本展を構成するのは杉本の代表作のひとつである「劇場」シリーズを進化させた世界初公開の「廃墟劇場」と、本邦初公開の「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」、そして新インスタレーション「仏の海」の3シリーズ。美術館の3階と2階の2フロアを使った大規模なものとなっている。
モノに歴史を語らせるー「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」
展覧会は33のエピソードで構成される「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」シリーズで始まる。会場に入るとまるでそこは廃墟。「せっかく新しくなった美術館なのに、汚くしてしまいました」と杉本が言うとおり、壁にはトタンや木材が張り巡らされ、美術館にいるとは思えない光景が広がっている。ここでは2014年、パリのパレ・ド・トーキョーで開催された「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない / LOST HUMAN GENETIC ARCHIVE」展の際に使用された部材に加え、東京で調達した古材が使用されている。
同作では理想主義者や養蜂家、コンテンポラリー・アーティストなど杉本が設定した33の職種の人々が、「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という書き出し文を共通項に、世界最後の日に執筆したストーリーが33の小部屋に掲げられている。そのテキストを取り巻くように、杉本の写真作品や収集したオブジェクトからなるインスタレーションが展開されている。これらは「こういうかたちで世界が終わるかもしれないということを、説得力のあるモノで構成している」のだという。
杉本はこの廃墟を生み出した理由についてこう語る。「資本主義の原則は拡大・再生産。でもそれがこのまま続いていくことはありえない。どこかで歯止めをかけなくてはいけないと思っているのに、そうはできないのが人間。なんらかのかたちでの折り返し地点が用意さなくてはいけないと前から考えていました。終わりに向かう兆候というのは世界中で薄々と表れてきていると思いますが、この『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』は、そうなってはいけないという話を33つくって、警鐘を鳴らすという意味もある。それにはモノに直接語らせるということが一番力強いメッセージになる」。
なお「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」は写真作品「海景」から始まり、同じく「海景」で終わるが、最初の「海景」は人類が生まれる前の海の景色であり、最後の「海景」は人類が途絶えた後の海の景色を意味している。
廃墟劇場と仏の海
1976年から制作している「劇場」が発展した新シリーズが並ぶ2階。経済の減退や、映画鑑賞環境の激変などから廃墟と化したアメリカ各地の劇場を、2年間にわたって杉本自らがロケハンし、ジェネレーターとプロジェクター、映画ソフト、そしてスクリーンを持ち込み、映画を投影し、上映1本分の光量で長時間露光した作品となる。
同作は杉本がパレ・ド・トーキョーで発見した開かずの間=元映画館が発想の元となったのだという。今回発表された作品は『ゴジラ』、『ディープ・インパクト』などのディザスタームービーで統一。作品の前の床には映画の要約とともに、『平家物語』や『源氏物語』、『枕草子』などの古典から取った「オチ」が添えられているが、これは「平安時代に確立した「もののあはれ」を正統に踏んでいることを示している」のだという。
またこの「廃墟劇場」と対をなすように展示されているのが三十三間堂の千体仏を撮影した《仏の海》だ。「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」でキーワードとされている33という数字はこの三十三間堂から引用されている。杉本はこの作品について「滅亡の33話を3階で見て、実際に滅びていく姿を2階の『廃墟劇場』で見て、裏側を見ると千体仏が待っている。救われて帰っていただくということです」と構成の狙いを明かした。
「写真はデジタル時代になって、違うメディアになったと僕は思っています。写真の黄金時代は終わった。写真に撮ったから存在感があるという時代は終わったので、写真に撮られる以前の、モノの存在感を見つける時代に移ったのではないかと思う」。写真、あるいはアートの枠を大きくはみ出し、滅びの美学を全面に押し出した本展は、世界の在り方をそれぞれの視点で見つめ直す機会となる。