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REVIEW - 2019.10.18

絵画と文章による自己検証を重ねた画家。 諏訪敦評「没後90年記念 岸田劉生展」

38歳という若さでこの世を去りながら、同世代や後世の作家に多大な影響を残した岸田劉生。没後90年を迎え開催された「没後90年記念 岸田劉生展」では、約150点の作品が制作年代順に紹介された。画風を突き詰め、展開させ続けた岸田の画業に画家・諏訪敦が迫る。

文=諏訪敦

道路と土手と塀(切通之写生) 1915年11月5日 麻布に油彩 56✕53cm 東京国立近代美術館蔵

繰り返したスタイルの更新

 〝若気の至り〟と過去を振り返りながら感傷に浸るような自己への寛容さを、私たちは手放すほかないのかもしれない。SNSの評価に翻弄される人々は、プライベートな行動を逐一開陳するし、その履歴はネット上の誰かに記録されるだろう。ときには素性も知れない人々に容赦なく遡られ、主張に一貫性が欠けていることを追及されたりもする。たとえそれが未熟な美大生だとしても現代に生きるアーティストたちは、過去のどんな巨匠たちの残した痕跡よりも、大量かつ赤裸々な情報を保持していて、それらは日々クラウドに積み上げられていく。

 近代以前の、残された情報が少ない画家たちを発掘する行為に、研究者たちを向かわせる動機のひとつは、その〝わからなさ〟にあって、忘れられた画家であっても、再評価可能な側面や思わぬ交流関係などを発見できたなら、大きな喜びがあるだろう。その点、日本の近代美術において、岸田劉生ほどその行動や言動を検証され尽くした画家はおらず、新しい局面を見出すことは、無理ゲーとさえ思えるのだが、なぜか劉生の回顧展は常に話題を呼ぶ。現在開催中の没後90年記念展は、実に160作品も集めた堂々たる回顧展であるが、おそらく10年後には没後100年記念展も開催されるに違いない。

 本展は基本的に作品を制作年月日順に並べ、芸術的傾向の移り変わりを章立ての基準としている。通覧してみると若くしてスタイルの更新を繰り返した劉生の才能に、あらためて感嘆するが、若き日の水彩画から始まり、ほとんどのキャプションには制作年にとどまらず、完成をみた日付までもが記載されている。これにより画業の変遷について厳密な精度を感じながら、あたかも画家へ憑依するような感覚で鑑賞できた。情報が曖昧な作品についても、前後の作品と照らし合わせ鑑定を受けて、その順序に置かれるべき作品として設置されているのだが、ここまでの詳細さがあると、その推測には説得力が生まれる。

壺の上に林檎が載って在る 1916年11月3日 板に油彩 40✕29.5cm 東京国立近代美術館蔵

 東京ステーションギャラリーの田中晴子学芸員によれば、この展示構成は監修を担当した京都市美術館学芸課長・山田諭の発案であったという。劉生の画業の始まりを仮に16歳とするなら、たった22年間の短い活動期間。一般には麗子像の不気味さばかりが広く認知されているが、実は許された年月のなかで、近代〜古典、西洋〜東洋と激しい振り幅をみせた画家だ。彼の芸術的関心のありようは、選び取るモチーフにもはっきりと表れ、その都度徹底して深掘りし幾つもの類作を描く傾向があった。もしも本展とは違ったコンセプトで会場設計をしたとしても、結果的には時系列順のような構成になってしまうのかもしれない。確か2011年に大阪市立美術館で開催された生誕120周年記念展は、居住地の変遷を展示の章立てとしたものだったが、やはりほとんど時系列順の展覧であった。

 劉生は年齢にそぐわないほど多くの論考や随想を残し、日記も30歳頃に始めている。詳細な行動履歴の追跡を可能にしたのは、彼の記録魔的な性質が幸いしてのことだ。その執着の理由は推測に過ぎないのだが、15歳で両親を相次いで失い、18歳には姉の駒が死去していることと無関係ではないだろう。「自分は画によって自分の心を生かす道を知らなかった 」(*1)。劉生が基督教にすがったのも、人間の営為には時間制限があることを否応なく痛感させられたからかもしれない。後に彼は信仰へ依存する精神生活に違和感を覚え、ついにはそれを捨てている。曰く「自分の心を生かして行く道としては芸術がこれに代って来なければならぬのを感じた」(*2)。

 また、画面上に作品の情報を飾り文字などで記入することは、劉生が影響を受けた、北方ルネサンスの画家たちによる単独肖像画によくみられる意匠だが、それに倣ったことも幸いした。意外にも劉生は絵画の装飾性に肯定的だったようだ。

麗子肖像(麗子五歳之像) 1918年10月8日 麻布に油彩 45.3✕38cm 東京国立近代美術館蔵

 劉生は近代からクラシックに感化される過程で、おびただしい自画像を残しているが、やはりここにも自画像を多く残した、アルブレヒト・デューラーの影響がうかがえる。デューラーは、たとえば金細工師のように誰かに命じられてものを作るだけではなく、超越的な技術と最新の知見をもって自らの思想を表現するような、現代でいう芸術家として〝在る〟ことを強力に主張した。過大な自尊心を噴出させながら、当時流行したファッションを身に纏った自らの姿を描くかたちで。

 劉生はデューラーのように容貌を誇ったりはしなかったが、やはり何を拠り所にして〝在る〟のかについて、いちいち自覚的だった。そして思うのは、彼はどうしようもなく〝意識的な人〟だったということだ。いっぽうで世の中には〝感覚的な人〟もいて、生成りで手付かずの感性に大勢は魅了される。彼らは純粋であると同時に無神経ともいえるが……劉生は違う。

自画像 1921年4月27日 麻布✕油彩 45.5✕33.5cm 泉屋博古館分館蔵

 痛々しいその生は、激情に支配されていた反面、明晰さがあり、絵画作品は前後に連動した関係にある。そして彼には自己を見下ろすような第三者としての〝ことば〟が実装され、自らの生活を反省し、創作について検証した多くの文章が残されているが、それは生涯を通し、更新したはずの見識に立ち戻りながら、自分を批評し続けることにほかならない。ときに矛盾や欺瞞も己の中に見たことだろう……休まらない、辛い生き方だ。劉生の画業はまるで、局面的な死を幾度も繰り返すようではなかったか。

路傍秋晴 1929年11月 麻布に油彩 59.5✕71.5cm 吉野石膏株式会社蔵

*1、2──「才能及び技巧と内容に就て」(『現代の美術』4-3、1915年7月)