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分断と向き合い、多様な接続を生み出すために? 内海潤也評「六本木クロッシング2019展:つないでみる」

3年に1度、日本のアートシーンの新たな動向を探るシリーズ展として2004年以来開催されてきた「六本木クロッシング」。6回目となる本展は、現代美術の表現に見られる「つながり」に着目。テクノロジーの進化によって生活が便利になるいっぽうで様々な「分断」が顕在化するなか、多様な「つながり」を提示するアーティストの実践から見えてくるものとは。キュレーターの内海潤也が論じる。

文=内海潤也

会場風景。左から、土井樹+小川浩平+池上高志+石黒浩×ジュスティーヌ・エマール《機械人間オルタ》(2016〜)より、ジュスティーヌ・エマール《ソウル・シフト》(2018)、飯川雄大《デコレータークラブ―ピンクの猫の小林さん―》(2019)、佃弘樹《Ouroboros》(2018) 撮影=木奥惠三 画像提供=森美術館

つなげられたものとつなげられなかったもの

 異質なもの、相反するもの、関係のないものを「つないでみる」アーティストの行為を参照し、現代社会の宗教的、経済的、政治的、精神的、社会的「分断」と向き合うヒントを感じてもらうという「六本木クロッシング2019展:つないでみる」。本展は、しかし、大きな分断を無批判的に再生産しているように思える。たしかに、カタログの論考で示されたように多様な接続を考えることはできるだろう。例えば、スマートフォンの普及によって写真をもとにするコミュニケーションが当たり前となった現代の知覚を、撮影しきれないけれども撮影したくなる物体として表出する飯川雄大や、全体が把握不可能なデジタルデータの渦の中で部分と部分をつなぎ合わせ、ひとつの地図を作成する佃弘樹、そして異なるコンテクストのものをつなぎ合わせ修復し「なおす」という行為を拡張していく青野文昭といった、出展アーティストの異なる作法を関連づけることは興味深い。

青野文昭 なおす・代用・合体・連置―ベンツの復元から―
東京/宮城(奥松島・里浜貝塚の傍らに埋まる車より) 2018
撮影=木奥惠三 画像提供=森美術館

 しかし、ジェンダーに関する作品を紹介しながらも展覧会全体にジェンダーの不平等が通底奏音の様に響いているため、女性作家の現代社会に対する批判的感性と実践が埋没してしまっている。まず、林千歩の《人工的な恋人と本当の愛−Artificial Lover &  True Love》(2018)は、作家自身と機械(愛人と社長)が触れ合う動画を巧みに組み合わせ、アンドロイドが無表情の向こう側でエロスを甘受しているように見せる。また、アンドロイド社長室として構成された空間は、フェティッシュ化された女性の象徴によって満ち、ロボットのヘテロ男性というセクシュアリティが強調される。林の遊戯的な記号操作によって、本来は男性/女性の二分法から逃れられうるAIロボットという存在が、ひるがえって既存のジェンダー規範の根強さを浮き彫りにしている。

林千歩 人工的な恋人と本当の愛−Artificial Lover & True Love− 2016/2019
ビデオ=4分30秒 音楽=渋谷慶一郎 作詞=渋谷慶一郎、林千歩 歌=林千歩
撮影=木奥惠三 画像提供=森美術館

 また、今津景《ロングタームメモリー》(2018)の右の絵画には、子宮や真っ赤な唇など女性を表す記号とともに、サルからヒトへの進化を示す図が描かれている。いっぽう、左の絵画の人物の表情は、レディオヘッドの『The Bends』のジャケットと酷似している。CPR(心配蘇生)マネキンの映像からサンプリングしたと言うCDジャケットのデザイナーは「アンドロイドが初めて感情を、しかも快楽と憤怒という両極の感情を同時に発見した表情」と説明する。敷衍するならば、背景となる壁面は、現代のデジタル空間を象徴し、感情を発見したアンドロイドによって、女性を中心とした歴史の再編が進化の系譜上で図られている。しかし、男性中心社会が生み出してきた女性性を象徴する記号がデジタル上にもあふれ、画一的なイメージで女性の進化を語るしかないアイロニーを見出せるだろう。

今津 景 ロングタームメモリー 2019
Courtesy of ANOMALY, Tokyo
撮影=木奥惠三 画像提供=森美術館

 そして、津田道子《王様は他人を記録するが》(2019)では、キングはカメラ、クイーンはモニターという役割を背負い、人々がゲームを通して見る/見られるの二分法のジェンダー内面化を行う現実が表される。言うまでもないが、現代美術の「父」と称されるマルセル・デュシャンがチェスの名手という事実から、現代美術の「ゲーム」における性差が規定、反復によって強化されてきた歴史を読み取ることができるだろう。

津田道子 王様は他人を記録するが 2019
Courtesy of TARO NASU, Tokyo
撮影=木奥惠三 画像提供=森美術館

 このように、林、今津、津田の作品の要素を「つないでみる」ことによって、ジェンダー不平等が生み出す「分断」を前提に、性記号、機械、デジタル空間、主体と客体、身体といった要素を巧みに、かつかろやかに「つないでいる」女性アーティストの実践がみえてくるのではないだろうか。

 しかし、上記のような「つながり」を実際の展示空間で紡ぎ出すことは難しかった。なぜなら、《人工的な恋人と本当の愛》は平川紀道《datum》(2019)の低音によって、《ロンダタームメモリー》はアンリアレイジ《A LIVE UN LIVE》(2019)のポップな音楽と毒山凡太朗《君之代−斉唱−》(2019)の 『君が代』や『蛍の光』によって、《王様は他人を記録するが》は佐藤雅晴《Calling(ドイツ編・日本編)》(2009〜14/2018)から発せられる様々な着信音によって干渉されるからである。展示会場は大きな3つ直方体、3つの正六面体によって構成されているが、それぞれの会場の音景は鑑賞者が作品を「つなげる」以前に干渉しあっていた。鑑賞者がじっくり一つひとつの作品から要素を見つけ出す前に、ほかの作品が介入してくしてくるため、つなぐ要素を探し出すことが難しいのである。

 空間の音設計の混乱に加えて、本展からジェンダーのつながりを導き出す難しさは、ジェンダーバランスにも起因する。「クロッシング」は、参加作家総数に対する女性作家の割合は総じて20%前後である。今年は、前回の2016年の女性作家の割合は20人中8人と40%だったにもかかわらず、07年、10年に次いで約18%と第3番目に低い(*1)。参加作家の男女比を展覧会評価の指標として用いることは80年代から指摘されており、最近では、07年の「ドクメンタ12」でアーティスティック・ディレクター(AD)が初めて男女2人組になり参加作家の男女比もほぼ均等に、18〜19年の「コチ・ビエンナーレ」では初めての女性ADによって、こちらも参加作家男女比50%が達成された。

 世界の動向に鑑みれば、定点観測的に日本のアートシーンを紹介する本展において「つないでみる」俎上に上がらない女性作家と参加作家の男女比は問題として注目されるべきであろう。そこに存在する「分断」を提起せず、「誰が誰に、何によって分断されているのか?」という疑問を、ジェンダーの視点を欠いたまま問うことを「ジェスチャー」と批判せずに済ましてよいのだろうか? 稚筆ながら、既存の価値観に対して疑義を投げかける女性作家の姿勢が注目されるとともに、展覧会をジェンダーの視座から批判することの一助となれば幸いである。

*1ーーここでは、ヒスロムは男性3人、目は女性1人男性2人、土井樹+小川浩平+池上高志+石黒浩Xジュスティーヌ・エマールは女性1人男性4人、そして、アンリアレイジは、デザイナーの森永邦彦とサウンドデザイナーの山口一郎を男性2人とカウントし、33人中6人と計算している。換算方法が定まらないコレクティブを除くと、女性作家は21人中4人なので19%ほどである。「あいちトリエンナーレ2019」は、参加アーティストの男女比を意識的に1:1とする方針を発表したことが話題となった。

編集部

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