも原初的な形態は、絵を見ることで絵から見つめ返されるような性質のものなのではないか(しつこいようだがここでの見られるというのは、こちらを見る人物が描かれた絵ではなく「何ものか」としての美術作品そのもののことだ)。そのような体験が美術館で生じることもないわけではない。けれども、先に挙げたような様々なノイズが邪魔をして、こうした原初的な見る/見られるというわずかな(けれども強い)信号が気配として立ち上がってくることは稀である。というより、そのような気配を断ち切るためのシステムが美術館では二重三重に張り巡らされている。だからなのかもしれない。美術作品を公的なシステムから切り離し、私的に所有したいという欲望が生まれるのは。事実、美術作品とその人との一対一の、言い換えれば「見る/見られる」という関係を自分に引き寄せるには、その作品を私物として手に入れるしかない。このような欲望は、よく美術作品の所有化で語られる投機的な側面や、富やセンスの担保としてのインテリア的な側面とは根源から違っている。洲之内徹や、最近では杉本博司などが盛んにそのようなことを言っている。そこに古美術的な側面が強いのは、それはそれで興味深い話だが、わたしにはものを私的に所収する趣味は皆無なので、だからこそインゼル・ホンブロイヒ美術館での体験がことのほか強烈だったのだろう。

「Studio Nest Ⅰ」の会期中、台風で飛ばされた作品
©Megumu Takasaki
「Studio Nest Ⅱ」より、旧牛小屋を使用した展示室の様子
©Megumu Takasaki

 前置きが長くなったようだが、決して前置きではない。というのも、インゼル・ホンブロイヒ美術館で感じた気配の実在を、今回取り上げる展覧会を通じて久しぶりに味わった気がしたからだ。この展覧会は「Studio Nest」と呼ばれ、その第2回「Studio Nest Ⅱ」が2022年の6月23日から開かれ、現在も開催中である。わたしが見たのは23年11月3日のことだったが、夏の時期は会場に蜂が出たため安全を配慮して閉めていたようなので、会期中といってもいつも開いているわけではなさそうだ。だが、それよりも、そもそもこの展覧会が開かれているという情報にたどり着くことのほうがずっと難しい。仮にたどり着いても、会場の場所は大分県国東半島のどこかということしかわからず、詳細が公開されているわけでもなく、それらは展覧会の存在を知った人が作家とコンタクトを取ることで初めて知らされる。会場に到着できた者は、そこで待っている作家自身から簡単な説明を受け、作家が地元で暮らしてきた方々から様々な由縁あって借り受けることができた空き家をひとりで見てまわる。そしてそこには作家の高崎恵が国東半島のほうぼうで撮った写真が、その敷地や展示される空間などとほぼ一体化するかたちでかけられている。わたしはその第1回も訪ねることができたのだが、その点では作家のやり方は一貫し、なおかつ徹底している。今回は展示が始まってから1年半近くが経過していたため、写真作品そのものに周囲の環境がかなりの規模で物質的に干渉しており、一見してはもとからそのような状態であったかのようであった。実際、何も言われなければ作品の所在に気がつかなかった可能性もある。

 このときも、わたしは作品(というかそれを含む環境)を主体的に見ている、という感じがまったくしなかった。わたしは高崎の撮影した国東半島の一角に立っており、その一角に棲んだ人のものであった空き家という「抜け殻」に身を置いて、なおかつ高崎が撮影した国東半島の「どこか」の写真を眺めている。このような入れ子状の体験は、美術作品を周囲の環境から切り離してしっかり見る、凝視する、という主体的な集中そのものを不可能にしてしまう。それどころかわたしは「ネスト︎」と名付けられた蜘蛛の巣状の網に絡みとられ、そのような仕組みを「ネスト」と呼び、披露することを企てた大もとにある写真とその環境によって完全に包囲され、見ようとすればするほど、何か心の底まで見透かされている──そのように強く感じたのである。

 人家や空き地を使うことは、日本ならではの「芸術祭」では常道だ。けれども「ネスト」はそれとも根本的に違っている。そもそも「祭」の一環ではないし、それ以前にそのような展示に出会うこと自体がほとんど偶然の産物で、仮に出会ったからといって、順調にその場にまで至ることができるかどうかは人によって大きく左右される。作家に聞いたところでは、わたしが訪ねた1年半の時点で、来場者の総計は20人であった。年をまたぎ2024年となったいま、それは何人くらいになっただろう。「集客」とは真逆の考えが、ここには「気配」とともに存在する。

「Studio Nest Ⅱ」より 会場風景
©Megumu Takasaki
「Studio Nest Ⅱ」より 会場となった民家の瓦
©Megumu Takasaki

『美術手帖』2024年4月号、「REVIEW」より)

編集部

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