この浅くて横にクソ広い宇宙(*1)について考える
千葉正也の登場
日本の現代絵画において、千葉正也の登場とはなんであったのか。彼の登場とその影響力は、個人の作家性を超えた時代の変化を孕んでいる。そのためここでは彼の先行世代との作品様式の比較検討をしたうえで、本展について論じていく。
千葉の新しさとは、圧倒的に西洋の白人中心主義的である現代絵画のシーンに、ヒップホップという文脈を導入したことにあると仮定したい。美術や絵画に限定せず──私は音楽の素養はリスナーとしても貧しいのだが──音楽と結びつけた図式をつくり検討する。千葉の作品自体が、絵画というジャンルに閉じたものではなく、複数のカルチャー、東京郊外のヴァナキュラー文化との関係性によって立ち上げられているため、そのリスクを冒す意義はある。
先行世代の説明から入ろう。1990年代後半から2000年代前半に、奈良美智、杉戸洋、村瀬恭子、丸山直文、額田宣彦らが、『美術手帖』1998年11月号の特集「新しい具象 90年代のニュー・フィギュラティヴ・ペインティング」で取り上げられたような動向に位置付けられ、強い影響力を持っていった。ここでの「新しい具象」とは、80年代に登場したジュリアン・シュナーベル、アンゼルム・キーファー、フランチェスコ・クレメンテなどのネオ・エクスプレッショニズム(新表現主義)とは異なる部分がある。彼らは、ネオ・エクスプレッショニズムが特徴とする崇高性や神話性よりも、日常やより小さな物語を好み、ゲルハルト・リヒターほどには写真に依拠して反絵画的な身振りを取らなかった。彼らは、具象と抽象、映像と絵画、モダンとポストモダン、ポップとフォーマル、西洋と東洋の二項対立を瓦解させ、周縁や傍流として位置づけられていた絵画を参照し、新しい折衷的スタイルを確立していった。
これは日本だけの状況ではなく、リュック・タイマンス、ピーター・ドイグ、ローラ・オーウェンスなどの評価、アレックス・カッツ、デイヴィッド・ホックニーなどの再評価とも同一の時代背景を持っていたといえる。 私は、この「新しい具象」の絵画の動向は、ジム・オルークやトータスなどに代表されるポスト・ロックと同時代性を共有する部分があると考えてきた。佐々木敦は、ポスト・ロックをこのように説明している。
「ポストはアンチとは異なる。したがってポスト・ロックは「ロック」を否定し去ろうとするものではない。(略)「ポスト・ロック」は明確に「ロック」と地続きにあるものであり、むしろかつて「ロック」と呼ばれた音楽の未だ見えざる可能態、それが進化の過程でどこかに置き忘れてきてしまったオルタナティヴの発現、すなわち「ロック=音楽」の内在的批判の別名なのである。」(*2)
この文章の対象をロックから絵画やモダニズム絵画に読み替えれば、上述した作家たちの説明に適合可能だ。そして、00年代の終わり近くに登場した千葉正也の存在には、それとは異なる文脈を感じたのだ。そのためこれ以降、日本の先行世代を「ポスト・ロックとしての絵画」とし、千葉を「ヒップホップとしての絵画」として論じていく。
「ポスト・ロックとしての絵画」と「ヒップホップとしての絵画」
「ポスト・ロックとしての絵画」は、具象と抽象を交換可能にする両義的運動をつくるが、千葉の作品にその運動性はなくリアリズムとしての具象絵画として展開する──先行世代と同様にシーンとして語るのなら、海外においては、ケリー・ジェームス・マーシャルの評価とその系譜に位置づけられるようなアフリカ系アメリカ人のペインターたちの、日本においては榎本耕一の、クリアで高解像度な具象性は、千葉と同時代性を共有しているだろう。
「ポスト・ロックとしての絵画」は、具象性を持ちながらも具象的イメージの情報量は少なく、色彩、形態、テクスチャーへの還元的性格があり、壁面や鑑賞者の身体との関係性によって、スケールが生み出される。音楽におけるポスト・ロックは、ロックに出自を持ちながらも、歌詞の具象性や情報量は少なく、音響・音像の繊細な肌理をより重視し、インストゥルメンタルの性格が強い。このスケールと音響への傾倒は、ともに抽象的志向として相似的関係を持つといえる。
千葉の写実性は、「ポスト・ロックとしての絵画」と同じく写真などの映像メディアとの影響関係を持っているが、その表情は異なる。「ポスト・ロックとしての絵画」はリヒターやカラー・フィールド・ペインティングからの展開にあるため、輪郭線が曖昧になることが多く、ブレ・ボケ的なニュアンスを含んだ印象を与える。
それに対し、千葉は非常に明瞭な輪郭線を持つ高い写実性を特徴とし、高解像度なデジタル写真の質感に近い。そのような描法や大量のモチーフによる視覚的文脈的情報量の多さは、ラップの情報量や現実的な言葉の強度とリアリティを共有する。千葉の作品は、壁との調和的関係性を必要とせず、スケールを生み出すことはなく、反絵画的な意味を含んだサイズを露呈させる。サイズを芸術として提示することはそれ自体がリアリズムであり、絵画とオブジェを等価に扱う即物性を可能にする。この性格が、本展で絵画を壁から自立させるインスタレーションの基礎となっている。千葉が展開するインスタレーションの手法は、抽象絵画からの展開ではなく、入れ子構造を錯綜させた具象絵画からの展開なのだ。
ヒップホップとシュルレアリスムの融合
千葉のリアリズムとは、先行世代からの後退ではなく別種の絵画の可能性である。それをヒップホップとシュルレアリスムの融合だとしてみよう。ただし、シュルレアリスムとは、俗流化し普及している「シュール」という現実離れした主観的な幻想絵画のことではない。シュルレアリスム(超現実主義)とは、巌谷國士が説明するように現実を超越・超克するものというよりも、「強度の現実」としてある(*3)。「超現実」とは別世界のことではなく、現実に内在するものであり、現実と「超現実」の違いは、超スピードと普通のスピードの関係のように度合いの違いである。この意味において、千葉をシュルレアリストだと理解しよう。
本展では、キュレーターである堀元彰をモデルにした写実的肖像画を、ホットカーペットの上に描いた作品が出品されている。それは床に設置され、鑑賞者はその肖像画を踏みつけることができる。これは、隠れキリシタンを炙り出すために江戸幕府が実行した踏み絵、あるいは統治者の写真を破壊する政治的身振りともつながるような、実在するキュレーターの肖像と、神聖化された絵画に対する汚辱的行為である。さらに支持体であるホットカーペットの「生ぬるい暖かさ」は、キュレーターに対する揶揄とも取れる。この踏み絵の作品が持つ、ルードな破壊的身振りは、ヒップホップとシュルレアリスムの融合をわかりやすく提示している。
千葉のマスキュリニティ
これまでヒップホップとシュルレアリスムは、それぞれにミソジニーやマスキュリニティが批判されてきた。千葉の作品も、またそのカルチャーの性格を継承しており、彼のマスキュリニティを批判することも可能だ。ナイフ、モノ化された女性のヌード、カウボーイ、獅子、SF、エレキギター、孫悟空、比喩化された性器など、マスキュリニティを象徴するわかりやすいモチーフが散見される。ヤンキーカルチャーにおける「ヤバさ」という価値観は、ギャングスタ・ラップが語る暴力的な言葉や過激なエピソードと共有するもので、それがグローカルなコンテクストとして、千葉の作品を支えている。これは、少年少女を主人公にしたイノセントな世界を表象していく「ポスト・ロックとしての絵画」とは対照的である。
この部分において、会田誠との類似性を指摘できるが、私が知る限りではそういう意見はあまり読んだことがない。それは会田がアイロニーの立場をとるのに対し、千葉はユーモアの立場をとる傾向的な差異が要因かもしれない。会田は、メタ的な位置から挑発的な表象批判を行うが、千葉は社会や文化に対してメタ批評的立場をとらない。会田の作品は風刺になりえるが、千葉の作品には風刺があまり感じられない。むしろ彼の作品は、自分が所属する社会的文化的環境に対する虚実を交えたルポルタージュやフォークロア的性格が強い。絵画の中に描かれたテキストに、他人のエピソードを持ち込むのもフォークロア的だ。これは周縁化された者たちの、ローカルな「声」を作品に内在させる千葉のヒップホップ的態度である。
例えば、アートウォッシュという用語があるように、アートはジェントリフィケーションの一環として社会的浄化に容易に加担してしまう。そこでの安全さ、快適さ、美的感性は、排除型社会の欺瞞や階級的社会構造を内包している。千葉が描くマスキュリニティは、マッチョな美学というよりも実在するヴァナキュラーなカルチャーや社会階層の提示である。また千葉の作品には、切り落とされたかのように置かれている千葉本人に酷似した男の首像、ズタズタに切断されたバナナ、殺害された孫悟空など、破壊されたマチズモの表象も散見される。そういうマチズモや自己に対する破壊的身振りに、カニエ・ウェスト以降展開していくヒップホップの内省的運動を見ることも可能だ。
不定形とジェンダー・アイデンティティ
もう少し踏み込んで考えてみよう。千葉が構成するモチーフたちはそれほど単純なものだろうか。画面に描かれているものは、ジェンダー・アイデンティティが明瞭に見えるモチーフだけではなく、石膏でつくられた不定形のオブジェや日用品などで溢れている。またその集積から表れる人体像なども不定形性を強く示している。
この事態は、ロザリンド・E・クラウスによるジェンダーと不定形の理論を接続させて考察できる。クラウスは、80年代半ばからフェミニストの間で共有されていた「男性に組織され支配されているシュルレアリスム運動には、女性嫌悪が色濃い」という認識を考え直す契機として、シュルレアリスム期のジャコメッティの彫刻と、バタイユの「不定形」についての短い文章の発見があったと書いている(*4)。バタイユはこの文章で、「語の定義ではなく「働き」を持つべき」だとし、「「不定形」の働きは「格下げ=分類を乱す」もの」だと論じた。そこからクラウスは、ジャコメッティの彫刻が持っている不定形性は、ジェンダーの二元的分類を不安定にし、絶えざる交換の運動を引き起こすと論じている。
このクィア的なまなざしは、千葉の作品に折り返して考えることが可能である。不定形の白い人体像やオブジェの集積によってつくられた人体は、性差などの区分が不明瞭であり、美や人体は、汚物と不可分にされた低級なものへと格下げされている。《若夫婦と黄色い家》(2010)や《泣き頭 吐き頭》(2015)はその顕著な例としてあげることができるだろう。ここには、性別を問わないサディズム/マゾヒズムが成立し、たんなるジェンダー論に回収することができない部分を持っている。
水平的な回顧展
最後に千葉の今回の展覧会が持っている固有の時間性について検討していく。本展は、2006年から21年までの作品が出品された一種の回顧展である。だが、この15年間という時間の厚みや作品の展開が、本展では感じられず、新作のインスタレーションとしてすべてが違和感なく統合されている。この一貫性と無時間的な作品の広がりは驚くべきことだが、それは作品の不変性以上に、作者が意識的に回顧的な時間の厚みを隠蔽する操作を行なっていると指摘する必要がある。
亀が実際に生活している空中通路という特異な形式だけでなく、展覧会関係者の肖像画、会期、料金、住所、電話番号などが描き込まれた展覧会ポスターやチケットとしての絵画、持ち込まれた動植物、高い位置に展示された貴乃花の手形、パフォーマンス映像の併置などによって、本展のライブ性は遊園地のアトラクション的な満載感で演出されている。実際に多くの観客は本展をアート型アトラクションとして楽しんでいることがSNSでの感想から伝わってくる。これは展覧会の話題性という面では成功を意味するかもしれないが、ペインターや絵画としてはリスクでもある。千葉がその選択をしたのは、絵画が現在から取り残されたメディアになることを強く恐怖しているからかもしれない。ただし、その欲望や不安が強ければ強いほど、千葉は絵画というメディアの遅さを意識させられてもいるのだろうとも思われる。
このアンビヴァレントな感情は本展に色濃く反映されている。亀は、遅いメディアとしての絵画のメタファーであるという解釈は成立する。展覧会は、亀の存在と目線を中心にした設計により、人間中心主義的な認識を外して作品を見る、というメッセージを鑑賞者に与えている。資本主義がつくる強制的な「現在」の速度を括弧に入れ、同時に垂直的な歴史や時間の厚みを解体し、すべてを水平的にしてゆっくり眺めることで構築される「現在」という時間性を、千葉は提示したのではないだろうか。そして、空中通路によって本展が円環構造を強調するのは、千葉が持っている宇宙観なのだと、私は思った。
*1──千葉正也「この宇宙って浅くて横にクソ広いのかなぁ?(「東京ってもうダメなのかなぁ?」の言い方で)」『原稿集 第三号|悪い冗談』(蜘蛛と箒、2020)のタイトルを参照している。
*2──佐々木敦『ex-music〈L〉ポスト・ロックの系譜』アルテスパブリッシング、2014年、1-2頁。
*3──巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』ちくま学芸文庫、2002年、19-22頁。
*4──ロザリンド・E・クラウス『独身者たち』井上康彦訳、平凡社、2018年、11-12頁。