ゲーム空間上の鳥
祖師谷大蔵駅から続く、にぎやかな商店街を通り抜け、少し脇道に入った閑静な住宅街の一画、古木の敷かれたギャラリーでモノクロームの風景の前に立つ。木製パネルに塗られた白色の塗料に、黒色の景色が浮かび上がっている。風景画か、風景写真か、と画面のなかを探索する。ローラーの跡と像のにじみが混ざり合うその荒い白と黒は、塗膜の凹凸と相まって、どこか空気遠近法で描かれた絵画のように、後景をやわらげ、かすんでいる。しかし、よく見れば、風景は画素の配列を示すドットマトリクスによって規則正しく、微細に分断されているのである。
こうした絵画、写真、ビットマップ画像の重なりに気づきながらも、意識はひとつの風景、すなわちある時代や場所の情報として伝達される情景のなかへと入り込んでいく。
街へと続く砂の上の足跡、椰子の木の高さや葉の広がり、人々でにぎわう建物の並び、それらの位置関係。どこか人工的な構図のもと、中央の空に飛ぶ1羽の鳥が目に映る。
このようなピクチャレスクな風景は、すべてシミュラークル、すなわちオープンワールド型ゲームの「風景写真」である。ただし、相川勝はモニター上のゲーム画面をカメラで撮影するのではなく、スクリーンショットで停止させたゲーム画面が放つRGBの光をプロジェクターで、パネル上の写真乳剤へと転写し、モノクロ写真として定着させている。
それゆえに、この鳥が飛んでいるという「一瞬」に意識がおよんだ「瞬間」の体感は異質なものとなる。モニターという二次元平面に映し出された砂、椰子、建物、そして鳥は、質量をもたない、あるいはそれぞれが完全に同質なコードの集積にほかならない。なるほど、ゲーム空間はプログラムされた現実のシミュラークルであり、0/1の二元的システムによって生成された非実体的なシミュレーションそのものである。
しかし、当のゲーム空間において、プレイヤーはゲームのコンテンツやレベルをコントロールするメタAIとのインタラクションによって、キャラクターを操り、プレイ体験を得ている。さらにそのオープンワールド型ゲームにおいて、プレイヤーはストーリーを進めることもできるが、必ずしも筋書きに従う必要のない「サンドボックス(砂場)」と呼ばれるゲーム空間で、何が起こるのかを試しながら、ある程度自由度の高い状態で探索をすることができる。つまり、現実をシミュレートする物理法則がプログラムされたゲーム内の時空間、すなわち現実とシミュラークルのあいだにあるバーチャル環境において活動=プレイする。このとき重要なのは、プレイヤーは現実とゲーム空間の境界が近づき曖昧になった場において、ゲームへと引き込まれ、固有の経験を得ている、ということである。
そして、たどり着いた景色、すなわちキャラクターが移動できる地形や、そのなかで飛ぶ鳥は、プレイヤーキャラクターとは違い、データとアルゴリズムを動的に変化させるプロシージャル技術によって、自動生成されている。それゆえゲーム空間上で数個のドットで表され飛ぶ鳥の一瞬は、実質的にはプレイ毎に新しく生成される時空間と、現実の瞬間の、二重の「時間」のなかで体感される。
このような時間の重なりは、実在しない人物を自動生成させるウェブサイト「This Person Does Not Exist」でAIが合成した35枚(実質的には無数)のポートレートを転写した《#selfy》に浮かび上がるデジタル・デヴァイスの時刻表示において──字義通り──いっそう前面に表れている。転写されたデヴァイスの時刻表示は、非実体的に生成される人物と現実世界との接点となるが、写真に撮影日時を入れるようなあり方での過去の保存ではない。それは、相川が暗室のなかでタブレット端末を起動し、その明かりで映したAIによる画像(それぞれが別のデータ作成日=瞬間をもつ)とともに印画紙へと露光し、転写され、反転した時刻であり、それゆえ過去の保存というよりむしろ──プロシージャルなゲーム空間と同様に──無限に現れ続けている名をもつ必要のない非実在的な人間、すなわち本来的に画像として誕生してくる表面しかない二次元世界に、現実へと移行するための時間を「与える」ものである。
アンディ・ウォーホルがCMYKのヴァリエーションによってシミュレートしたポートレートを転写したように、相川はアルゴリズムのヴァリエーションによってシミュレートしたポートレートを転写する。それらは、色と形、というパラメータの違いはあっても、いずれにせよイメージのヴァリエーションではある。しかしその2つの──ある意味ではともに大衆的な──イメージはそれ以上に、例えば他殺か自殺かわからない謎の死を遂げた、人々の記憶に残る有名女優と、画面をリロードすればAIによって数秒間でゼロから生成され、そして保存しなければ誰にも記憶されず消滅してしまうデータとのあいだでベクトルを異にしている。それゆえ、その時刻表示は、まるで野村仁が無数に存在する道路のひとつをたどりながら時刻を書き続け撮影した《道路上の日時》(1970)に表された連続性のように、無数に存在するブラウザ上で数秒ごとに生成し消滅する時間=シミュレーションへと連続的な経過を与える痕跡の視覚化となるのである。
こうしたシミュレーションにおける反復と、それに時間を「与える」ことにおける差異は、相川が「CDs」シリーズ、すなわちCDという大量生産品のジャケット、歌詞カード、帯などを手書きで一つひとつ複製し、自らがアカペラで歌った音声をCDに焼き付けた作品群に通底する。そしてゲーム空間は、木製パネルの支持体に塗られた写真乳剤というメディウムに影として定着し、パネルについた汚れや痕跡によって物質性を宿している。相川は現実とシミュレーションの二重の「時間」に、物質的な「時間」を与え、固定するのである。
モニターサイズで切り取られているこれらの「風景写真」は、現実とシミュレーションのあいだにあった時間を宿している。そして、ゲーム空間内において、コンピュータグラフィックスであるという意味で絵画的であり、プロシージャルに生成した風景のスクリーンショットという意味で写真的であった画像は、いまや現実空間内において、そうしたシミュレーションを物質化させた風景写真として、油彩あるいは水彩で描かれたように、それらのメディアのあいだで曖昧になっている。
だからこそ、その鳥はひとつの点や1本の線ではなく(絵画)、実際に飛んでいたわけでもなく(写真)、いまやモニターの向こう側で動いていた状態のピクセルでもない(画像)。むしろそうした二重の「時間」に与えられた物質的な「時間」によって、絵画/写真/画像のそれぞれのように「見える」という重なりと、現実の模倣を複製してきたシミュラークルとテクノロジーの変遷の反転、すなわち画像/写真/絵画へと向かって開かれているのだ。
スマートフォンで撮影した画像を見ながら、その前に立ったときに覚えた感覚を思い出そうとする手元のディスプレイ上のピクセルと、そこに投影されている《landscape》のドットの重なりにおいて、像は再びビットマップ画像へと揺り戻されている。いまこのインターフェースにおいても、すなわち情報が表面にしか存在しない二次元において、絵画/写真/画像はひとつである。ならば、と相川はそれら別々のルールに従っているはずのシミュラークルを、ひとつのレイヤーに重ねるのである。プロシージャルに生成されたイメージにすぎない「サンドボックス(砂場)」の風景は、「Sandy Shores(砂浜)」として、粒子の蠢きとなり、変換されるデータのあり方に沿う非実体的な場所を確保する。