ごりごりとしたテクスチュア(感触)
山内祥太は、テクノロジーを朴訥に使用することのファニーさや不気味さが持ち味の作家だ。彫刻と映像という出自を持つ山内のこれまでの作品は、「3D空間」や「合成映像」のような仮構された空間性を、出来の悪いフォトグラメトリや、安易なグリーンバック合成というテクノロジーの朴訥な使用によって見せつける仕事が多く見られる。そのテクノロジーの用いられ方は、なんというか、言ってみれば「ごりごり」とした感覚を持っている。
本展でのもっとも大きな作品である《カオ1》は、山内の顔の形態をかたどったポリゴンモデルに、次々と様々な「顔」の画像が上からミルフィーユ状に重なっていく映像作品だ。
3DCGにおいては、ポリゴンとテクスチャは別々に管理され、入れ替え可能な存在となっている。デジタル画像では、テクスチャには本質的に「厚み」は存在しない。初期の単純な3DCGにおいては、薄さ0の絶対平面が箱状に組み合わさることによって、3次元的な像を得ていた(*1)。したがって今回の作品では、本来の3DCGにおけるテクスチャの貼り替えでは起きえない「層が重なるたびに厚みが増していく」「それによって段々と凹凸が曖昧になっていく」という結果はシミュレートされたものである。
たんに「形態と表面が本質的に切り離され、交換可能となっている」という3DCGのメディウムの固有性を見せようということであれば、厚みのシミュレーションは必要ないはずだ。とすれば、作家はあえて「凹凸が曖昧に重なっていく」様をこそ、シミュレーションしてみせたかったのだろう。それは、これまでの山内作品にも通底する「感触」のように思われる。
これまでも山内が使用しているフォトグラメトリは、複数の画像から、立体的な像を得る手法だ。人間がふたつの目と脳で行っているように、複数の画像があれば、そこから立体的な奥行きを補完することができる。しかし、フォトグラメトリには、人間が持っているような「幾何学形態を類推する能力」がないために、細かい部分はエッジが曖昧になった像として出力されてしまう。その角が取れた泥人形のようなモデルの不気味さ(*2)が、山内作品には頻出する。
つまりそこで目指されているものは、たとえば2Dのデジタル画像がグリッチしたときに現れる水平性や、自然界にはほとんど存在しえない鮮やかな輝きの色を見せつけるようなメディウムの見せ方ではない。山内がとらえる3DCGのメディウムは、もっと「ごりごり」とした感触を持っている。
会期中に行われたパフォーマンスは、出展作品である面と衣装を山内が身に着け、会場内に立ち、自分自身の幼少期の顔の入れ墨を背中(*3)に彫らせるというものだ。何も知らずに立ち会った筆者はかなりぎょっとしたが、これまでも映像に出演するなど、自身をアイコン化してきた山内の、メディウムをごりごりと扱うこれまでの手つきが、いよいよ「自身の身体」へと向かうようになっている。
*1──現在ではポリゴンやテクスチャを複雑化するだけでなく、凹凸の情報をべつに用意するなどの処理によって、不自然さを解消している。むしろ旧来的な3DCGは「ローポリ(=ローポリゴン)モデル」と呼ばれている。『マインクラフト』は極端な例だが、それ以外にも、近年では『ファイナルファンタジーⅦ』のポリゴンを再現したグッズがリリースされるなど、ドット絵ほどではないが、ローポリそのものも独特の地位を得ている。
*2──今回の展示が諸星大二郎の作品から着想を得ているという点も示唆的である。諸星の筆致は、ある種の「つたなさ」が、「おどろおどろしさ」として効果を発揮している。
*3──諸星「カオカオ様が通る」に登場する、ツォリ人のコブの位置だ。ツォリ人はこのコブを“私”と呼ぶ。このツォリ人については、発表当時よりもむしろ現代人が読むとそこにある種の謂いを読み取ることができる。ぜひとも読んでみるとよい。