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2021.2.22

「日本写真」は何を語るか。清水穣評「ロバート・フランク ブック&フィルム 1947–2019」展

58年に写真集『アメリカ人』を出版し、ロードムービーのように当時のアメリカ社会を悲壮感とともに映し出した作品で評価を得たロバート・フランク。スイスのヴィンタートゥーア美術館で開催されたその回顧展を出発点に、戦後日本写真の展覧会の限界と今後を清水穣が論じる。

文=清水穣

ロバート・フランク シティ・ファザー ニュージャージー州ホーボーケン 1955
(C) Andrea Frank Foundation Courtesy of Pace/MacGill Gallery, New York
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「アメリカ人」と日本写真

『アメリカ人』

 ヴィンタートゥーア写真美術館で、2019年94歳で亡くなったロバート・フランクの回顧展(RobertFrank, Books and Films 1947–2019)が開かれている。周知のようにフランクは、ドイツから移住してきたユダヤ人の父親とスイス人の母親のあいだに生まれた、半ユダヤ系のスイス人(とはいえ男系血統主義に従って国籍はドイツ人だったが、1941年にナチがユダヤ人のドイツ国籍を剥奪してからは終戦まで無国籍)だったので、スイスは故郷とは呼べないにせよ、フランクのルーツではある。それを意識してか、スイスの美術館や財団はフランクのコレクションに熱心だった。豊富な公私のコレクションとフランク自身から寄贈された作品群から選り抜かれて構成された本展は、珍しい最初期のプリントや雑誌掲載作品を、雑誌の現物とともに初公開し、それに続けて、フランクにとってアルファでありオメガであるような写真集『アメリカ人』(1958)が結実していく数年間のプロセスを、コンタクトシートとともに展示するなど、小規模ながら見ごたえのある展覧会であった。例えば、最初期作品の矩形の形から、フランクの繊細なトリミング感覚がうかがわれ、また、『アメリカ人』の有名ないくつかのイメージをコンタクトシートと比べると、決定稿となった写真は、意外と前後のない本当に偶然の一瞬の写真である。フランクはそれを研ぎ澄ますようにトリミングしていて、この写真集にかけた執念が伝わってくる。

コンタクトシートより。「トロリー ニューオリンズ」は、前後のない、1枚だけのカットであることがわかる
コンタクトシートより。前後に類似のカットがあり、そこから1枚選んで、さらにトリミングを施した例

 さらに、『アメリカ人』は1冊のアーティストブックとして、その内部で複数のイメージ(星条旗、ジュークボックス、等々)を一定の間隔で反復することによって、ページを左から右へ進める通常の方向に回帰や回想という方向を重ね合わせるとともに、その外部でウォーカー・エヴァンスの『American Photographs』(1938)を参照しているが、そこでは、すでに50年代半ばの時点で、アレ、ブレ、ボケ、ティルト、逆光、写真家の映り込み、不適切な露出……といった、それまでは失敗やミスとされてきた映像効果が、積極的に導入されているのみならず、使いつくされている。否定的効果やコンセプチュアルな写真集の編集自体は、いまから見れば戦前からあるので、フランクが「新しく」見えたのは、戦後写真のディスクールが大幅に「ドキュメンタリー」に偏向していたおかげ(?)であり、彼が特別オリジナルだったわけではない。しかしその意味は、表現技法や編集の観点から見て『アメリカ人』はデビュー作というよりむしろ「最後の作品」であり、そのなかにないものがないということである。60年代以降の写真が、フランクの目に(そしてフランクを可愛がったエヴァンスの目にも)ごくつまらない、とっくに自分が終わらせたものの変奏と反復に見えたとしても、不思議ではないだろう。コンパクトな回顧展を通して以上に述べたことは、一種の再確認であった。スイスの目の肥えた観客にとってこの展覧会は「普通」であろう。実際(コロナの影響もあるだろうが)展覧会は空いていた。

 私がふと思ったのは、この同じ観客が同じ場所で、2016年に日本写真の展覧会(Provoke: Between Protest and Performance – Photography in Japan 1960–1975)を目にしたのだ、ということであった。

ロバート・フランク トロリー ニューオリンズ 1955 (C) Andrea Frank Foundation Courtesy of Pace/MacGill Gallery, New York

「日本写真」のディスクール

 21世紀になって、学術研究、展覧会企画、市場価値のそれぞれの面において、日本の戦後写真に本格的な関心が集まるようになった。「本格的」というのは、70年代後半に始まるカルチュラル・スタディーズとポストコロニアル・スタディーズによって、それまで意識的・無意識的に欧米の人文科学を縛ってきた(縛っている)レイシズムとコロニアリズム、すなわち様々な差別的思考のフレーム(「オリエンタリズム」「The West and the Rest」「メタフィジカルで知的なWestとフィジカルで感性的なRest」「成人で男性的なWestと女子供のRest」等々)が、一つひとつほじくり返すように批判されるにつれ、人文科学のなかで「日本写真」という対象への向き合い方が大きく変化した、その変化を踏まえているという意味である。日本写真は、もはやエキゾチックで人類学的な標本ではなく、グローバルな美術史学や表象文化論の対象として分析され論じられるべきものになった。 

 そのきっかけのひとつが1999年、サンフランシスコ近代美術館での森山大道回顧展だったと言って異論のある人は少ないだろう。2003年にはより包括的で大規模な日本写真史展がヒューストン美術館で開催され、そのカタログは、英語圏の日本写真の研究・展覧会に対してポストコロニアルな標準レベルというものを示す効果があった。以来約20年間、もっぱら英語圏を中心に日本写真の研究・展覧会・市場は発展と深化を遂げてきた。2000年代の森山大道の国際的なブレイクに牽引されて、当時の(大道以外の)同時代写真へも注意が向くようになり、そこで注目された同時代写真を踏まえて2010年代になると、より専門的に掘り下げる展覧会が続いた。

展示風景より、右壁面は「ペルー」のシリーズ(1948) 撮影=筆者

 英語圏外でそのレベルを達成したのが、ヴィンタートゥーア写真美術館でのプロヴォーク展であった。この企画展は、それ以前の啓蒙的な「写真家紹介」「戦後史紹介」のレベルを踏み越え、プロヴォークに先駆ける、60年代安保闘争写真というオルタナティブな出版文化史を掘り下げ、その文脈のなかにプロヴォークを批判的に位置づけるという、専門的で優れた展覧会であった(*1)。会期中の観客動員数よりも、会期後に展覧会図録を通してゆっくり波紋を広げていくことを目指す、ヨーロッパの小規模美術館の面目躍如たるところがあった。 だが4年前、生前のロバート・フランクがその展覧会を見たら、どのような感想を持っただろうか。おそらく、60年代の日本写真は、上に述べたように、彼にとっては使い尽くした表現手段を、戦後日本という固有の文脈に応用しただけに見えただろう。それに関心がなければ「そうですか、日本は激動の時代でしたね」で終わりだろう。しかも「激動の時代」といっても、激しい学生運動は同時代的に大抵の先進国にあったことだから、その「固有」性も弱い、と。

 なるほど戦後日本写真の展覧会が、まず日本学と戦後史研究の蓄積の上にカルチュラル・スタディーズとポストコロニアル・スタディーズが載り、そこに最近20年の戦後写真史研究が合わさって初めて成立する、典型的なディスクール優先型となるのは、「普通」の現象かもしれない。しかし、展示がそのディスクールのドキュメントに偏り、カタログ論文を読んでも具体的な作品分析にお目にかからない(写真家が言うこととその写真は別物だという前提で、例えば、アレ、ブレ、ボケ……などの表現手段が各作家で、なぜ、どのように異なっているか)展覧会は、そろそろ限界に達しているだろう。言い換えれば、日本社会や日本の歴史的文脈の固有性を紹介し説明する、結局のところ啓蒙的な展覧会はもういらない。時代の文脈の展覧会ではなくて、本展のように作家の個人名を冠した、まず何よりも作品に語らせる日本写真展が再び開かれる日が待ち遠しい。

*1──2019〜20年、ヴァレンシアのボンバス・ジェンズ・アートセンターでの戦後日本写真展(The Gaze of Things : Japanese Photography in the Context of Provoke)は明らかにヴィンタートゥーア展(Provoke: Between Protest and Per formance – Photography in Japan 1960–1975)を意識した企画展である。

『美術手帖』2021年2月号「REVIEWS」より)