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REVIEW - 2020.1.31

アートとゲームの親和性。中尾拓哉評 アラン、斉と公平太「非零和無限不確定不完全情報ゲームとしてのアート?」

ゲームとアートとの関係について思考し、新たなゲームを生み出す2人のアーティスト、アラン(三浦阿藍)と斉と公平太による展覧会が、副田一穂のキュレーションによって行われた。既存のゲームを組み替える斉と公平太と、新たなゲーム空間を生み出すアランの制作から見えてくるアートとゲームのあわいについて、『マルセル・デュシャンとチェス』の著者である、美術評論家の中尾拓哉がレビューする。

文=中尾拓哉

TALION GALLERYでの展示風景 撮影=木奥惠三
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アートとゲームのプレイヤー

 対立する互いの利益によって勝敗を分かち(零和)、かつ終わりがあり(有限)、偶然の要素はなく(確定)、互いの情報を開示しながら展開される(完全情報)、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」を裏返し、アートを「非零和無限不確定不完全情報ゲーム」とするべきか、否か。本展は人類にとって古く新しい、ボードゲームをテーマに構成されている。

斉と公平太 将棋形チェス 試作品 2019 撮影=木奥惠三

 古代インドのボードゲーム「チャトランガ」をルーツにもつとされる「二人零和有限確定完全情報ゲーム」を代表する「チェス」と「将棋」であるが、前者においては垂直的、後者においては水平的、というように駒の形状を異にしている。こうした立体的なチェスの駒と平面的な将棋の駒に、ヨーロッパと日本の伝統的な絵画空間における、三次元性と二次元性を透かし見ることもできよう。斉と公平太は「将棋形チェス」として、文字通り、将棋盤の9×9のマスをチェス盤の8×8のマスへ、そして8種の将棋の駒を6種のチェスの駒へと物理的に置換する。将棋形チェスの試作品では、市松模様のチェス盤に、白と黒の将棋の駒が置かれ、それぞれに漢字でチェス駒の名(王、女王、塔、僧正、騎士、歩兵)が書かれており、またプレゼン用デモ機では、将棋盤が8×8のマスとなるように切断されているが、駒は白と黒には分かれておらず、将棋駒に片仮名でチェス駒の名(キング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーン)が書かれている。

斉と公平太 将棋形チェスプレゼン用デモ機 2019 撮影=木奥惠三

 会場で厚紙に印刷された将棋形チェスが配布されていたが、「将棋の形」をしたこれらの駒は「チェスの駒」として意匠登録され、このゲームは現在商標登録申請中だという。こうした活動自体にアート的なゲーム性を見ることはできるだろう。駒と盤の差異のみならず、例えば将棋には駒に色分けがなく、相手から取った駒を「持ち駒」としていつでも使えるルールがあるが、将棋とチェスのルールの差異のなかへと介入し、そのどちらの要素も組み替えるような、折衷された将棋とチェスを考案することも可能である。そうでなければ、ルールがチェスで、形状が将棋である場合、ゲームとしてはチェスでしかない。けれども、将棋形チェスはかつてシュルレアリストが表したような、駒の形状=イメージの変形ではなく、別の文化圏のなかにある対象を直接的に代替させるものであるから、こうしたルールをそのままにした、形状のみの翻訳に、アートにおいてこれまで用いられてきたメソッドを想起することができる。そして、ここでのゲームにおけるイメージの置換は、かつて日常からアートへとフィールドを移し、シニフィアンとシニフィエをずらしたレディメイドの異化のようでもあり、しかしレディメイドにおいてよりもいっそうルールを知らない者に対して、そうしたルールにおけるエラーが無効であることを示唆しているかのようでもある。アートで用いられてきた異化の方法ではあっても、将棋形チェスはゲームとして正常に機能する。

 「二人零和有限確定完全情報ゲーム」には3つの位相が重なり合っている。それは駒や盤など目前にある視覚的なイメージとしてのインターフェイス、ルールに則り脳内で探索(先読み)し合う抽象的なゲーム空間としてのデータ、そしてプレイヤーが対峙するという実践的な対立関係としてのプレイの位相である。ここで「非零和無限不確定不完全情報ゲームとしてのアート?」という展覧会名にある「?」こそを考えなければならない。アートを単に、勝敗を分けず、終わりがなく、偶然であり、情報が開示されていないゲームと見るのはあまりに素朴であり、「?」はそうした単調さにこそ付されているはずだからである。いまや二人/複数、零和/非零和、有限/無限、確定/不確定、完全情報/不完全情報、これらは組み合わせられることで、ゲームとなり、そしてアートになりうる定義なのだ。マルセル・デュシャンがアートとチェスに見ていたのはこれらの組み替えの可能性なのであり、ゆえにそこには制作とプレイ、偶然と必然の双方が邂逅する。こうした組み替えを行っているのがアランによるゲームである。

アラン ゾンビマスター 2017 撮影=木奥惠三

 「ゾンビマスター」は、実際に「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に「不確定」を組み込むことを着想としている。ゾンビマスターの試作品では市販のチェスセットが用いられており、その盤がチェスの8×8のマスをモチーフにしていることがわかる。そして、その駒はチェスにおいての地位や職業などの性質(=駒の動き)を失い、意思をもたずに動き回るゾンビ(現代人のメタファーとも読める)となっているが、何よりもそれらの形状は、垂直的でも水平的でもない。こちらも試作品から明らかであるが、ゾンビは膝を抱えるように丸まり、転がるように設計されている。ゲームの開始時に駒を垂直と水平から解放し、サイコロのように振り、その向きを決定すること。この偶然の介入によって、「確定」から「不確定」へとゲームの定義が大きく変更される。こうしたインターフェイスとデータの位相の変形は、当時の制服を着用する一般的な職業をポーン(歩兵)のような典型として扱い、またチェスへと偶然を導入しようとしたデュシャンの発想に一脈通じている。

アラン ゾンビマスター試作品 2017 撮影=木奥惠三

 そして「コムニカチオ」では「非零和」がもち込まれ、明確な勝敗が決められておらず、「他のプレイヤーよりも強く生きる」ことが「目的」として設定されている。戦うことも、逃げることも、資源を蓄えることも、領土を拡大し繁栄することも可能であり、「強く生きる」というあいまいな勝利条件において、プレイヤー同士のデータのやり取りが行われるのである。

アラン「コムニカチオ」(2018)の展示風景 撮影=木奥惠三

 本展では、ゲームの試作品のみならず、言葉や図によって構想段階が示されており、その制作にまつわる試行錯誤が垣間見えるが、何よりもそうして制作された将棋形チェスおよびコムニカチオが実際にプレイできるように設置されていることは重要である。言うまでもなく、座して将棋形チェスを、テーブルを囲みコムニカチオをプレイすれば、それらのイメージのみならず、データとプレイの位相にアクセスすることが可能となる。

 アートとゲームにある親和性をどこまでつかめるかは、依然として多方向から模索されていかなければならない。既成のゲームを組み替える斉と公平太と、ゲーム空間自体を新たに立ち上げるアランの制作は、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」をモチーフにしながらも、展開されている位相においては似て非なるものである。そして、2人が制作したのはゲームであり、それは作品として展示されるよりも、むしろプレイされるためにこそある。

 2人のゲームと関連作品は、ホワイトキューブで展示されるように台座や額縁で整理され、ボードゲームカフェで遊ばれるように書籍やゲーム台とともにあるが、一体どこに置かれるべきものであろうか。こうしてアートか、ゲームか、と視点が揺らぐこととなるが、しかしこれらのゲームに、ギャラリーという場にあることによってそれがアートになるというような制度論を見ているのではない。「非零和無限不確定不完全情報ゲームとしてのアート?」の「?」にある、鑑賞者がアートをそのようなものとして見ているということへの問いかけである限りにおいての、ゲームとアートのあいだにある鋭い対立から、すでにアート/ゲームの中にセットされているゲーム/アートが双方においてプレイされるような局面へと繰り返し組み替えられていく、そうした兆しを見ているのである。

会場風景 撮影=木奥惠三