「知られざる古代の名陶 猿投窯」展 美でも、原点でもないとしても 鈴木俊晴 評
タイトルに「知られざる」とあるように、猿投窯(さなげよう)は、例えば「瀬戸もの」として焼き物の代名詞にもなっている瀬戸窯などと比べれば、たしかに一般的に知られていない。しかし、愛知の陶磁器の専門の博物館としての活動40周年を記念する展覧会としてとりあげるにすぐれて真っ当な主題であり、いままさに意義あるものとしてわたしたちが受け止めるべきものである。
筆者は陶芸および陶磁器の歴史を専門とはしない。そのため、展示されている個々の作品/資料の造形的な魅力にただただほれぼれするばかりで、その位置付けや価値についてはじゅうぶんに立ち入ることはできないが、ここではむしろ、本展の、半世紀以上の長きにわたって積み重ねられた調査研究に基づく実直な展観にふと漏れる切実な今日性の模索(*1)に応えるつもりで、この地における猿投窯(展)の位置付けについてひとつの問いを投げかけ、展評に代えたい。
本展で扱われている猿投窯は古墳時代から鎌倉時代にかけて、現在の名古屋市東部から豊田市の北西部にかけて広く分布した陶器を指す。遠く猿投山を見晴らす地域から出土するということで猿投窯と呼ばれている。この分布は古代、濃尾平野から伊勢湾にまで広がる「東海湖」(*2)に由来する良質な粘土の層と重なっており、後に瀬戸や常滑の礎として、さらにはノリタケやLIXILといった企業へと結実することになる。しかしその猿投窯は本格的な発掘がなされる1957年頃までまさしく「知られざる」存在であり、それ以前は瀬戸や常滑よりも遡る、この地での窯業の実態についてじゅうぶんに把握されていなかった。
その空白を埋める発見には、愛知用水(木曽川から知多半島の離島部までをつなぐ用水路)の開発が関係しているのだが、それはほとんど名古屋都市圏の開発の時間軸とほぼ重なっている。都市開発の漸次線を見極めるには公園と大学の配置が重要だ。名古屋について言えば、中心部から東へと発展を追ってみると、恣意的ながらだいたい以下のようになる。
1. 1909年 鶴舞公園開園(翌1910年に関西府県連合共進会開催)
2. 1937年 東山公園開園
3. 1942年 名古屋大学 東山キャンパス利用開始
4. 1947-57年 平和公園整備
5. 1957年頃 愛知用水整備、この頃、本多静雄によって猿投窯が「発見」される
6. 1959年 名古屋市電星ヶ丘駅開業
7. 1960年 名古屋大学豊田講堂(槇文彦最初期の代表作)
8. 1964年 南山大学 名古屋キャンパス利用開始(アントニン・レーモンド)
9. 1966年 愛知県立芸術大学開学(吉村順三によるユートピア・コロニー的な建築とランドスケープ。こう並べてみると、この場所がいかに当時の都心から離れていたか改めて実感する)
10. 1968年 東名高速道路名古屋インターチェンジ利用開始
11. 1969年 地下鉄東山線藤が丘駅開業
12. 1970年 愛知青少年公園開園(2005年に愛知万博のメイン会場となる。2022年度にはジブリパークがここで開業することになっている)
13. 1978年 愛知県陶磁美術館開館(開館時から2013年まで「資料館」。建築は谷口吉郎)
こうして並べてみると、名古屋の「東進」のうちに、猿投窯の採掘から、その集積所としての愛知県陶磁美術館の開館までがすっぽりと覆われていることが分かるだろう。つまり、猿投窯は古代から鎌倉までの歴史的な事実であると同時に、近代以降の時代の「産物」でもある。これはあくまで比喩的な見解に過ぎないけれど、名古屋の現在の景色が、水平に、あちこちの土地を掘り起こし、川の流れを変え、コンクリートやアスファルトで埋めていった、その繰り返しの果てにあるとしたら、そのちょうど裏側のように、あるいは垂直に深いところで、ひっそりと佇んでいるのが猿投窯から掘り出されたものの数々である。
開館40周年を記念する展覧会だからといって、まったくもって賑やかではない、いつも通りの静かな展示室に並んだ、優美とも、華美とも言えない、どこか朴訥とした佇まいの陶磁器は、そして数多の断片と、それらを掘り出し整理し、保管してきた気の遠くなるような営為は、しかし、20世紀後半からこのかた右肩上がりの時勢のいわばネガを引き受けている、とは言い過ぎだろうか。
かつて名古屋を中心とした尾張地方では「瀬戸に行かんでどこに行く」と言われたという。瀬戸から岐阜の多治見や土岐へと続くこの地方が日本の陶磁器の一大産地であり、その生産から流通、そしてそこでの生活基盤を支えるための仕事が数多あり、そこに行けば職にあぶれることがなかった、ということなのだが、その豊かさを支えたのは、先述の東海湖に由来する土壌だった。土地がそもそも豊かだった。
それは、例えばトヨタ自動車の前身が戦前、土地の貧しさゆえに現在の本社あたりを工場の立地として選んだことははっきりと対照的である。その意味で、この美術館からほど近いトヨタ博物館あるいは豊田市を中心に並ぶ工場は、地理的にも、歴史的にもこの長久手から瀬戸にかけての丘陵地帯を境に折り重なるだろう。いささか誇大妄想的であることは認めるが、そうすることによってわたしたちはこの地における産業のあり方について、大陸ないし海外からの受容と創造について、あるいは普遍的な技術について、「美術」や「工芸」といったフレームを外し、長大な時間に置き直し再考することができる。
大げさに聞こえるかもしれない。それでも、仮に近代以降の名古屋の生活圏的「前衛」が一つひとつ可能性を埋めていく、その作業の余剰として、あるいは副産物として産まれ出てくるものがたまたま猿投窯のあれこれであったとして、しかし、その作業もひと段落したとしたら。未完のプロジェクトであったはずの近代が、ひとつのフェーズを確かに経てしまったとしたら。とりわけ名古屋とこの美術館のあいだにある長久手市が、全国的に人口減少が叫ばれるなか稀有な人口増加率を見せ、その東の端にまで、つまり森林の中にたたずむ美術館のすぐふもとにまで大型の商業施設が新しくオープンし続けているいまだからこそ、このひそやかな40周年の企画は地域の時代の大きな転換点に象徴的に位置するようにも思える(*3)。
余談めくが続けておくと、筆者が学生の時分、某県立美術館のベテラン学芸員に皮肉っぽく、こう言われたことを覚えている。「日本には美術館が多すぎる。いずれはいくつか吸収されて、統合されることになるよ」。それは今日ますます現実味を帯びてきているように思えるが、当時もいまも、その趨勢(すうせい)は理解しつつも、結局は大きいものへと統合されてしまうことにどこか抵抗感を覚えなくもない。しかし、そのいっぽうで、猿投窯のような歴史の古層に根ざしたコレクションと、近代から現代までの表現が一堂に会するような施設があったらどうだろうか、と夢想することもある。
例えばドイツのダルムシュタットのヘッセン州立博物館は、岩石や動物の化石、古代ローマの建築や中世の甲冑、そしてルネサンスから現代までの美術が並んでいる。そうした様々な歴史の層の一端としてボイスやリヒター、クネーベルの作品を見つめるのは端的に言って刺激的だ。
愛知県はめずらしく県立の博物館を持たないが、仮にそうした施設がいつかできるとしたら、陶磁美術館が蓄積してきた猿投窯の一大コレクションは間違いなくその基層のひとつになるだろう。この国内最大規模の陶磁器のコレクションが「陶芸」の狭い領域に留まらず、広くわたしたちの営為に再び結わえられ、もういちど水平軸と垂直軸をとらえ直すとき、わたしたちの前にどのような景色が広がるのだろうか(*4)。
*1――例えば「現在、こうした歴史は陶磁の研究者や学習者には知られているが、一般県民にはほとんど知られていない。今日の公立社会教育機関は、自発的な学習者への支援活動を超え、幅広い普及啓発活動を行うことによって、地域社会、近代市民社会の形成に寄与する責務がある。今後は、猿投窯の資料を陶磁史資料のみならず、地域の文化遺産として位置付け、愛知の歴史文化の豊かさが広く社会に認知されるよう情報発信する必要がある」(本展図録、143頁)。
*2――愛知県陶磁美術館が2015年に開催した「愛知ノート―土・陶・風土・記憶―」展は、この地の窯業と東海湖との関連に着目したすぐれた企画だった。この展覧会については、批評誌『REAR』(no.34)掲載の天野一夫「土から始まるー―『美術館へ』、あるいは『資料館』へ・『愛知ノート』展」および、同誌掲載の、企画者である大長智広「愛知県陶磁資料館/愛知ノート/愛知県陶磁美術館」も参照のこと。なお、続編とも言える「人が大地と出会うとき」展については、拙稿の展評「大地に出会うってどういうこと?」『美術手帖』(2016年12月号)も参照されたい。
*3――名古屋の「前衛」については、今年鬼籍に入った加藤好弘旧蔵資料が愛知県美術館に所蔵されることになった。ほかにも市内外の画廊で前衛作家たちの資料の整理が進んでいると聞く。こちらの前衛は未だ掘り起こされるのを待っていると言えるだろう。詳細は愛知県美術館年報参照。
*4――ちなみに、筆者の務める豊田市では、美術館などと連携するかたちの文化ゾーンとして従前の郷土資料館に代わる新博物館の構想が立ち上がっている。詳細は豊田市新博物館基本構想参照。