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REVIEW - 2019.6.21

国交樹立100年の京都、他者との遭遇としての展覧会。長谷川新 評「セレブレーション-日本ポーランド現代美術展-」展

日本とポーランドのアーティストが出品するグループ展「セレブレーション-日本ポーランド現代美術展-」が、京都市内の4会場で開催されている。社会や歴史などをテーマに独自の視点で制作された作品が集まった本展を、インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。

文=長谷川新

ピョトル・ブヤク L.O.V.E.L.E.T.T.E.R.S. 2019 ザ ターミナル キョウト会場での展示風景 撮影=来田猛

といすいこなすいほとくらみ

 調べ物をするため近所の図書館へ行く。検索用のパソコンに文字を打つと、思いも寄らない字面が現れる。それは筆者にとって、鮮烈な他者との遭遇である。

セラホスちみしら

 という意味をなさない文は、キーボードのデフォルトの入力方法が「かな入力」となっているために生じたものだ。普段、ごく自然なものとして「ローマ字入力」で文を綴る筆者にとっては、「かな入力」で検索している人の存在はほとんど頭から消えている。こうして実際に「セラホスちみしら」という字が生成されることで(というか筆者がいま入力したのだ!)、「かな入力」を普段使用する(あるいは普段パソコンを利用しない)他者が出現する。自分の身体行為と画面の間に生じた隙間が、その他者に圧倒的なリアリティを与える。しかし考えてみれば、「かな入力」がデフォルトとなっていることは、この図書館の一定以上の利用者が「かな入力」であるということを示唆している。「かな入力」者は決してマイノリティなどではない。「セラホスちみしら」と指を動かし画面を凝視するそのほんのわずかな時間、筆者は他者とぶち当たっている。その人(たち)は自分の身体の少し内側からぬっとやってくる。「セラホスちみしら」を削除して「ローマ字入力」に設定し、「ポーランド」とあらためて検索する。目的の本の書架の場所をプリントアウトする。それからもう一度カーソルを合わせ、「かな入力」に戻す。

マリア・ロボダ お山の大将 2019 ザ ターミナル キョウト会場での展示風景 撮影=来田猛

  「セレブレーション―日本ポーランド現代美術展―」は、日本とポーランドの国交100周年を記念して開催された展覧会である(*1)。京都のほか、本展はポーランドのポズナンとシュシェチンでも関連企画を開催。京都の会場は京都芸術センター、ロームシアター京都(の廊下部分)、ザ・ターミナルキョウトであり、特別期間中には二条城の東南隅櫓(すみやぐら)にも展示がなされた(残念ながら筆者は今回二条城は鑑賞できていない)。参加作家は複数会場にまたがって複数作品を展示している者が多く(これは会場を回ってほしいというキュレトリアルな要請によるものだろう)、全体としては雑駁な印象は免れない。もちろん参加作家の実力は総じて高く、国際的なキャリアを積む若手・中堅が集まっている。また日本ではなかなか鑑賞することがないポーランドの作家たちの作品に相対することができることの意義も大きい。

 しかし個々の作品について言及する前に先んじて述べておかねばならないのは、この展覧会のフレームと現在の両国の社会状況についてであろう。実際、参加作家たちのなかには、展覧会との距離をはかることそれ自体を一種のメディウムとしていた者も少なくない。「セレブレーション」とは「祝賀(会)」を意味する英単語であるが、展覧会全体を覆うトーンは決して明るいものではないことに鑑賞者は否応なく(それも早々に)気づかされる。

 外務省のウェブサイトを閲覧すると、安倍晋三首相は、今年の4月、モラヴィエツキ首相との夕食会で、2016年に就航した日本とポーランドの直行便が今年に入って週7便に増加したことにふれ、両国の経済関係の良好さを強調していることがわかる(*2)。今年2月に日・EU経済連携協定(通称EPA)が発効され、関税撤廃へと舵を切ったことも背景にあるだろう。アメリカと中国の間の保護貿易の激化と比べれば、はるかに好意的な事態と言えるかもしれない。この直接性と透明性への希求に対して、しかし本展の作家たちはむしろ各々の姿勢を間接性へ、不透明性へ、泥土へ、システムの破綻へ、変形へ、殉死へ、そして老いへと向かわせる。「国交」の持続を「言祝ぐ」振舞いが当の国民国家システムそれ自体を問いに付すものとして二重化している。「セレブレーション」とタイプしたところで画面を見やれば、そこには「といすいこなすいほとくらみ」という文字が並んでいるみたいに。

京都芸術センター会場での谷中佑輔によるパフォーマンスの様子 撮影=前谷開

 本展の白眉はピョトル・ブヤクの《L.O.V.E.L.E.T.T.E.R.S》である。93歳の祖母がブヤクと遠隔でやりとりをしながらクロスワードを解く様子を撮影したその映像は、テクノロジーが可能にするコミュニケーションの輪郭や家族のかたちを、クロスワードを埋めていくというアナログな行為──言語の不完全さ、たどたどしさ、バラバラさ──のなかで見事に表出させている。アリツィア・ロガルスカによる《小野寺さんの未来の夢》でもこの「不完全な言語」によるダイアローグが意識的に導入されている。グーグル翻訳を介してなされる介護士とロガルスカの(日英の)対話は、キーボードに文字が打たれる都度翻訳され、不自然な言語を生成させる。だが対話自体は誤訳に満ちながらも成立しているのである。介護士が介護する小野寺さんは、インタビューでは年金制度への懸念をはっきりと表明している。

 国家という枠組み自体を再検討しようとしたという点で、谷中佑輔の彫刻/パフォーマンス《~)Dis)Oriental Whaling~: プロジェクト“クジラの地理的身体”》には言及しておかねばならない。タイの歴史学者トンチャイ・ウィニッチャクンの造語である「地理的身体 geo body」(*3)を、クジラの身体を造形し、身体化し、めいっぱい考えることで、谷中は大胆にポテンシャルを引き出そうとする。そこでは国家や主権といった(それこそ「国交100周年」を祝うことを可能にしている)概念自体が解析され直されることとなる。加えて、今回のプロジェクトでは韓国(での捕鯨)が重要な位置を占めており、たんなる日本ポーランド2国間では収まらない描線=ダイアグラムが試みられていた(*4)。最終的なアウトプットが上述のような魅力を遺憾なく発揮できていたか、という点には筆者は留保を見せるが、少なくとも本展全体を通しても重要な──より正確には、キュレトリアルな構成の不在を余儀なくされる本展においてそれらを代補する──実践であったことは確かである(*5)。

ロベルト・クシミロフスキ BIRDMAN 2019 京都芸術センタ―会場でのパフォーマンスの様子 撮影=来田猛

 右傾化、移民、難民、そもそも国家という単位をどのように受け止めればよいのか、私たちの存在を経済活動/国家活動に従属させないためにはどうすればよいか、つまりは、どのような社会システムを私たちは望むだろうか、という問いが「セレブレーション」展において直接的に掲げられるべきだ、と言いたいのではない。ただひとつここで記しておきたいのは、本展を鑑賞したその延長線上に、「かな入力」で検索をする人との一瞬の交錯がある、それらはつながっている、という無根拠な確信なのである。その無根拠な確信を受け止めることだけが、少しばかり過剰になるほかないセレブレーションのトリガーなのではないか、と。

*1──本展キュレーターのひとりである加須屋明子は、2013年より毎年行っている「龍野アートプロジェクト」(https://www.jil.go.jp/kokunai/mm/doukou/20190123.html)や、「存在へのアプローチー暗闇、無限、日常 ポーランド現代美術展」(京都市立芸術大学ギャラリー・アクア[@KCUA]、2013)のキュレーションなど精力的にポーランドの現代美術を紹介している。
*2──https://www.mofa.go.jp/mofaj/erp/c_see/pl/page6_000296.html
*3──トンチャイ・ウィニッチャクン『地図がつくったタイ――国民国家誕生の歴史』
*4──これは台湾の野外彫刻をめぐる映像作品《広場》を展示したカロリナ・ブレグワとも呼応しうる余地があった(なおブレグワの当該作品は「恵比寿映像祭」でも展示されていたが、本展ではシングルチャンネルで構成されていた)。
*5──動物の造形という視点で言えば、東影智裕による動物彫刻の変形性や岡本光博による《トラロープ》(黒と黄色の縞ロープでトラを制作する)が持つシニカルでポップな強度は、谷中のクジラをめぐる構成次第では互いに面白い共鳴反応を生んだであろう。