埼玉県立近代美術館で、企画展「アブソリュート・チェアーズ」が5月12日まで開催中だ。担当学芸員は佐伯綾希、松江李穂(ともに埼玉県立近代美術館学芸員)。
椅子は多くのデザイナーや建築家の創造性を刺激する絶対的なテーマであると同時に、アーティストのなかでも象徴的なモチーフとなってきた。玉座のように権威の象徴となることもあれば、電気椅子のように死や暴力とも無縁ではない。さらに、車椅子のように身体を補助する役割や、集会などにおいては社会的な立ち位置を示す役割も見受けられる。
本展は、名作椅子を数多く所蔵する同館が「アートの視点」で椅子について考察を深めるチャレンジングな企画展だ。
戦後から現代までの「美術作品」としての椅子の表現に着目し、約80点の展示作品からアートのなかの椅子の機能や含意を読み解くものとなっている。
館内で数多くの名作椅子に座ることができる同館が第1章にて提示するのは「美術館の座れない椅子」というテーマであった。マルセル・デュシャンが最初に制作したレディメイド作品《自転車の車輪》や高松次郎による《複合体(椅子とレンガ)》が紹介されており、椅子においてもっとも重要な「座る」機能を取り除かれた物体としての姿が提示されている。
人体の構造と椅子の設計は密接であり、そのなかでも脚がカーブを描いたロッキングチェアは、身体の運動を補助する役割も備わっている。第2章「身体をなぞる椅子」では、アンナ・ハルプリンによる高齢者たちによるダンス映像作品《シニアズ・ロッキング》とともに、トーネットのロッキングチェアが紹介されている。
イギリスの画家フランシス・ベーコンの絵画に見られるのは、ベーコンの亡くなった恋人ジョージ・ダイアーを描いたという肉塊だ。それは椅子に座ることで人間のかたちを保っているようにも伺え、作中に度々登場する家具が人を人たらしめ、この世につなぎ止めているようにも思える。
「チェアマン」という言葉が存在するように、ときに椅子には立場を示唆する存在としても利用されてきた。第3章の「権力を可視化する椅子」では、毛沢東による文化大革命の遺産としての集会所を写した写真や、アンディ・ウォーホルによる人々の死を扱った「死と惨禍」シリーズから《電気椅子》も展示されている。
渡辺眸によって撮影された「東大全共闘1968-1969」には、抵抗の道具として使用された机や椅子のバリケードが写し出されているのも興味深い視点だ。
椅子は人々の生きる場所とともにあり、なかでも生活空間における椅子には多くの物語や個人的な記憶が投影されているはずだ。第4章では、自身の家族やその生活の風景を客観的に写した潮田登久子による写真シリーズ「マイハズバンド」や、大原美術館の創設者・大原孫三郎の別邸(有隣荘)で使用されていた椅子を型取り樹脂で閉じ込めた、宮永愛子の《waiting for awakening -chair-》が紹介されている。
さらに、石田尚志による《椅子とスクリーン》は、描かれていくドローイングと変わることがない椅子が映し出される映像作品であり、ひとつの視点を提示することで作品と鑑賞者をつなぐ役割を担っている。
アート作品に昇華されることで本来の機能や意味が奪われてきた椅子は、社会的なリレーションシップを築くために再び意味が与えられてきた。第5章「関係をつくる椅子」では、シンガポールで活動するダイアナ・ラヒムによる排除アートを撮影した写真シリーズや、檜皮一彦による車椅子ユーザーとそうでない人々による協働プロジェクトを追った映像作品が紹介されている。
展覧会設営や作品制作で出た廃材などを利用して椅子を制作した、副産物産店の山田毅と矢津吉隆による「美術館の座れる椅子」シリーズには、鑑賞者が実際に腰をかけることができる。第1章で取り上げられた椅子の本来の機能が、最終章の「実際に座る」体験によって取り戻すことができる面白い展示体験となっている。
インタレーションや彫刻で人々が生きる産業システムの力学を可視化してきたミシェル・ドゥ・ブロワンの《樹状細胞》は、本作を通じて「集団」のイメージを表現した。ヒエラルキーも中心も存在しないが、閉鎖的で尖った足が外を向いている、人間社会を暗喩した作品だ。こちらは展示室外の1階吹き抜けに展示されているため、見逃さないでほしい。