|畠山直哉 まっぷたつの風景
(せんだいメディアテーク、2016年11月3日〜2017年1月8日))
2011年10月に開催された個展(「畠山直哉展 ナチュラル・ストーリーズ」東京都写真美術館)で、畠山は震災前の故郷、陸前高田の日常を捉えた写真群を展示した。それらは高度に練り上げられた畠山の「いつもの」作品にはない私的な親密さを持っていた。「いつもの」作品とこれらの写真群をどう関係付ければよいのか、わたしは呆然とするばかりだった。5年後の「まっぷたつの風景」展は、この問いに対する畠山の一つの答えと思えた。陸前高田で採掘される石灰石。それがセメントとなって都市の基盤を支えるしくみ。世界中で見られる鉱物と建材、地方と都市の同様な関係。その過程で生み出される自然とも人工ともつかない風景。畠山の制作の骨格を成すこの大枠の中に、陸前高田の写真群も場所を得たように見えた。とくに、道路や防潮の「復興」工事がまさに自然とも人工とも言いがたい風景を出現させるさまをとらえた作品は、圧巻だった。しかしなお、そこには絶対に解消されない個人の怒りや痛みが残る。制作と個々人が生きることとは、一つでありながら同時に「まっぷたつ」でもある。この展覧会は、その点を直視せよ、とわたしたちに迫る。
|裏声で歌へ
(小山市立車屋美術館、2017年4月8日〜6月18日)
出品作をつなぐテーマは「裏」、そして「声」または「音」である。ノイズを発する大和田俊の作品や、近くの中学校の合唱コンクールの映像は「声」「音」だ。うなりをあげる國府理の《水中エンジン》も「音」の側面を持つ。透明なアクリル板の裏から最下層の線と形が見える本山ゆかりの絵画や、表面の下に多くの色やかたちが隠された五月女哲平の絵画は「裏」だ。戦争柄の着物は「裏」と「声」にともに関わる。タイトルの出どころは丸谷才一の著書『裏声で歌へ君が代』である。戦争柄の着物は、「裏」がえった声で国歌を歌って生き延びる戦時下へ、また裏に真意を潜ませて発声し、規制をすり抜けるいまの時代へと、見る者の思考を誘う。しかもこの展覧会自体、声高にテーマを主張することはなく、裏の裏を読んで初めて「裏」「声」という主題に合点がいくというしかけになっている。企画者、遠藤水城のキュレーションの切れ味に拍手。
|奈良美智 for better or worse
(豊田市美術館、2017年7月15日〜9月24日)
約30年の制作の歩みをたどる大規模回顧展。デビュー当時、「日本」的サブカル、アニメ、マンガの枠にくくられた奈良。今もそのイメージに囚われたままの観客や美術関係者は多い。しかし、この展覧会はそれとは異なる文脈に奈良を位置づけて見せた。まず何より奈良の制作態度は、80年代に起こった絵画回帰の世界的な動向にリンクしている。そこではアメリカ抽象表現主義の先にあるものを目指し、私的な感情や個人の物語を回復する術が模索された。奈良もこうした課題を追究する当時のドイツ美術界に身を置き、にらむ子どもや犬といった自身の幼少期に由来するモティーフを定着させていった。80年代から今に至る作品群によって、その経過が説得力を持って浮かび上がる。改めて、私的な感情や個人の来し方行く末を源泉とする奈良の作品を、同調圧力が強まるばかりの2017年の文脈に置き直してみる。するとそこには、ともすると退行的とされた90年代の評価を越えて、内側に沈潜することの持つ力が見えてくる。
2017年は国内、海外ともにビエンナーレ、トリエンナーレなどの大型展が続く年だった。しかし、地域やサイズがあまりに違うと基準が立てづらいので、国内のギャラリー、美術館規模の展示に限定して選んだ。記載は会期順で、順位ではない。国内外を問わず、公的規制や自主規制、言論封殺の風潮は強まる一方だ。そのなかで美術を扱う現場は、ベタながら、異なる意見、多様な価値観を示し続けねばならないと改めて思う。選んだ3つの展示は、どれもそれぞれのやり方でその点を戦っていると感じさせてくれたものだ。3つ以外に「岡﨑乾二郎の認識―抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」(豊田市美術館、4月22日〜6月11日)、「杉戸洋 とんぼ と のりしろ」(東京都美術館、7月25日〜10月9日)、Chim↑Pomの「Sukurappu ando Birudo プロジェクト 道が拓ける」(キタコレビル、7月29日〜8月27日)、「札幌国際芸術祭2017 芸術祭ってなんだ?」(札幌市内各地、8月6日〜10月1日)における梅田哲也の展示《わからないものたち》(2017)などが出色だった。