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REVIEW - 2020.4.25

劇場と美術館の融合が生み出す、新たな演劇空間とは。北澤ひろみ評『消しゴム森』

劇作家の岡田利規と、アーティストの金氏徹平が、金沢21世紀美術館で発表した『消しゴム森』。インスタレーションと映像、そして演者と鑑賞者とが一体となるような演劇体験について、アーツ前橋学芸員の北澤ひろみがレビューする。

北澤ひろみ=文

チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』より  撮影=木奥惠三  写真提供=金沢21世紀美術館
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いま・ここにいる人間のためだけではない演劇

 チェルフィッチュの 『消しゴム森』は、モノとヒトの関係を身体表現によっていかに再考しうるのかについての新たな試みであり、金沢21世紀美術館の大小様々な展示室は実験室と化していた。岡田利規の作・演出、金氏徹平のセノグラフィーによる本作では、人間中心主義を超えた視点からモノとヒトがとらえられている。起承転結はなく、どこからどのタイミングで見ても成立する演劇には、舞台、客席の定位置もなく、時間と空間は観客によって選択される。演劇の枠組みから解き放たれ、モノとヒトが棲息する森を彷徨しながら、観客もまた演劇の一部となっていく。   

チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』より 撮影=木奥惠三 写真提供=金沢21世紀美術館 

 岡田を本作へと駆り立てたのは、東日本大震災後に驚異的な速度で人工的に変貌を遂げる陸前高田の風景であった。それはもはや人間的な尺度を大きく逸脱したものであり、そこから人間中心主義への“疑い”が生まれ、ヒトとモノとの間に、使う、使われるといった主従関係ではないフラットな関係性を模索していった。このコンセプトを共有しながら、各々の空間の特性を活かした、劇場版 『消しゴム山』(KYOTO EXPERIMENT、2019)と美術館版 『消しゴム森』の2つのバージョンが相次いで上演された。

チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』より 撮影=木奥惠三 写真提供=金沢21世紀美術館 

 展示室内には金氏の作品がインストールされ、場所を移動しながらのチェルフィッチュのパフォーマンスが、毎日行われていた。 
 モニターから流れる映像やライブ・プロジェクションを用いた「映像演劇」は、作品を多層化し、現実とフィクションの間で揺れ動く曖昧さを創出した。「映像演劇」とは、役者の演技を撮影した映像を用いた新たな手法であり、映像・空間・鑑賞者の関係性に新たなレイヤーを提示する。演技する身体と言葉によって生じる、演劇における現象としてのフィクションと、映像に映し出されることで役者がその場に存在するという、もうひとつのフィクションがあいまって、場に独特の生々しさが宿る。
 また、「モノたちの演劇」と題された展示室では、誰もいない場所にも人知れず風景や音が存在し、観客や聴衆がいなくても世界が在ることを示唆するセリフが流れ、人間不在の場所における演劇の可能性が提示された。

チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』より 撮影=木奥惠三 写真提供=金沢21世紀美術館 

 金氏はこれまでにも岡田の作品をはじめ、ARICAによる『しあわせな日々』(2013、原作サミュエル・ベケット)や自身の映像作品を舞台化した『tower(THEATER)』(2017)など、演劇と関わりを持ちながら、表現の場を拡げてきた。身の回りにある日用品などを用いてコラージュ的な手法で制作される金氏の作品は、ヒトのためにつくられたモノの用途や意味を失わせ、再構築していく点で、すでに本作のコンセプトを体現しており、演劇のために設えられたというより、そのままその場に在りながら演劇を空間的に知覚できる環境となっていた。『消しゴム森』においては、モノとヒト、演じる者と観る者、演劇と美術など、あらゆる境界は溶解し、新たな関係が結ばれていく。金氏の作品には、様々なモノを組み上げた上から白い樹脂を何度もかけていくことで、モノ同士がつながり、ひとつのかたちとなっていくものがあるが、本作で展示室の間をつなぐ空間に置かれた彫刻には、パフォーマーによって白い液体が注がれた。液体が注がれる度にかたちを変える作品は流動的で、永遠に完成することなく、生き物のように生々しく存在していた。

 また、パフォーマンスでは作品の移動も行われ、定位置にとどまらない作品は、連続する時間のなかにその身を委ね、モノとして存在していた。繰り返し、作品の場所が置き換えられる様子は、千葉市美術館での目[mé]の個展「非常にはっきりとわからない」(2019)での展示室の状況を彷彿とさせた。美術館、あるいは演劇を構成する要素を一度解体することで、ただ展示室を順路に従って進めば、あるいは客席に着きさえすれば、何かを享受できる当たり前の環境は失われ、目の前で起こっていることをとらえるには、能動的に対象に向き合わざるをえなくなる。

チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』より 撮影=木奥惠三 写真提供=金沢21世紀美術館 

 関連プログラムのポスト・パフォーマンス・トークの中で、宮沢章夫は岸田戯曲賞の授賞式(2005)での「これからもずっと“疑う”ことを忘れずに演劇を続けていきたい」という岡田のコメントに触れた。受賞作の『三月の5日間』(2005)は、所謂、演劇的とされてきたセリフや身振りを“疑い”、現実的な表現を追求することで、現代を生きる若者の抱く、とらえどころのないリアリティを描き出し、演劇というシステムに対する懐疑と、新たな方法論の構築が高く評価された。スーパーデラックスで同作(2006)を観た際には、独特の要領を得ないセリフや落ち着かない動作に過剰さを感じたが、その後、むしろ日常に、いかにチェルフィッチュっぽい言葉や仕草があふれているかに気づくと、日常そのものがすでに過剰であることが認識できた。

 岡田の“疑い”とは、たんなる批判ではなく、現代を表現するうえで現実とのズレを生じないための術であろう。『三月の5日間』ではイラク戦争、『消しゴム森』では東日本大震災という、現実に起こっている事象やそれに対する社会や個人の反応を洞察し、現実が既に演劇を超えていると感知すると、方法論を更新し、既存の演劇手法に捉われない表現を探求していく。そうして生み出されるセリフや動作の細部、もしくはそのすべてに未分化な現代の無意識が現れ、我々の身体がすでに知っているはずの現実が認知される。人間中心主義の視点は、人知を超えたものの存在や、その脅威の前で人間が無力であることを見え難くするが、『消しゴム森』のなかでは、ヒトの都合で引かれたものに過ぎない、人間とそれ以外のものを隔てる境界線は消え、見なくてはならないものが浮かび上がってくる。

チェルフィッチュ × 金氏徹平 『消しゴム森』より 撮影=木奥惠三 写真提供=金沢21世紀美術館 

 先のトークの中で岡田が語った「疑い続けてきたことで、演劇を信じることができるようになった」という言葉に、演劇への態度が集約されていた。かつて『三月の5日間』で演じることへの“疑い”を投げかけ現実感を獲得したように、『消しゴム森』では、人間中心主義、そして演劇の構造を“疑う”ことで演劇の可能性を拡張し、〈いま・ここにいる人間のためだけではない演劇〉が実現した。おそらくこれからも言葉と身体の関係性を軸に置きながら、信じるために“疑い”続けることで、チェルフィッチュは現在形の身体を更新し続けていくであろう。