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2020.9.29

いま、バウハウスを検討/実践するために。永瀬恭一評「バウハウス100年映画祭」

建築、デザイン、写真など様々な分野を横断する造形学校としてドイツに誕生し、その後ナチスの迫害を受けてわずか14年で閉校したバウハウス。その創設100年を記念して、2019年から全国で「バウハウス100年映画祭」が開催されている。ラースロー・モホイ=ナジの生涯を追った上映作品『ニュー・バウハウス』を中心に、バウハウスにおける芸術教育のあり方から見えるものを画家・永瀬恭一が論じる。

文=永瀬恭一

映画『ニュー・バウハウス』より
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「バウハウス100年映画祭」で見る、終わりなき芸術教育の潮流

 第二次大戦前のドイツにあった、造形学校バウハウスとは何であったのか? 建築・美術・デザインを横断したモダニズムのムーヴメントともいえるし、いまなお流通するベストセラー商品を送り出した、起業的側面すら見いだせる。第2代校長のハンネス・マイヤーにとっては共産主義の前衛としてあったのかもしれず、ナチスにとっては退廃芸術の一部だろう。しかし〈芸術教育の運動体〉ととらえるなら、バウハウスはいままでも、これからも、何度でも検討され実践される、源泉のひとつといえる。そしてバウハウスで行われた〈芸術教育〉とは、社会改革や労働運動、さらに哲学的実践や発明行為までを含んだ、多面的総合性の探求の別名だ。明暗両面の課題は「人類」の未来へ向けて解決の途上であり、いまこそ分析を必要とする。終わらない、終わらせてはいけないバウハウスの潮流は、どのように受け渡されるだろう。

 東京都写真美術館で開催された「バウハウス100年映画祭」では、昨年創立100年を迎えたバウハウスに関連する7編の映画が上映された。引き続き下高井戸シネマで10月から、横浜シネマリンでも11月から上映が決定している。新潟から西宮、高松、静岡、東京と巡回した展覧会「開校100年 きたれ、バウハウス―造形教育の基礎―」や、バウハウス叢書の再刊といった出版事業と比べ「バウハウス100年映画祭」は地味な印象を与えるかもしれない。しかし、上映作品の一部は「きたれ、バウハウス」展やバウハウス叢書で言及されないバウハウスの重要な側面を補完している。そこからこの映画祭を見ていきたい。

映画『バウハウスの女性たち』より

 ナチスと戦った理想主義的学校という輝かしいイメージで語られるバウハウスに、根深い女性差別があったことを示す『バウハウスの女性たち』(ズザンネ・ラデルホーフ監督、2019)はショッキングだが、しかし無視できない内容だ。「きたれ、バウハウス」展で見逃されていた視点だけに、本作上映はよりいっそう重さを増す。『バウハウスの女性たち』については野中モモがweb版『GQ japan』誌上で『再発見・再評価されるバウハウスの女性たち:「バウハウス100年映画祭」』を掲載している。シリアスな問題をバランスよく記述していて、必読といえる(*1)。バウハウスに対する検証的視点は『バウハウス 原形と神話』(ニールス・ボルブリンカー、ケルスティン・シュトゥッテルハイム監督、1999・2009)末尾でも見られる。バウハウスの学生の一部がナチスに関係していたことなどを示したこの映画もまた、バウハウスの死角に光を当てる。

 無論、否定的側面ばかりではなく、近代産業における全体性の回復やユニバーサルデザインの必要性など、目につくところだけでもバウハウスの課題は現代的だ。様々な側面を持った、終わらないバウハウス=教育の運動体という射程距離を持ったプログラムとしては、追加上映された『ニュー・バウハウス』(アリサ・ナーミアス監督、2019)を挙げることができる(*2)。バウハウスの重要な教師であったラースロー・モホイ=ナジの生涯を追ったこの映画は、バウハウスを辞した後、モホイ=ナジがアメリカで開校したニュー・バウハウスとその後に続く各学校についても映し出しているが、注目されるのはモホイ=ナジという多面的芸術家の変遷が、教育の実践──そこには資金捻出といった現実的側面も含まれる──から導き出された姿だろう。

映画『ニュー・バウハウス』より

 電話で製作所に指示を伝え描かれた、遠隔発注絵画ともいえる先進的作品で注目されていたモホイ=ナジは、ヨハネス・イッテンの後任としてバウハウスに招聘され、フォトグラムやフォト・モンタージュといった実験的制作を通じバウハウスに写真ブームを引き起こす。規定ジャンルにとらわれない思考、可塑性を重視する創造性に、光というメディウムは最適だったのかもしれない。そして同じ可塑性という点において、学生との交感は一方的に「教える」行為ではない「教えるー教えられる」双方向の場として、芸術家モホイ=ナジこそを育てたのではないか。

 同時にそのような姿勢に対する困難が、政治体制を超えてあることも『ニュー・バウハウス』では描かれる。シカゴの産業界から期待されてモホイ=ナジが開いたニュー・バウハウスは、その課程があまりに実用性から離れていたことから1年で閉鎖に追い込まれる。これは意外な論点を提起する。バウハウスはナチスに迫害されながら、それでも14年間は活動していた。しかしナチス・ドイツより自由なアメリカで、ニュー・バウハウスはたった1年しか活動しえない。経済合理性の圧力、エゴイズムはファシズム以上の速度で理念的教育を押しつぶしてしまうことが、ここでは見てとれる。

 そこからの粘りがモホイ=ナジの可塑性のしたたかな面かもしれない。経済支援をとりつけ、パトロンと交流し、新たにスクール・オブ・デザインを開校させたモホイ=ナジは、そこでも写真を柱にしてゆく。ハリー・キャラハンやアーロン・シスキンドといった重要な写真家を教師として招いた人物眼も、クレーなどを招いたヴァルター・グロピウスを思い起こさせる。スクール・オブ・デザイン、後にインスティチュート・オブ・デザインとなった学校で学んだ写真家バーバラ・クレーンによる、コントラストを強調した印象的ヌード写真が、失敗と偶然から展開していったというインタビューは、学校の気風が人の可塑性を深めていたことを感じさせる。

映画『ニュー・バウハウス』より

 ナン・ゴールディンらの発言のなかでも軸となるのが、モホイ=ナジの娘ハトゥラによる証言だ(*3)。彼女が考古学者であることは、モホイ=ナジを「発掘」する際、面白い事実となっている。注目すべきはモホイ=ナジを支え、ある意味でモホイ=ナジを育てた配偶者への言及だ。ここで焦点になるのは、モホイ=ナジの可塑性に加えて「複数性」の意味だろう。

 モホイ=ナジは2度結婚しているが、バウハウス時代をともにした最初の配偶者ルチアがモホイ=ナジの写真の師であったことは『バウハウスの女性たち』でも触れられている(*4)。ルチアが撮影したバウハウスの写真の原版はモホイ=ナジに預けられ、しかる後にグロピウスに渡り戦後のバウハウスのイメージとして広く定着した。ルチアがこれらの写真の著作権を主張し、最終的にその権利を手にしたのは当然であるし、逆にそのような戦いを必要とさせた点にグロピウス、あるいは当時のバウハウスを含めた社会全体の女性への差別的な意識を見ることができる。

 2人目の配偶者シビルはモホイ=ナジについて著作もなしている(*5)。近年、偉大な男性芸術家を支えた妻、という構図が美談ではなく論点化する傾向は、一例としてはジャクソン・ポロックのパートナーであったリー・クラズナーの作品の再評価などにも表れている(*6)。モホイ=ナジとルチアやシビルの関係もまた、今後より深く見直されるに違いない。研究成果次第では、現在モホイ=ナジひとりの名前によってクレジットされている作品や業績が2人、あるいはそれ以上の名で書き替えられるかもしれない。それは決してモホイ=ナジにとって不名誉ではないはずだ。キネティック・アートの傑作《ライト・スペース・モデュレーター》(1922‐30)を扱った『ニュー・バウハウス』のシーンを見ても、モホイ=ナジが可塑性と同時に複数性・多面性を重視していたのは明らかである。

映画『ニュー・バウハウス』より

 ハトゥラが証言するように、モホイ=ナジはつねにジャンルを横断する制作を続けた。モホイ=ナジにおける教育が、たんなるノウハウの伝授や「使える学生の選別」ではなく、多数の人々との協働と交感関係のなかでの可塑性+複数性の汲み上げにあったことは読み取り可能だろう。このように、バウハウスに源流を持つ教育のあり方と必要性が、バウハウス閉鎖後も脈々と引き継がれていることは、『ニュー・バウハウス』だけでなく別の上映映画『バウハウス・スピリット』(ニールス・ボルブリンカー、トーマス・ティエルシュ監督、2018)でも描かれる。冒頭、柔軟な室内環境によって抑圧の少ない児童教育を行うストックホルムの例が映される。環境、というならば労働や家庭生活も、建築を通して改善可能だとバウハウスは考えていた。『バウハウス・スピリット』では住宅や建築を拡張し都市問題も取り上げていく。

 バウハウスの問題意識は人間の再教育的な課題として、バウハウス後も残り続けている。モホイ=ナジの仕事も、そのような視点で把握できる。今回上映された映画では取り上げられていないが、例えばバウハウスの卒業生であり教師であったヨゼフとアニのアルバース夫妻もアメリカに渡り、ブラック・マウンテン・カレッジで重要な教育活動を行った(*7)。日本にも大阪市立工芸高校(*8)や、戦後の桑沢デザイン研究所(*9)といったバウハウスの影響下から始まった教育機関がある。さらに限定的期間ながら活発な活動をし、いまは閉鎖されたBゼミ(*10)や四谷アート・ステュディウム(*11)などにもその反響を見ることは可能だろう。プラス面だけでなく女性教員の不足といった問題点まで含め、バウハウスが過去の研究対象である以上に、現在あらためて可能性と課題を探るべき生きた素材であることが『ニュー・バウハウス』を含めた「バウハウス100年映画祭」上映作のいくつかをみていると了解できる。

映画『バウハウス・スピリット』より

 あえて言うなら『ニュー・バウハウス』は映画作品としての質が、決して高くない。例えば語りのハンス・ウルリッヒ・オブリストがスタジオに入退場するシーンが果たして映画的にどのように根拠づけられているか不明である。『バウハウス・スピリット』も視点は興味深いものの、ダンサーがバウハウスの親方住宅(マイスターハウス)内で踊るシーンの不要な装飾的演出など、映像作品としては安易な面が目立つ。『バウハウスの女性たち』の編集に一定の緊張感があったのは、扱われる主題への監督の切実さ故であろう。

 バウハウスを迫害したナチスが、ベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』(1938)をレニ・リーフェンシュタールの手で映画史に刻みこんだ事実を考えれば、バウハウスを再検証しようという映画的試みに切迫性が欠けていいはずがない。繰り返すがバウハウスを積極的に未来への武器として扱うとき、バウハウスが対峙した諸課題は、ファシズム政治や社会的差別、経済効率の独走との関係に見るように、いま、目の前にある。したがって、バウハウスを語るその語り口もまた危機感を必要とする。

映画『ニュー・バウハウス』より


*1──なお野中モモの同誌上の連載は一貫して歴史に隠れた女性たちを主題にしており、男性ファッション誌でこういった試みがなされる意義は大きい。
*2──この映画についても『映画評論・情報サイトBANGER!』に野中モモによるレビューがある。
*3──ハトゥラ・モホイ=ナジ「回想 シカゴのモホイ=ナジ」は『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」展カタログ(アールアンテル、2011)で読むことができる。本カタログはモホイ=ナジについての重要な資料になる。
*4──グロピウス『バウハウス叢書12巻 デッサウのバウハウス』(中央公論美術出版社、1995)には、ルチアによる印象的な写真が多数納められている。なお、同書籍は中央公論美術出版社から2020年に再復刻された。
*5──シビル・モホリ=ナギ『モホリ=ナギ 総合への実験』下島正夫・高取利尚訳、ダヴィット社、1973
*6──イギリスのバービカン・センターでは2019年、欧州で1965年以来となるリー・クラズナー展が開催されている。
*7──ブラック・マウンテン・カレッジについては以下を参照。『ART TRACE PRESS03 特集ブラック・マウンテン・カレッジ』ART TRACE、2015年
*8──大阪市立工芸高校については「開校100年 きたれ、バウハウス―造形教育の基礎─」展カタログ所収の下村朝香「大阪におけるバウハウスの理論による教育の広まり─大阪市立工芸高校を中心に─」を参照のこと。
*9──春日明夫・小林貴史『桑沢学園と造形教育運動―普通教育における造形ムーブメントの変遷』(桑沢学園、2010)を参照。
*10──Bゼミ(現代美術ベイシックゼミナール)は1967年から2004年まで小林昭夫によって主催された現代美術の学校。詳細は『Bゼミ「新しい表現の学習」の歴史 1967-2004』(小林昭夫ほか、Bank ART 1929、2015)を参照のこと。同書中126頁に1967年井村五郎によって「バウハウスについて」と題した講義があったことが記録されている。
*11──四谷アート・ステュディウムは近畿大学国際人文科学研究所付属の東京コミュニティカレッジとして2002年から開講し、2004年から2014年まで運営された芸術学校。主任ディレクターは岡﨑乾二郎。主要な資料が国立新美術館アートライブラリーにある。蔵書検索(OPAC)で検索のこと。