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「商品」と「作品」のあいだをすり抜けて。永瀬恭一評「Face Up」展

6名のアーティストが参加するグループ展「Face Up」が、昨年12月から今年5月にかけて開催された。会場情報を公開しない本展が持つ意味とは何か。コロナ禍における展覧会のあり方から、インディペンデントな活動とその消費にいたるまで、擬態と物流をキーワードに画家・永瀬恭一が読み解く。

文=永瀬恭一

メインビジュアル デザイン=橋本祐治(Bushitsu)

夏の手紙──擬態の技術、物流の技法

 酷暑が続くなか、唐突にこのようなテキストを、あなたさまにおおくりすることをお許しください。最近ご無沙汰をしている、というよりもしかしたら、あなたさまとのご縁は切れてしまっているのかもしれませんが、しかし私には、先の奇妙な経験をお伝えできる方が、あなたさましか思いつきません。

 黙っていればいいんじゃないの、と苦笑されるあなたさまの様子も想像できるのですが、こればかりは、どうしても誰かに知らせておきたいのです。絵を見る、あるいはそれが映画でも演劇でもいいのですが、その喜びの一部に、自分の感動や疑問を人に伝えたいという欲望の発露が含まれていることも、あなたさまであれば同意してくださると、勝手に思い込んでおきます。

 とはいえ、そもそも私がなにを見たのか、正確には思い出せません。記憶を辿るためにも、少しづつ、目にしたこと感じたことを書こうと思いますが、なるべく正直に、あやふやな記憶はあやふやなまま、進めることにいたしましょう。

 3月でした。私は個展を川口市のギャラリーで行っていたのですが、会場に一通の手紙が届けられたのです。メッセージアプリなどが全盛の昨今、古風な一筆箋に手書きで書かれた文章には、差出人が「特殊な場所」で展示を行っていることと、事情によってインターネットでの拡散もせず、口頭か手渡しで伝えているのでタイミングが合えばいらしてください、とあり、「Face Up」と記された簡易なインビテーションが添えられていました。

 地図もなく、小さく書かれた住所をGoogle Mapで検索しても、展示会場らしきものが見あたりません。とにもかくにも個展会期を終えたある日にそこを訪れれば、私の住んでいる町でもよく見る店舗があるのでした。ほかの客は、それぞれに商品棚をめぐっています。仕事帰りか、あるいはこれから仕事に行くのか、人々の視線は正面からやや下に向けられ、目的のものを探しています。

 私の頭に浮かんだのは、どのようにふるまえばいいのかという迷いでした。手紙にあった、特殊な場所がこのお店であることは、おおよそ想定していました。加えてネットでの拡散を抑止しているのは、店内での作品展示が、おおっぴらに喧伝できない性質であるからだろうことも察せられました。したがって私はこっそり作品を探すつもりだったのですが、その動きは、どの程度「変」なのか。群れでの同調圧力に負けてしまう思考回路をあなたさまは笑うでしょうが、実際、私はその程度に弱い人間なのです。

 絵描きとして”個人”である意義を語ったりしたこともありますのに、現実の生活ではこんな体たらくです。不審な動きを見せて万引き犯か何かと疑われないか、そんなつまらない心性から、私は自由ではないのでした。カバンをあけて、シワのついてしまったインビテーションを開く、そんな行為までもが犯罪者めいている気がする。店舗入り口正面にはレジがあって店員さんが立ち働いているのですが、ちらりとこちらを確認されたかもしれません。いやべつに、実際に犯罪を犯そうとしているのでもなし、それでもなんとなく店員さんから離れた奥まで歩いて、それからインビテーションに記された作品配置図に従って顔をあげてみました。

 大槻英世氏の絵が、ありました。私は何度かこの画家の作品を見ていたので、特徴的なたたずまいを知っています。壁の高い箇所にかけられていて、正方形のキャンバスを斜めに傾けているため菱形に見えます。あざやかな緑に塗られた地に、マスキングテープのようなもので弧を描く線が星みたいに編まれ、しかもそのテープの端が、ちょっと剥がれかけています。その端っこを、引っ張ってピッと剥がしてみたくなる……まるで治りかけの傷のかさぶたがうずくみたいに。

 かつて、この「マスキングテープのようなもの」が実は、マスキングテープを使って描かれた「絵」であることを知ったときは驚きました。キャンバスとの段差やアクリル絵具の質感(これが油絵具であれば、ツヤがマスキングテープの素材である紙の質感とずれてしまうでしょう)まで含め、ほとんど「だまし絵」みたいなのです。とはいえ、タネを大きく説明パネルに書いてびっくりショーをするようなトリック・アートとは、大槻氏の絵画は違います。私は以前別の場所で氏の作品を、フランスの美術運動シュポール/シュルファスのような「絵画の表面と構造」を扱うものとは異なり「絵画の表面の構造」に手をつけている、とつぶやいたことがあります。工芸的につくり込まれた絵は、テープのイメージをその端で持ち上げて見せることで、平面に塗り込められている絵具の層を、魚を三枚に下ろすみたいに改めて切り分け、空間的な存在へわずかに──この「わずかさ」加減が重要です──開いている。

展示風景より、大槻英世《Star》(2020) 撮影=佐々木康太

 村上隆氏によるスーパーフラットの流れ以後の、現代絵画の新鮮さを示すような大槻作品は、お店のなかにあることで、また違った姿を見せます。周囲に邪魔がない画廊に置かれれば、上記のような作品のつくられ方にすっと近づくことができるのですが、店舗にあると「工芸的に見えながら実は美術品」であったものが「工芸的に見えながら実は美術品なのだけれど、もういちどインテリアや商品へ近づいていく」感じがします。気の利いた時計でも見ているような心持ちになるのです。いったい、これは作品なのか飾りなのかあるいは商品なのか、といった分別は不可能になる。

 こんなふうに考えますと、今度はお店の風景が、ちょっと変わって感じられます。作品展示に関わった方がインターネットラジオでも触れていたのですが、つまり商品も、作品的に見える。駅などで見かけるスポーツ新聞『東スポ』は、昭和天皇が死んだ翌日の一面に「プロレスラー流血」の記事を載せた実績があるとウィキペディアにありましたが、この新聞が「既存の新聞への批判的-批評的」商品でもあると、言っていえないことはないでしょう。また携行食品の「カロリーメイト」や「ウィダーインゼリー」が、食品の機能性を追求した結果、機能性それ自体が自立し「メタ食品」になっていることも明らかです。現在、洗練された商品はどれもそのような側面、極論をいえば「批評性≒作品性」を持っている。高度資本主義下の現代美術作品は商品と峻別できず、むしろ商品の部分的一形態であることは自明です。

 しかし自明性というのは、よく忘れられます。街中にある商品をいちいち「先行商品への批評的分析を経て作られたメタ商品」として買い物する人はめったにいません(あなたさまは、そんなお買い物をしていても不思議ではありませんが)。それが改めて思い出されるのは、やはり美術作品が商品と同居していたからでしょう。当然、お店にあったすべての作品と商品の関係について、この相互作用は成り立ちます。インビテーションには6人の手による作品が店内にあると記されていました。

 と、ここまで書いてきて、私は困っています。先に「私がいったいなにを見たのか、あまり正確に思い出せない」と告白しましたが、6作品のうち私は2点について、記憶があまりありません。落ち着いて作品を見るのも難しく、長居もできずに店を出た影響はあると思いますが、見逃してはいません。気が小さい人間にありがちな、あの恥ずかしい生真面目さで、私は配置図通りに全作品を確認したのですから。しかし、川﨑昭氏の作品についてはかろうじて「あったかな?」くらいの記憶であり、タナカヤスオ氏の作品については完全に思い返せない。SNSを検索をすれば作品だけ撮影しアップロードしている方がいる、おかげで実はこの6点はブラウザ上で確認できます。したがって、私は何食わぬ顔で全作品を記述することが可能です。しかし私は、この「思い出せなさ」に、今回の経験の鍵が隠れているように思います。

展示風景より、川﨑昭《Circle》(2019/2020) 撮影=佐々木康太

 大槻作品を覚えている理由は、はっきりしています。前から知っていた作家で、過去作と共通した問題意識が見られたので、記憶が乗る土台があったのです。川﨑氏、タナカ氏については土台がありません。しかし、だとするなら、同じように初見であった光藤雄介氏、内山聡氏の作品は思い出せることが説明できない(しかし私は本当に思い出せているのでしょうか。先に述べたネット上の内山作品の画像には、となりに小鳥の彫刻らしきものが写っているのですが、私はこの小鳥について心当たりがありません)。

 川﨑・タナカ両氏の作品の様子を、画像から想起することは可能です。どちらもほぼ無彩色で、店舗の壁面に同化し、埋め込まれているようにあったのでしょう。光藤・内山両氏の作品は反対に彩度が高く(とはいえ内山作品は基底材の側面から裏に描かれて、正面は真っ白なのですが)、目立ちます。恐ろしく安直な理由で、私は地味な作品を選択的に忘れている。これほどみっともない事実もありませんが、あえてこの恥をお知らせして、その先を考えてみます。

展示風景より、タナカヤスオ《No.114 Front End》(2019) 撮影=佐々木康太

 川﨑昭氏の作品もタナカヤスオ氏の作品も、「擬態」をしていたのではないでしょうか。広辞苑で引けば擬態とは

ぎ-たい【擬態】①あるもののさまににせること。②[生]動物の色・形・斑紋が他の動植物または無生物に似せていること。隠蔽的擬態(模倣)すなわち環境に似せ目立たなくするもの(シャクトリムシが枝に似るなど)と、標識的擬態すなわち目立たせるようにするもの(アブがハチに似るなど)の二種類に分けられる。

とあります。大槻氏の作品は、鮮やかな色彩や菱形に設置したキャンバスで、店舗の時計やカラフルな商品群と互いに「似て」いました。思えばこれ自体、作品の標識的擬態です。対して、特にタナカヤスオ氏の作品は(画像で再確認するかぎり)色彩を抑え、壁に似ようとする隠蔽的擬態をしていた。作品配置図に従って私は「確認」をした、しかし作品を記憶に刻むように見る行為は、できていない。食べ物を視界に入れても捕食し損なった、私は哀れなカラスのようなものです。

 この擬態というキーワードは、今回の展示全体に敷衍できるのではないでしょうか。ご存知のように、2021年春の首都圏は前年からの新型コロナウイルス感染症拡大によって緊急事態宣言が発出され、多くの美術館や画廊が閉じました。3月に私が個展を開催できたのは僥倖だったのです。美術展は不要不急であるとの政治行政の判断のもと、展覧会の開催は批判が出かねませんでした。ドイツで「文化芸術は市民にとって不可欠だ」という声明が公的に出されたこととの、彼我の社会認識の差について、いまここで書くことはできません。が、一般的な商品に共通の性質がないではないことは知っていても、意識的な美術作品に触れて精神を活性化させる必要を感じていた、私のような人間にとってどうその場を確保するかは喫緊の課題でした。

 そんなときに「店」の強さは明らかです。生活必需品を扱う商店は、厳しいロックダウンを受けた海外の都市でも、かなりの程度閉まることはありませんでした。このような店が、店でありながら美術館に擬態すること/むしろ美術館がひっそりと店に擬態してあらわれること。それを声高に宣伝せず、限定的な人づての情報によって、必要としている人にだけ供給する。美術館と店舗が、魔法のように重ね合わされる。いわば無休の芸術の流通。

 この物流の技法は、コロナ禍という条件を外しても特筆すべきでしょう。日本では経済発展が足踏みを続けています。非正規雇用化が進んだなか、思うように活動できない若い作家たちは、既存のコマーシャルギャラリーや展示設備ではない、自主運営のスペースを次々とつくり出しています。商店街のデッドスペースや空き家を利用した、自分たちの問題意識に基づいた多目的運用可能な場をつくる努力には切実な動機があり、その条件は変わっていません。

 しかし、同時に美術ジャーナリズムが、こういった動きを取り込んで自身のコンテンツとして利用し始めたとき、自主運営の場の読まれ方は、不可逆な変化を遂げてしまいます。いうまでもなく、このような文章を書いてあなたさまにお知らせしている私自身、そういった「コンテンツ化」に加担しています。「オルタナティブ・スペース」なる言葉を、私(たち)は、消費可能なものとして流通させているのです。

展示風景より、光藤雄介《昼に測られた夜》(2020) 撮影=佐々木康太

 私はインディペンデントな活動を繰り広げる作家(私もその1人)の「商品化」を批判しているのではありません。自らも商品となり、商品を消費する行為抜きに、私たちは生きられない。むしろ、美術の流通に関わる人間(私もその1人)が、自らの行為による「商品性の低下」に無頓着であることが、刺激を欠いているかもと訝しむのです。「これはユニーク!」というアピールや広告を、どこでもだれでもやり始めると、そのアピール自体が同質化することを「差異の同一化」と呼ぶことは昔、演出家の鴻上尚史氏がエッセイで書いていたように、可能でしょう。

 反対にどこにでもある店舗や商品に擬態し、自らの商品性や商品の作品性をひっそりと暗喩し続ける作品設置は、逆説的に、状況から自らを差異化しています。端的に、私は一作家として「やられた」と思いました。もちろん、飲食店の一部に作品を置くカフェ・ギャラリー等とも意味が違います。作品が本来ない場所に、作品がある文脈を安定したかたちでつくるのでもなく、かといって作品を暴力的に「ぶつけて」場を壊すのでもない。人には聞こえない周波数を送り合っている動物のように、他人には目に入らない、あるいは目に入っても意識にのぼらないサインをふと環境に忍び込ませて作品経験を可能にしている。この「変」な感じを、私はあなたさまにお知らせしたいのでした。

 私が受け取った手紙のような、観客の招待の閉鎖性は明らかです。でも、この閉じ方は積極的な意味を持ちます。即物的な効果をいえば感染対策です。ネットを使わず、展示作家が個人的に口頭、あるいはなんらかのメッセージで知人や会った人に教えた情報は、時間をかけて伝播します。一度に多くの人が集まる危険がない。私が経験したように、普通のお客さんに混じって1人くらい観客が来ても、ウイルス感染リスクの上昇は極小です。

 そもそも、美術において「開かれた」あり方は肯定されすぎではないでしょうか。ことに現代美術は、開かれていなくても困らないものの一つです。訳のわからないもののくせに妙に「ありがたがれ」と営業してくるものを「なにそれ、現代アート?」と揶揄して身をかわすのが、ふだん美術を積極的に需要しない人々の間での洗練された立ち居振る舞いであることを、現代美術に関わる人は理解すべきでしょう。適切な程度に美術が閉じている状況は、むしろ望ましい。

展示風景より、内山聡《Swiped Painting Made by You and Me》(2020) 撮影=佐々木康太

 私がいま、あなたさまに報告している例では美術が、意図して無口です。これは現代のアートのあり方として貴重です。誰かがこれをコンテンツとして再利用しようとすれば、私があなたさまへの説明を工夫しているように、迂回や作戦を必要とする。Twitterで拡散したオルタナティブ・スペースやアーティスト・コレクティヴを呼んできて目立つようパッケージするのとは勝手が違うはずです。

 当然、商品と美術の関係に意識的なこの店舗での展示も、市場化、話題化から逃れることはできません。重要なのは市場化に対する戦略です。店舗に、商品に擬態しながら、流通の遅延を図るこれらの作品の提示の試みは、ゆっくり市場に、メタ的に近寄りながら、一方的な消費のスピードを抑え、そのことでむしろ展示の意義・市場価値を高めている。こんな文章を書いている私自身、企画意図に嵌められているのだと思います。

 限定された場所での、制限のある展示という例なら、例えばハイレッド・センターが1964年に帝国ホテルの一室で招待状をもった観客だけに向けて人体測定などの行為を行った「シェルタープラン」があります。既存の展示システムによらない手法は、ほかにも探すことは可能でしょう。私はまだ見たことがないのですが、都心の公園で作品を持ち寄り、警備員さんと都度交渉しながら「展示」をするという行為を、コロナ禍以前から続けているキャッベ パー氏というアーティストもいて、こちらも感染症の拡大によって、その試みのシリアスさはより強まっているのだろうと想像しています。いずれにせよ、作品経験が難しくなったウイルス蔓延環境の下、できることがオンライン展示くらいしかなかった美術が、しかし、町で立ち寄る用のある店でひっそりと擬態をしてみせた、これは国際的な時代検証の一例として挙げられるでしょう。

 擬態という観点から特に興味深かったのが、益永梢子氏です。益永作品は構造的レベルで商品と商品棚に「擬態」しています。レジの背後にある棚の上に、また棚がつくられます。上の段には色が塗られた直方体が2つ、棚のサイズぴったりに押し込められ、そのテンションで棚のなかで支え合って宙に浮いています。空いた空間には、折りたたまれた画布がやはり着彩されその端が前面から少したれている。下の段には褐色に塗られた画布が閉じられたファイルのように立てかけられていますが、いくつかは明らかに棚の縦サイズよりも大きいので、途中で折れて無理やり入れられています。

 商品棚の上に商品棚のような作品がある。もうそれはひとかたまりで「棚」としか認識できませんで、ようやく作品を識別しえたとき、私はあっけにとられました。草むらでナナフシを見つける程度には面倒だ。そのうえで、やはり、これは棚のだまし絵としてだけではなく「作品」として現象しています。

展示風景より、益永梢子《休み時間》(2020) 撮影=佐々木康太

 棚状のフレームは、なかで様々な画布が互いにつっぱりあい、あるいはだらりと垂れ下がったり折れたまま収まったりするためのフィールドを構成していますが、きちんと管理されている棚ではそのようなことは起こりません。商品は無理なく棚に収まることで、折れたりせず自身の商品価値を維持します。益永作品では棚の秩序・規律が開放され、棚の自由空間が現出しています。時間の経過とともに内容物の折れ方が強まったり、もしかしたらずり落ちたりするのかもしれません。

 本当は商品も、時間の経過とともにずり落ちたり折れたりしている。それは物質として作品と商品双方に平等に訪れるエントロピーの増大です。しかし商品はそのエントロピーの増大を店員が整え、あるいは排除することで価値を保証している。益永作品は、商品棚を擬態しながら反対に放置をすることで、美術品としての価値が保証されます。その境目にフレームはあるのですが、一般に作品のフレームは、絵の額を想像すればわかるように、作品と外部を切り分け作品を特権化します。しかし益永作品のフレームは、周囲の商品棚に擬態することでフレームの内と外をつなげながら、そのつながりのちょっとした不連続をあぶり出しにします。

 考えてみれば、このような擬態の効果は、かたちは異なっても他の出品作でも見られるのでした。商品や店舗との相互浸潤をする6点の作品の展示の総体が、双方の接点と違和の現出する鏡面を浮かび上がらせている。Face Up=「商品」の正面を通路側に向ける業務、労働は、こうして感染症に沈む都市で、芸術の擬態の技術を通して、私たちが商品流通と美術流通の双方に生かされてある、その様態と見つめ合う状況の創出に成功していたんだと、私は確信したのでした。

 気をつけたいのはこの店での試みを、文化芸術に関心のない人々へも現代美術に触れる契機を与えた、みたいな、上から目線の勘違いに近づけないことです。インビテーションを受け取らなかったお客さんは作品を意識しない。少数の人は作品に気づき考えたりするかもしれない、その可能性は否定しません。しかし、この試みが明らかにしたのは、現代美術は街中で無視される存在なのだという身も蓋もない事実です。

 擬態は一種の寄生でもある。商品の隙間に居場所を見つけ、それを少数の「それでも美術が自分には必要なのだ」と信ずる人々の意思に頼ってぎりぎり流通させている、そんな弱さが、過度な「芸術の有用性」で武装することは逆効果なのだと思います。見られるどうかわからない、つまり閉じてもいなければ開いてもいない「半開き」の状態に美術作品を置いた。それが今回、私があなたさまに報告したかった出来事の、妥当な描写なのかもしれません。

 美しいもの、自分の認識を少しでも更新するもの、流れる日常にわずかに新鮮な視界をさしこむもの。そんなモノの居場所はこのように儚い。ふとした偶然であっという間に壊れ消えてしまう、そのことを深く自覚したとき、初めて私が目にした擬態の技術、物流の技法は、生活の希望としてのモデルになりうるのだと思います。

 長くなってしまいました。あなたさまのことですから、機会があれば実際に見てみたい、とお考えかもしれませんが、はたして不安定な試みは今後も行われるかどうか。ウソかホントか「展覧会はつねに行われている」とかいう噂もありますが、いずれにせよ、チャンスがあれば流儀に則って、あなたさまにも対面でお伝えしたいところです。

 あるいはまた、今回蒔かれた種子が、不意にあなたさまの町でも発芽するかもしれない。この夢想は、やがて世界中の町が町でありながら美術館を「擬態」し始める最初の一歩なのだ、不要不急どころか誰でも生活必需品として美術をどこでも目にできる、大逆転がありえるのだ、というところまで広がりますが、そんな夢もまた、実際にお会いしてお話ししてみたい。現在も続くパンデミックが美術を、作品の経験を殺すことは、生活が途絶えることと等しく、あるいはその一部として許されない。そういう決意をひっそりと抱え続けていく共犯者の合図を、最後にあなたさまにお送りいたします。

追記 
ところで、内山作品と一緒にあったらしい鳥はいったいなんなのでしょうか。あったものも見ておらず見えたものも忘れているようなこの報告は、それ自体が最初から最後まで私の妄想なのかもしれません。とはいえ、今回の報告はあやふやに始まったのですから、そこはあやふやにしておきましょうか。

編集部

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