ゆさぶりの閾値
昼と夜、そのわずかなあいだにある太陽を、人は美しいと感じるとして。
カメラによって3次元空間(x, y, z)が2次元(x, y)へと置換されるように、それが色(r, g, b)へと置換されることもまた、人間の眼球の仕組みにもとづいている。網膜には、長(赤)/中(緑)/短(青)波長に反応するそれぞれの錐体があり、可視光線はこれら3色の値によって知覚される。そして、様々な色覚の生物が地球に存在し、さらに次元の数が異なる宇宙に知性体がいるとして、夕日は必ずしもある生物の網膜に映る像のようなものではない。平川紀道は、例えば太陽が昇って沈むというような回転ではなく、それを空間(x, y)、色(r, g, b)、そして時間(t)という6次元──空間/色/時間を等価にする高次元空間──で回転させる。
この6次元の回転が映し出されている展示空間からほど近い、わずかに座標(x, y, z)を変えた空間で「human property (alien territory)」は開催された。そこでは、黒/白の2次元空間において、白/黒のホップ座標系/超球面座標系で表示された2つの3次元球面、すなわち《S³-Hopf coordinates》と《S³-Hyperspherical coordinates》が回転している。
異なる式でプログラムされた2つの《S³》は、それぞれが4次元ユークリッド空間にある。球面とは、3次元空間において一定点からの距離が等しい点全体で囲まれた球の表面であり、2次元の円の円周が1次元となるように、3次元の球の球面は2次元となる。そして類推すれば、4次元の超球の球面は3次元となる。通常の3次元空間においては、球を回転させ、網膜に2次元の球面の連続をスキャンし、それを3次元の球としてとらえているように、4次元空間においてもまた、4次元の超球を回転させ、3次元の球面の連続をスキャンし、4次元の超球としてとらえるのである。
3次元空間(x, y, z)には、平面(x, y)に存在しない高さ(z)があるように、4次元空間(x, y, z, w)には、空間(x, y, z)に存在しない方向(w)がある。それゆえ、4次元にある3次元球面の投影は、人の網膜でとらえられないほど極度に複雑化するが、4次元の知性体であれば、人間が円や球を見るように、その全体をシンプルにとらえることができよう。
この回転は、約100年前にマルセル・デュシャンが4次元の連続を図示する3次元透視図法を思索し、やがて絵画を「網膜的」であると批判したことと無関係ではない。とはいえ、いまやテクノロジーによって、4次元の連続は2次元の紙上ではなく、時間を宿したモニター上で、アルゴリズムにもとづく3次元透視図法において、その3次元球面を回転させている。しかしここで重要なのは、2つの《S³》がサイエンティフィック・ビジュアライゼーションとしてではなく、2つの異なる式によって表された同一の3次元球面を、等しく回転させる2つのモニターのあいだに、そのどちらの式にも──そして網膜にも──現れない空間を重ね合わせ、論理と直感による承認にゆさぶりを与える、ということである。
論理的に可視化される領域とそれ以外の領域、そのわずかなあいだにある値を、人は美しいと感じるとして。
《knowns》は、0にA、1にB……25にZ、26にAA、27にAB……と数字を置き換え、すべてのアルファベットの組み合わせを実行するプログラムである。それは意味と無意味を等価に、数字をあらゆる文字列へと置換していき、その文字列を14万の人名データベースに照合し、人名だけをハイライトで表示する。
ここに回転があるとすれば、それはあまりに長い周期となる。例えば、Alexanderは307,039,224,483番目となり、1秒に60個のアルファベットの置き換えを行うとして、表示されるのは約162年後である。そして、すべての組み合わせが終わるとされる約130億年後に、このプログラムが破綻するか、再びAに戻るかはわからない。《knowns》は、数字から置き換えられたアルファベットを淡々と組み替えるため、河原温が過去と未来の100万年という時間の流れを数字で列記した《One Million Years》のようであり、しかしインターフェースにおいて、河原がその日に出会った人の名を列記した《I Met》のように、プログラムの演算によって示した人々の名を鑑賞者と出会わせる。
あらゆるアルファベットの組み合わせは、各国の言語で発音されるすべての音と、その名に込められた誰かの想いを結びつけるだろう。そして、ハイライトで表示される名のみならず、アノニマスであるN.N.、すなわち「nomen nominandum(いつか呼ばれるべき名)」と「nomen nescio(その名を私は知らない)」は、「knowns」と「unknowns」の領域をざわめかせるだろう。この広大にも思われる「human property」は、表音文字という領域において限定されているため、別の次元にいる知性体にとって、それが可視/可聴領域となるかは不明である。それゆえ、2つの《S³》と同じく、ある対象の全体をとらえようとするアルゴリズムは不可知へと向かい、人間の領域をゆさぶるのである。
「human property」と「alien territory」のわずかなあいだにある「何か」を、人は美しいと感じるとして。
《knowns》の隣に設置された《unknowns》は、A-Zという文字に対応させた26人の女性へのインタビュー映像の組み合わせを実行するプログラムである。そこでは、モニター上に走るランダムな16桁の文字列と連動し、1ピクセルの横列にスライスされた人物像を部分とする全体像が構成される。そのよく知っている(knowns)ようで、まるで知らない(unknowns)人物は、一つの時間を軸に、文字列に対応した線という1次元で表示される座標を、それぞれに既知から未知へと重なり合うように移行する。
《Find ‘unicorn’s on the far side of the moon》は、月全球の標高データを文字へと変換し、そこで「unicorn」という文字列を探索するプログラムである。それもまた、一つの座標を別の座標に置き換えて、移行させるものとなるが、ここでは既知から未知へという一方向ではなく、その行く先がユニコーンという未知であるが既知である「human property」、すなわち結びつかないものを結びつけようとする名「ūnus(一つ)」へと翻る。
こうして値を組み替えられたことで現れる像は、まるで昼と夜のわずかなあいだのように、可知と不可知、そして「human property」と「alien territory」のわずかなあいだへと消えていく。けれども、その前に、あるいはその変換の論理を承認した後でなおいっそう、それらに一対一で対応していない可逆的な往還、すなわち移行そのものが、ふと回転という対称性をともない感知されるのはなぜか。平川は、このゆさぶりの閾値となるものを組み替え、示しているのである。