歪んだ鏡とデジタルの問題系
画材・図工美術教材の卸売である美術出版エデュケーショナル(*1)の『BSSカタログ2019』をめくってみると、227ページに「アナモルフォーシス・セクションシート」という教材がある。これは、円筒鏡を中心に置くことで手前に置いた歪んだ図が正常な形態となって見える、アナモルフォーシスを体験するための教材である。これを使って児童・生徒は「歪んだ鏡」がもたらす像の変形を味わい、また鑑賞者はその像の変形に驚くことになる…という趣旨の教材だ。児童生徒が自ら工夫する余地はあまりないので、創造力を育むという点で疑問が残るが、格子状に分割した像を拡大するという工程はなかなか面倒であるとはいえ手順は決まっているので、地道にこなせば誰でも達成感は味わえる。
さらにページをめくる。240ページ。ここでは万華鏡の制作セットが、なんと9種類も紹介されている。ほとんどが細長い三面鏡型で、ビーズやスパンコールを収めることで万華鏡として用いる(教材としてはむしろ外側の装飾をすすめる)ものだ。万華鏡とはいうまでもなく、向かい合わせた筒状の三面鏡を除くことによって、そこに写る像が無数に反射を繰り返していく視覚玩具である。そこに写すものは、外界の景色でもよいし、ビーズやスパンコールを仕込めば、色とりどりの幾何学的な形態が無限のパターンで生成される、というものである。
藤幡正樹の個展「E.Q.」は、ふたつの作品(*2)で構成された展示だ。ひとつは《Eternity of Visions(Edition 3 + AP)》(2019)で、180°の天球をとらえるカメラの映像が環状になった帯のかたちで壁に映し出される映像作品。もうひとつは《Matrix of Visions》(2019)で、枕のかたちをした白い石膏に三角形のピースが埋め尽くすようにプロジェクションされているものだ。プロジェクションされる映像は、枕のそばに据え付けられたカメラの映像であり、中の三角形のピースは、それぞれ角度は違えているが、そのすべてが同じ映像を映し出しており、三角形の内部の映像はデジタルズームによって拡大したり縮小したりしている。カメラやプロジェクター、そして映像の変形という操作をはさんでいるが、これらの作品の本質は、いっぽうでは「歪んだ鏡」であり、もういっぽうでは「万華鏡」である。そしてそれ以上のものではない。
メディア・アーティストとしての長いキャリアを持ち、著作もある藤幡は、多くの興味深い言説を残しているが、藤幡のいう「デジタルのキメ」──筆者の言葉でいえば、「画像の演算性の美学」──がこれらの作品にはない。ないというか、技術的には鏡が実現できる以上のことはここで「起こって」おらず、「歪んだ鏡」や「万華鏡」以上の驚きを作品に見出すことはできないだろう。藤幡が思考する「デジタルが介在することによって変化する自己像」について問うのであれば、たとえばカメラやコンピュータ、プロジェクターが自動的に色彩をキャリブレーションする過程を敢えて提示してみせる必要があろう。
もちろん、機構的にカメラやコンピュータを介在させている以上は、そこにデジタルが介入する糸口がないというわけではない。筆者は《Matrix of Visions》のカメラに向かって、手元のiPhoneで#ff00ffのマゼンダを表示し、三角形の全面がマゼンダになるようにしてみた。すると、初めは鮮やかなマゼンタで染まった枕の色合いが、次第にくすんだ色味になった。そこでカメラを遠ざけて、ギャラリーの白い壁が映るデフォルトの状態に戻すと、枕にプロジェクションされる光は、そこに存在しないはずの「黄緑色」から段々と白い色へと断続的に変化した。
これはまるで人間の目の順応のようだが、筆者の目がマゼンタに順応したのではなく、撮影するカメラなり、画像処理の段階で、マゼンダを「環境光」だと判断したために色彩のキャリブレーションが行われたということになる。これは言い換えれば「人間の目の順応作用がコンピュータに外在化されている」といってもいいのだが、この作品がその「外在化を示している作品」と判断することには無理があろう(そこまでのインタラクションを観客に期待するのは期待のしすぎであるし、それこそを作品のテーマとしているならば、枕の意匠や万華鏡のような三角形の分割は余計だ)。
むろん、歪んだ鏡や万華鏡それ自体にメディア・アート的な批評的な構造を見出すということは可能であり、歪んだ鏡だから、万華鏡だからダメだという話でもない。そうではなく、「デジタルの問題系」に触れているかいないか、という話をここではしているのだ。
藤幡は過去作の《Geometric Love》(1987)について、「作者が感じているデジタルとのインタラクションを観客は見ずに、たんに形態にたいして『エロいね』とかそういった感想を持ってしまう」と述べているが、その作者の感じたインタラクションの痕跡を──それは比喩として持ち出せば、油画における筆触のように──作品に込めることができなければ、それは「デジタルの問題系を作品化した」とは見なせないだろう。本展に関していうならば、藤幡は30年前と同じ轍を踏んでいる。
*1ーー現在は美術出版社との資本関係はない。
*2ーー会期中にはもうひとつバナナを用いた作品があったようだが、筆者が展示を見た段階ではすでに胃の中へと消えてしまっていたようだ。