外出することなく豊島区の自宅の緑が豊かな庭で日中の長い時間を過ごし、生きものや植物の観察を続け、描きたくなったときにだけ描くスタイルを貫いた熊谷守一(1880〜1977)。1977年に守一が、84年に妻の秀子が没すると、85年に次女で画家の榧(かや)が旧居跡に熊谷守一美術館&ギャラリー榧を創立した。2007年に所有する守一の作品153点(うち油絵23点)を豊島区に寄贈し、同年11月5日より豊島区立 熊谷守一美術館として所蔵作品の展示を行っており、榧は22年2月に逝去するまでの36年間、館長を務めた(没年齢92歳)。
毎年、5月28日の開館記念日の前後の時期には、各地で所蔵されている守一作品を紹介する目的で特別企画展を開催。今年は愛知県美術館の[木村定三コレクション]より作品20点を借り、木村定三から熊谷守一美術館に寄贈された油彩画3点とともに1階の第1展示室に展示。基本的に時系列に沿って作品が並び、作品保護のため、墨絵作品が照度を下げた展示室奥の壁面に掛けられている。
熊谷守一は岐阜の裕福な家に生まれ、商人として育てたい父親の反対を押し切って東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画選科に入学した。同級生に青木繁などがいたが、熊谷は首席で卒業。若い頃より文展や二科展に出品して評価される機会もあったが、美術館ホームページの榧の言葉によると「守一は自分でも言っているように、いい絵を描いて褒められようとも、有名になろうとも思わず、たまに描いた絵も売れず、長いこと千駄木や東中野の借家を転々として、友人の援助で生きながらえてきた」。1932年、50歳を超えた頃に現在美術館が立つ豊島区千早に住み始めた。
そして1938年、守一が58歳の頃に出会ったのが、25歳の実業家・木村定三だった。まだ有名には程遠かった守一だったが、作品に惚れ込み、油彩に限らず日本画や書、彫刻など200点を超える作品を買い集めて支援するのみならず、作品の普及を目的とする展覧会の開催や、自ら編纂した画集の刊行など、守一の魅力を広めるために尽力した。この頃になるとようやくぽつぽつと絵が売れ始めるものの、戦争で困窮し、自分なりの表現を模索する時代は続いた。
油彩で絵具の厚みに変化を加えたり、光と影に着目して具象物をモチーフに抽象化を試みたり、アプローチを模索しながら制作を続けてきた守一だが、ひとつの転機になったのが、画家の友人に勧められて墨絵や日本画を試したことだ。木村定三と出会う少し前の話だ。上に掲載した《自画像》と並ぶ作品《麥畑》(1939)のキャプションには、「木村定三氏の言葉」として『熊谷守一作品撰集』から次の言葉が引用されている。
熊谷さんの作品は昭和十四年(注:1939年)ごろを境にして大きな転換をしている。それはそのころから物象を太い線で区切る表現に到達したことである。あるときこのことについて熊谷さんにきくと、「そのころ気分が大きくなって太い線で区切ることができるようになった」と答えた。(中略)黒い線で区切ることは、古来から日本画の様式として見慣れているが、茶とか赤の太い線で区切ることは日本の絵画の歴史にないことで誰もが面食らったのである。
日本画を試したことで得た感覚が油彩の表現にも反映され、よく知られるようになる熊谷守一のスタイルが確立されていったのだ。
そして守一の作品に心酔した木村定三は、「およそ人間が受ける精神的感銘の中で最高なる感銘は、『厳粛感』と『法悦感』である。しかもその両者間には価値の上下がない。それはあたかも神仏に優劣なきがごとしである」「熊谷さんの作品には法悦感、厳粛感がある」と述べている。それはおそらく、熊谷守一がとことんまで観察に徹底する画家だったからではないか。庭の蟻やカエル、植物などをじっといつまでも見続け、その命を感じ、受け止めて自分の腑に落ちたときなのか。素直に「描きたい」気持ちが湧き出たことで初めて絵筆を握る。その真摯な生命との向き合い方が、木村の話す「厳粛感」と「法悦感」を生み出したのではないだろうか。
2階の第2展示室に並ぶのは、熊谷守一美術館収蔵作品。こちらも時系列で作品が展示され、奥の1面の壁には裸婦像のみがやはり時系列で並び、入子構造のように画風の変化が見える構成だ。
3階の第3展示室に向かうと、館が収蔵する書や素描などが並ぶのだが、その味わい深さにはたまらないものがある。文字が持つ意味も、造形も、描く蟻やカエルや花の命も、人間の姿も、あらゆるものを等価で、無意味な偏見なくとらえていたに違いない。3フロアの展示で熊谷守一の視線を追いかけると、画家がどれだけ誠実な姿勢で対象と向き合っていたのかが伝わってくる。