自立と自由のデモンストレーション
6枚組の写真が壁に掛かっている。それは同様の構図で撮影された同一人物のポートレートだ。被写体となっているのは、少しカールしたブロンドの髪を持つ若い女性。口元には白く発光したように色彩が欠如した棒状の形態が添えられている。キャプションを読むと、それは皮を剥かれたバナナであるらしい。写真によっては唇でつまむように、その先端を優しく包んでもいる。まっすぐとカメラのレンズ──そして鑑賞者である僕──を見つめているにもかかわらず、そこに嗜虐心を煽るような印象や耽美性はない。これはポーランドの作家、ナタリア・LLが1972年に制作した《消費者アート》というセルフ・ポートレート作品である。
この写真作品の横にはブラウン管テレビが置かれている。そこには剥き出しの女性のバストが画面いっぱいに映し出されており、被写体でもある作者が自身の両腕で、その乳房を持ち上げたり、揺らしたりしている。そして画面外から白いミルクが注がれ、半透明の液体が彼女の肌の上を滴り落ちていった──同じくナタリア・LLによる73年の作品《インプレッションズ》である。
これらふたつは「しなやかな闘い ポーランド女性作家と映像 1970年代から現在へ」という企画展の、入り口の横に展示されている作品である。このふたつを前にして、僕は自分の思考があまりに複雑な隘路のなかで焼き切れるのを感じた。70年代のポーランドの政治的な緊張。消費社会の競争のなかで増幅される欲望。フェミニズム運動と新しい媒体(ニュー・メディア)、そして展示芸術の関係──それら個々の社会的かつ公共的なイシューが、ひとつの身体によって蝶番され、ひとつの作品として形態化している。
このふたつの作品において、被写体としてのアーティストの脊椎は垂直を維持している。その垂直性は、性的な高揚、ひいてはポルノグラフィにおける全身の筋肉の弛緩と緊張のコントラストとは著しく異なるものだ。それは極度の脱力とともに訪れる硬直である。彼女の作品は、たんなる同時代性の表象や社会への問いかけではなく、大戦後のポーランドの社会主義体制のなかでなされた平等という名の暴力的抑圧の、そのなかで全体化される個別の身体に可能な自立と自由のデモンストレーションとして機能する。それは方便としての平等から個別の身体を疎外し、一時的に脱出させるだろう。
しかし「フェミニズム」。その言葉を耳にするとき、味のしないガムを噛むような心地になる人もいるだろう。男女の性差について客観的に言葉にしようとするとき、倫理的な人ほど生物学的な観点を持ち出してしまう。しかし性差はひとつの社会制度、つまりは宗教と同じ程度にフィクションでもあるのだ。19世紀の末から20世紀初頭にかけての第一波のフェミニズム運動は、すべての人間(≠男性)が等しく社会へ参加する権利を獲得するための運動だった。より具体的には、女性の参政権や教育を受ける権利の獲得をはじめとした法のレベルでの平等を目指す運動である。そして半世紀ほど前に始まったのが、より私生活に近いところに遍在する性差別──家父長制的・男性中心的な前提、搾取的な眼差しによる一方的な女性のモノ化など──を覆すことを目指す第二波のフェミニズム運動だ。フェミニズム運動の今日に至るまでの複雑な歴史を仔細に追っていくと、現在の僕たちが直面している様々な困難を切り抜けるための技術が隠されていることがわかるだろう。
ポーランドにおいても第一波の運動は、他国とほぼ同時期に興ったようである。しかし第二波については、そうではなかった。制御されたメディアによる情報流通のなかで、自らの芸術実践を、同時代のフェミニズム運動についてリサーチしたうえで意図的に関係づけることは端的に困難だった。そのことを理解したうえで本展の展示作品は見られるべきである。
だが展覧会において、鑑賞者がなによりもはじめにすべきことは、アーティストが身を置く社会運動や政治思想の理解やその正当性の判断ではなく、目の前にある作品を丹念に鑑賞することである。作品はよく見られ、作者の意図を超えて噛み砕かれなければならない。本展に展示されたカロル・ラヂシェフスキの《アメリカは準備ができていない》(2012)というドキュメンタリーのなかで、「あなたはフェミニストですか?」と聞かれたナタリア・LLが矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、どちらとも取れるような物言いをするのは、作品が十分に丁寧に鑑賞されない可能性を理解しているからだろう。
しかし丹念な鑑賞に晒される限りにおいて、本展はそのタイトルにも組み込まれた「女性作家」という既成の全体を、女性作家の個別の実践によって因数分解し、作品そのものの魅力を取り出すことで複数の異なる文脈へと再接続するための契機となるだろう。ナタリア・LLにおける脊椎の脱力的な硬直は、ひとつの技術であり希望なのだ。それは複数の文脈で遅延して機能することができる。
いま目の前にある差別や困難を乗り越えるためには、流れとしての歴史や端的な真実ではなく、その流れに翻弄されながら闘った個別の身体が抱いた真摯な思いや実践と直面しなおし続けることが求められる。展覧会という制度は、そのための時間を提供することが「まだ」できるのではないだろうか。