幽霊はどこにでもいる。清水穣評「幽霊の道具」展

スプラウトキュレーションで開催された「幽霊の道具」展 を美術評論家・清水穣がレビュー。宇田川直寛、横田大輔、草野庸子、濵本奏、古田直人、渡邊聖子ら6名の写真家による作品から、写真の現在形を紐解き、観測する。そこ見られた特徴や傾向は何か、そこから外れる作家の視点はどこにあるのかを考察する。

文=清水穣

草野庸子 Portrait 2023 インクジェットプリント

幽霊はどこにでもいる

 スプラウトキュレーションの新宿区西五軒町での最後の展覧会は、5月の「写真鉱山」に続き、写真の現在をテーマとして宇田川直寛と横田大輔が選出した合計6人の写真家(2人のほか草野庸子、濵本奏、古田直人、渡邊聖子)によるグループ展であった。「写真の現在」をテーマにするとは、先端的なデジタル技術によって、デジタル写真が、アナログ写真に擬態していた状態を脱し、未知の領域へ走り出している近況を踏まえて、あらためて写真とは何かを問うことであり、それは同時に「(アナログ)写真とはなんであったか」を検証し、さらに「(アナログかデジタルかを問わない)写真性とは何か」を探ることでもある。美術におけるオルタナティブ・モダンが、過去のモダニズムのなかから、途絶えた系譜(コラージュ……)、無視されてきた歴史(戦前日本のモダニズム受容、女性の抽象画家……)、そして埋もれた可能性(コンストラクションや実験映像……)を蘇らせているように、それはアナログ写真におけるそのような要素を蘇らせる(ピンホール写真をピクセル写真として再解釈するなど)。

 本展には、6月、アート・バーゼルの「アンリミテッド」に出展した木村友紀のインスタレーションに通じるような、写真の現在が見られた。木村のインスタレーションは、写真というメディウムに「サイズ」という次元がないこと、したがって等身大という概念が一種の盲点として存在することを、極大から極小のサイズまで揃えた同種のオブジェを並べてストレートに表現していた。それは、いわば撮らないストレート写真であった。この「撮らない写真」のアプローチが本展にも見られるのである。かつてモホイ=ナジは、文字を読めない者ではなく、写真を読めない者が未来の文盲となるだろう、と言ったが、裏返せばそれは写真と文字には共通点があるということでもあろう。その共通点とは、それぞれのシステムに抗う外部性をもっていることである。文字は、差異化された音素体系としての言語に対して、写真もまた、言語に従って分節された視覚言語に対して、それぞれの体系や分節からはみ出す部分を備えている。

宇田川直寛 またまた、法 2023 アクリルにUV印刷、カッター、ヒートガンで加工、布に刺繍、紐 サイズ可変

 宇田川直寛の作品では、読めない文字が刺繍された袋に、写真が包まれている。写真は、一定のシステム(=ジグソーパズルの完成画)の平面に収まるべくパズルピースの形をしているが、写真たちはそんな収斂に逆らって立ち上がってしまう(浮遊するシニフィアン)。作家は未来の文盲を演じながら、写真の写真たる所以を、むしろ読めないこと、システムに収斂しないことに求めているのだ。写真と言葉の関係は、古田直人のテーマでもある。小さな災害(アクシデント)の写真には、対応したりしなかったりするキャプションが付されているが、写真の数は、つねにキャプション(言葉)の数を超えている。最後に写真は消失し、かつて写真があった四角い空白を手書きのオノマトペ(ぐるぐる、ざあざあ等々)が取り囲む。オノマトペは、現実の音を聞こえたままに「写した」言葉と考えられがちであるが、じつは、ある言語のなかでもっとも差異化された言葉であって、現実世界に対応物を持たず、差異化された音素の組み合わせだけによって、漠然とした感覚を表出するので、ほぼ翻訳不可能である。ここでは、写真は言葉を超える翻訳不能性として、理解されているようだ。しかし、日本語のオノマトペは、指示対象は持たないが、日本語話者にとっての特定の感覚とは対応する。しかも日本語は基本語彙が少なく、繰り返しによるオノマトペ的語彙に大きく依存している(それ専門の辞書が出ているくらいには)(*1)。この翻訳不能性が、写真が消失したあとに残っているということは、写真は言葉を超えると同時に、外国語に移せないという意味での翻訳不能性をもたない、言い換えれば、翻訳不能でありながら外国語でもそのまま通じるものということになる。それは「名前」である。

古田直人の展示の様子

 横田大輔は、物質としての写真というアプローチで知られているが、むしろ、写真から写真映像を取り除いた残滓を、様々な手段で映像化する作家というべきであろう。例えて言えば、楽器から本来の楽音以外の発音(ノイズ)を聴き出して、作曲に使うのである。プリンターにこびりついた過去の映像の残滓(幽霊!)を、強制的にプリントアウトする、ヴォルフガング・ティルマンスの「シルバー」のシリーズにも通じるが、横田作品には、より手作業感がまとわりついている。興味深いことに、この手仕事のあと、ないし、歪みや未完成への嗜好は、男性作家3人だけに共通する要素で、それぞれの作品のコンセプトとは基本的に関係しない。いわば日本ローカルな思い込みや趣味(アナログ=手仕事;デジタル=全自動)の発現であるから、今後は再考したほうが良いだろう。

横田大輔 Untitled 2023 バライタペーパー、銀塩プリント7枚 220×180cm

 本展の女性作家たちは「撮らない写真」に連なることなく、それぞれに写真作品を展示していた。草野庸子は、そのなかでもオーソドックスであって、写真や遺物を通して私的な記憶の旅をなぞるものだが、もっとも大切な記憶のはずである花屋の写真は、期せずして、金村修のアイコニックな写真──バックミラーに光が反射している──をカラフルに反復している。画面の中の何かが発する光線についてのラカンの有名な挿話が思い出される。「(波間を漂う)その缶は太陽の光を反射してキラキラ光っていました。そしてプチ・ジャンが私にこう言ったのです。『あんたあの缶が見えるかい。あんたはあれが見えるだろ。でもね、やつの方じゃあんたを見ちゃいないぜ(*2)。』」。ラカンにとって、スクリーンはつねに二重の存在であった。それはひとつの主体の視点からの遠近法的投影であるとともに、欲望の眼差しに浸透されたものであり、すべての画像には、主体と、それを超える影(欲望)が写し込まれているのである。

草野庸子 Portrait 2023 インクジェットプリント
濵本奏 Vanishing Point 2022-2023 プリントと映像のインスタレーション

 同じ主題が、濵本奏のインスタレーション「Vanishing Point(消失点)」にも通じている。遠近法の消失点とは、言うまでもなく、見る主体の視点に対応する画面内の点である。しかし濵本作品は、他人の夢の風景を──それに近い風景写真を──断片化して、訪れる者もないどこかの廃墟にインストールするもので、消失点に対応する主体が決して現れないところが要である。いわばランドアートのように、遠い彼方でずたずたになった(=消失点を消された)夢の風景を、再撮影した(=あらたな消失点を付与した)作品が、いま眼の前に展示され、新たな消失点に対応する、新たな主体を待っている、と。

渡邊聖子 Summer Solstice 2020 2020 810×67cm(フレームサイズ)Courtesy of Sprout Curation

 参加作家のうち、3人の男性は手づくりで「撮らない写真」を制作し、2人の女性は「もうひとつの主体」を追い求めていた。6人目の渡邊聖子は、仲間はずれとまでは言わないまでも、やや外れた位置にいる(作品の優れた完成度という点でも)。「夏至」は、生命のエネルギーが頂点を迎える夏至の日に、枯れた花を供えて撮影し、オリジナルの額とともに展示するシリーズ。冬至の日にキリストの誕生日が重ねられたように、生命力が最低の日は上昇開始点として、最高の日は下降開始点として、それぞれには、その正反対の影がつねに寄り添っている。「香水」のシリーズも合わせて、知的な美意識と、そこに付きまとって離れない暗い影(欲望、エロス)の共存は、コリエ・ショアを思わせる。

*1──松本道弘『難訳・和英 オノマトペ辞典』さくら舎、2020年。
*2──ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳、岩波書店、2000年、126頁。

『美術手帖』2023年10月号、「REVIEW」より)

編集部

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