光と食をめぐるふたつの銀ノ座
1960年代に吹き荒れた戦後日本の前衛美術のなかでも極北に位置づけられよう「集団蜘蛛」。その中核となった森山安英の絵画と、東京・銀座の商業施設の一角で、こんなふうに対面することになるとは。
一瞬、周囲を広大な書店売り場が面積を占めるこのフロアにあって、とりわけ広く空隙のように開けた「アトリウム」が、まるで目に見えない糸で覆われた蜘蛛の巣のように感じられる思いがした。もっとも、そのような感じ方は、集団蜘蛛について多少なりとも予備的な知識を持っている者に特有の捻れかもしれない。
私が彼らの存在について初めて知ったのは、やはり九州・博多の前衛美術の集合的活動、九州派の急先鋒であった美術家で、昨年5月に亡くなった菊畑茂久馬が1986年に刊行した『反芸術綺談』(海鳥社、2007年に新装版)に収められた少々風変わりな一節「蜘蛛之巣城物語」を読んでのことであった。
少々風変わりなと書いたのは、1960年代初頭には過激な反芸術の担い手であったはずの菊畑が、集団蜘蛛が結成された60年代後半には前衛というよりすでにある種の既存勢力と見做されつつあり、毒蜘蛛が巣にかける餌食として標的とされたさまが詳細に説かれているからだ。
1968年に「蜂起」した集団蜘蛛は、この意味で表面的には「反」と呼ばれつつ、内に深く東京中心・海外志向(実際、多くの反芸術の担い手は海外、それも現代美術の本拠地と言えるニューヨークを目指した)を宿していた一点において、根本で「反・反芸術」であったかもしれない「反芸術」にこそ反旗を翻したと言える。その点では集団蜘蛛こそ、言葉の真の意味で「反芸術」ではなかったか。
そう、菊畑が自らの身をもって痛感していたように、集団蜘蛛は符号としての「反芸術」ならぬ、どう説明しようとしてもくどくならざるをえず、ゆえに語ろうとする者を沈黙へと誘うしかない「芸術を否定する芸術の否定」であった。逆に言えば、だからこそ集団蜘蛛は、反芸術のようにただちに批評家に捕捉され、歴史化されることもなく「一陣の竜巻を立てて、一瞬にして消えた」(同、148頁)。
ところが、そうして姿を消したかに見えた森山は、じつは1980年代後半から、集団蜘蛛での活動からはおよそ窺い知れない「絵画」を描き始めていた。
今回発表されたのは、それらのうちから「アルミナ領」と題された連作(1987頃〜90頃)、本展のタイトルそのものになっているやはり連作「光ノ表面トシテノ銀色」(1991頃〜93)、さらに連作「非在のオブジェ」(1997、98)の合計24点、ほぼ80年代後半から90年代末に至る10年強の作品からなる(森山はその後の2000年代に入ってからも「レンズの彼岸」「シャドウ」「光ノ遠近法ニヨル連作」「幸福の容器」「窓」などの興味深い連作を発表している。これらについては北九州市立美術館での展覧会図録『森山安英──解体と再生』(grambooks、2018)をぜひとも参照されたい)。
森山の絵画を初めて見て強烈な印象を受けたのは、そのメタリックで非情ささえ感じさせる銀色(「銀」座?)の表面処理(と言いたくなる)にほかならない。まるで最新のAppleコンピュータやiPhoneの外装さえ連想させる。さらにその印象は、連作のタイトルにもある通り、カタカナ表記でメカニカルなタイトルによって補強される。実際、タイトルに見られる「光」や「表面」、そしてのちの連作に登場する「レンズ」「シャドウ」「遠近法」「容器」「窓」はいずれもカメラを思わせる言葉である。
もっとも、絵を覆う銀色の表面は混濁し、遠目よりも遥かに複雑なテクスチャーを持つ。だから鏡面とはまったく異なる。しかし、本当にぼんやりとではあるが、どこかでその前に立つ自分の像(気配)を反映しているようにも感じられる。そしてあえて言えば、集団蜘蛛の(解散というより)「消滅」から「絵画」が浮上することのメカニズムに、対面し鑑賞する「作品」としての「絵画」ではなく、見る者(自己像)を写そうとして失敗する「オブジェ」(非在の装置としてのカメラ?)としての「光ノ表面トシテノ銀色」があるのではないか、と思うのだ。
そして、そのような比喩が許されるのだとしたら、私はここで、森山の絵を見る私自身の記憶の像として、かつて集団蜘蛛の標的となり、しかし結果として集団蜘蛛を活字を通じてのちに伝える(歴史化という逆襲?)役割を果たした菊畑と私が最後に公開で話す機会を得たのが、博多のやはり書店の一角であり、そして森山の規模のまとまった今回の個展が東京の中心である銀座で開催された会場もまた、活字の森である書店であったことに、偶然とは言い切れないつながりを感じる。
その意味では、今回の森山展が書物という本質的に歴史化を志向する大量のオブジェに囲まれ、そこだけ空隙のようにポッカリと開いた空間で(銀ノ座)、光とそれを反射する「銀ノ色」という非色彩(歴史ではなく現象)の名のもとに開かれることについて、個人的な想いを寄せずにはいられないのだ。
ところで、銀座で森山展が開催されるのに前後して、新宿ではかつてやはり反芸術と呼ばれることになる美術家たち(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ=ネオダダ)の結集の場であった通称「新宿ホワイトハウス」(旧吉村益信邸、設計=磯崎新──思えば2人とも九州・大分の出身だ)が、新たにリノベーションを施され「WHITEHOUSE」として始動した。始動したといっても一般公開はされず、入場には300部限定の「パスポート」を購入する必要がある。これはちょうど1年ほど前にやはり卯城竜太や涌井智仁らにより主催され、都内某所で開催された「ダークアンデパンダン」展(入場者を主催者が特定・制限する)の流れを汲むものと言えるだろう。
その第1回展は「urauny dinner」と題され、一度に4人、受付に携帯電話を預けたうえで私語厳禁とされ、アーティストのuraunyが提供するディナーを、判読ができないメニューから選択し、強烈な光と奇妙な音を浴びながら食する(食さなくてもよい)というものだ。
提供される皿に乗る「料理」の素材は退出時にカードに記載されて明かされる。これにはそれ自体驚きを伴うが、この展覧会の本当の核心は最後に明かされる素材の正体よりも、それが明かされるまで潜在し続ける見えない前提のほうにあるように思う。
思えば、食事ほど命に直結するものはなく、ある食事を摂る(体内に入れる/消化器系にかける)かどうかは、実際には美味かどうかより、はるか以前に無意識で原初的な信頼にもとづく。本来は可視化されないこの「信頼」は、展覧会を「見るか否か」よりもはるかに切実で、根源的だ。
uraunyは、普段は忘れているが人間の奥底にあって決して消せないこの原初的な感覚を、部屋の隅々まで及ぶ強烈な光線、目が眩むほどの純白、そして携帯を「携帯できない=記録/記憶できない」不安、見知らぬまま同席する人(いったい誰?)とのコミュニケーションの不全などにより、より純粋に、ある意味、彫刻的に切り出して凝縮する。この手法と演出の緻密さと徹底、つまり「切れ味」こそが、uraunyにとっての美術/調理とは言えないか。
そして、この強烈な「切れ味」が、私には同時期に銀座で開かれていた森山展の「光ノ表面トシテノ銀色」というタイトルや、光を反射する金属質の絵画群から受けた鮮烈かつ残酷な印象(銀色に光る食器と刃物の違いは紙一重だ)と、どこかで被って見える気がする。
(『美術手帖』2021年8月号「REVIEWS」より)