渋谷パルコから見えざる「日本社会の半分」を表象する
渋谷パルコの小さな一角でゲリラ・ガールズ(Guerrilla Girls)展が開催されていた 。フェミニスト・アーティストの代名詞と多くの場所で語られるコレクティブだが、じつはその作品はこれまで日本でほとんど展示されてこなかった。本展は、アパレルブランドのSisterが企画したもので、10日間という短い会期にもかかわらずSNSでは高い関心を集めていた感触がある。最終週の金曜午前に訪れた。
ストリートコーナーの小さな展示区画にところ狭しと展示されているのは、ポスターや映像による作品だけでない。来場者が社会や文化に対して感じる違和感を付箋に書いて貼ることができる掲示板、ジェンダー関連書籍の本棚やチラシ配布棚、グッズの販売などで展覧会は構成されている。その掲示板は、《苦情処理課(Complaints Department)》という2016年にテートモダンで発表された立派な作品(*1)だが、会場を構成するもののなかでどれがゲリラ・ガールズの作品なのか、あまり明確に分けられていないディスプレイとなっていた。雰囲気を例えて言えば、おしゃれなブックストアのようでもある。しかし、それらサインやデコレーションに見えるポスターの一つひとつに目をやると強烈なメッセージが伝わる。何気なく立ち寄った人は、ギョッとしてハッとするのではないか。
もうひとつ作品を紹介すると、《女性や有色のアーティストの視点なしには、あなたはピクチャーの半分以下しか見えていない(You're seeing less than half the picture without the vision of women artists and artists of color)》(1989)がある。「ピクチャー」という言葉には、美術館に収集・展示される絵画や写真などの「視覚芸術」という意味に加えて、「物事の全体像」という意味もある。つまり、「女性」や「有色系」という、不当に評価を下げられ無視されることで、「見えざるもの」とされてきた「半分以上」の表現者たちを見ずしては、視覚芸術の歴史の全体像は見えないのだ、というのである(*2)。
1980年代のニューヨークで結成されたゲリラ・ガールズの作品のほとんどは英語でつくられている。日本でこれまで彼らに光が当たってこなかったことには、一義には、日本社会全体ないし美術界におけるジェンダー不均衡の構造や性差別意識などといった理由があるだろうが、またひとつには言語の障壁もあるのかもしれない。「英語/非英語」の間に建てられた言語の壁もまた、「見えざるもの」をつくりだす。
エリートや教育水準の高い人たちも多い美術界ではなく、日本社会一般へ訴えるときには、英語で伝えるメッセージはどうしても訴求力が落ちる。今回の展示では、作品内のすべてのテキストを日本語に訳したチラシが配布され、英文が読めなくとも作品の意味が十分に理解できるものとなっていた。書棚には日本語で書かれたジェンダーやフェミニズム関連の書籍が並び、実際に販売もしていた。三重県の漁村・九鬼にあるトンガ坂文庫の選書だという。表現の各分野におけるジェンダー不均衡やハラスメントに関する調査プロジェクト「表現の現場調査団」の情報を引用して(*3)、展示されるデータは直近の日本社会のものへと更新されている。
展示期間中には《苦情処理課》に来場者から多くの「苦情」が寄せられたが、それによって、ゲリラ・ガールズ自身の作品が伝える本質的でクリティカルなメッセージだけでなく、来場者がこの展示から何を感じ、どのように反応したのかが伝えられていた。そこには、日常の体験に即して共感を抱くエピソードや、より繊細で機微がある言葉、物事はそれほど単純ではないとも考えさせられる指摘などが掲示されており、この社会の多様性とジェンダーにまつわる状況の複雑さを見て取ることができた。展覧会は、来場者やサポーターの参加によって協働的に、そして立体的に「いまの日本社会」を表象することで、普段「見えていない半分」の実像をリアルに切り出していたのである。
管見の限りでは、日本国内でゲリラ・ガールズが個展として展示されるのは3度目のことだ。古くは1996年にコンテンポラリー系アートギャラリーのオオタファインアーツで、2020年には倉敷芸術科学大学で開催されている(*4)。Sisterが企画した今回の展示は、倉敷で企画を担当した川上幸之介が協力したものだ。
過去のものと比べて本展覧会最大の意義は、パルコというメインストリームど真ん中の商業施設で開催されたことである。「現代美術」や「社会運動」などの文脈を超えた人たちへと届けるチャンネルになっている点で意義深い。また、アパレルブランドが主催したこともその間口を拡げたはずである。Tシャツやバッグなどグッズを独自にデザインし販売するのもアパレル企業ならではで、その売上金によって公立図書館にジェンダー関連書を寄贈するという設計も巧みである(*5)。来場者のターゲット層というだけでなく、いかにしてそのメッセージを社会へと伝えるのかという点においても、とても軽やかに開かれていると感じる。
大学で教鞭を執る筆者の経験では、非美大・非制作系学生を観察する限りにおいては、ミュージアムショップでグッズを買うこと(ないし買わずに見ること)がミュージアムに行く動機に占める割合がかなり大きい層は、想像以上に多い。また、たとえアートに高い関心を持っていようとも「ミュージアムに行くのは敷居が高い」と多くの学生が口にする。筆者にとってはなかなか見えない、こうした「美術館なるもの」のハードルの高さというものがたしかに存在していて、ポップアップの形式はこれを超えていく”軽やかさ”を持たせるために有効なのかもしれない。「見えざるもの」は、こうしたおそらくは階層化されている「文化の壁」によっても生まれうる。パルコを訪れるのは、美術館で開催される企画展と常設展を二つも三つも一人でじっくり鑑賞するような「来館者」ではなく、ショッピングと街ブラとご飯かお茶を半日くらいで友人と楽しむような「お客さん」が多いはずで、展示の規模がコンパクトであることも重要なのかもしれない。パルコの同じ建物の2階には、「美術手帖」のなかで「アート作品の購入」をコンセプトにした販売部門「OIL by 美術手帖」が運営するギャラリーがあり(*6)、そういえばここでも多くのグッズを扱っている。
Sisterではポップアップストア兼展覧会の企画をシリーズ化しているようで、昨年は、あいちトリエンナーレ2019にも参加したメキシコの作家モニカ・メイヤー(Monica Mayer)による《The Clothesline》が展示された。《苦情処理課》とよく似ていて、ジェンダー間の格差や違和感、性暴力の経験などに関する質問に対して来場者が答えを記していく参加型の作品だ。ともに、作品を目的として「鑑賞する」よりも、作品を介して社会へと「関わる」ものになっている。
本展にも出展されたゲリラ・ガールズの代表作《女性は裸にならないとメトロポリタン美術館に入れないの?(Do women have to be naked to get into the Met. Museum?)》(1989)は、発表時マンハッタンの街中にポスターが貼られ、バスや新聞には広告が掲載されるかたちで「展示」された。公共空間をジャックした「介入」のアートである。1980年代に華やいだセゾン文化が記号的に演出した「渋谷」で舞台裏に追いやられていた(*7)「見えざる半分」の実像を表象するのならば、その震源地たるパルコが設えた人工の「ストリート」のコーナーからポップアップで介入するのが、「お美術館」のなかに鎮座するよりもいかにも相応しい。
*1──テートウェブサイト
*2── 以下の拙著では本作およびそこから派生したブルックリン美術館での「ハーフ・ザ・ピクチャー」展について解説をしている。小森真樹「女性史美術館へようこそ」『人文学のレッスン』(水声社、2022)
*3── 評論家・アーティストの小田原のどか、映画監督の深田晃司らによるプロジェクト。https://www.hyogen-genba.com/
*4──川上幸之介「Reinventing the "F" word: feminism!」展について(RELATIONS:批評とメディアの実践のプロジェクト)
*5──ポリタスTVでの代表長尾悠美へのインタビュー
*6──OIL by 美術手帖ウェブサイト
*7──演劇/ドラマとしての都市という視座は本書によるもの。吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008)