世紀末芸術の爛熟期にあったウィーンで生まれ、後に京都に移住し幅広いデザインを生み出したデザイナー・上野リチ(*)。その世界初の包括的な回顧展「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」が、京都国立近代美術館から三菱一号館美術館に巡回した。
20世紀初頭のウィーンで育ち、ウィーン工芸学校において日本の文化・芸術の影響を受けたヨーゼフ・ホフマンらに学び、師が設立したウィーン工房でデザイナーとして活躍したリチ。ホフマンの下で働いていた日本人建築家、上野伊三郎と出会い結婚し、京都移住後に「上野リチ」と名乗り、ウィーンと京都を行き来しながら工芸や織物、染色など京都の伝統工芸の技術も取り入れつつ、様々なデザインを生み出した。後年は京都市立美術大学において教鞭をとり、退職後はインターナショナルデザイン研究所を開設するなど後進の育成にも尽力した。
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本展は、そんなリチの仕事の全貌を追うもの。会場は、「プロローグ 京都に生きたウィーン人」「第Ⅰ章 ウィーン時代──ファンタジーの誕生」「第Ⅱ章 日本との出会い──新たな人生、新たなファンタジー」「第Ⅲ章 京都時代──ファンタジーの再生」「エピローグ 受け継がれ愛されるファンタジー」の5部で構成されている。
裕福なユダヤ系の実業家の家に生まれたリチは、幼少の頃から芸術的な素養を身につけ成長していった。プロローグでは、彼女が遺したスケッチブックや七宝カラーサンプル、愛用のマントなどを通し、国境を越え自立した女性デザイナーとして活躍したリチの人物像を紹介する。
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リチは1912年にウィーン工芸学校に入学し、先進的なデザイン教育を受けた。開校時から女子の入学を認めていたこの学校で、リチはテキスタイルや七宝、彫刻を学び、卒業後は師・ホフマンに誘われ、ウィーン工房でテキスタイルを中心に創作活動を展開していった。
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第Ⅰ章では、まずウィーン工芸学校やウィーン工房の概要を装飾画、ポスター、書籍、便箋、印刷装丁のデザイン集などの資料とともに紹介。次いで、工房でのリチの師、先輩、同僚のデザイナーたちや陶芸家である妹キティ・リックスによる作品の数々、そして好評を博したというリチのテキスタイル・デザインが展示室を彩る。リチがどのような環境のなかで独自のデザイン世界を発展させていったのかをうかがうことができるだろう。
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1924年、リチは当時ホフマンの建築設計事務所で働いていた日本人建築家・上野伊三郎と出会い、翌年2人は結婚。26年には、伊三郎の郷里である京都に移住して建築事務所を開設し、協働して個人住宅や商業店舗の設計や内装デザインを手がけた。
第Ⅱ章では、ジャポニスムに熱狂していた1900年前後のウィーンのアーティストたちや、リチが日本の美術や工芸から影響を受け制作した作品を紹介。また、リチが京都移住後に手がけたインテリアデザイン、そして建築家ブルーノ・タウトがデザイン指導を行った高崎の群馬県工芸所にリチが夫とともに赴いて行ったデザイン制作など、数々の事例が紹介されている。
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1930年にウィーン工房を退職したリチは、35年に京都市染織試験場の技術嘱託として採用。翌年からは群馬県工芸所でも兼務。戦後は京都の繊維会社や七宝製作所と協働したほか、京都市立美術大学で夫とともに教育者としての活動を熱心に展開していった。
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第Ⅲ章では、リチがこの時期に生み出した作品が見られるほか、晩年の代表作のひとつも展示されている。それが、建築家の村野藤吾に依頼され、教え子たちの協力を得て描き上げた日生劇場(東京・日比谷)のレストラン「アクトレス」の壁画だ。同章の最後では、壁画解体後、大切に保存されてきたその一部が紹介されており、アルミ箔に色鮮やかな鳥や花が描かれた同作は、まさにリチが提唱した「ファンタジー」が具現したものだと言えるだろう。
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1967年に74歳で生涯を閉じたリチ。そのデザインは、村野藤吾や教え子たちの仕事とともに様々な場所に遺された。エピローグでは、村野藤吾が設計した都ホテル京都(現・ウェスティン都ホテル京都)の貴賓室を彩ったテキスタイル、京都の木屋町にあったカフェ・レストラン「リックス・ガーデン」の装飾ガラスや装飾タイルなどのデザインが飾られており、時代を超え、強い生命力で鑑賞者たちの心を掴み続けている。
*──上野リチの結婚前の正式な名前はフェリーツェ・リックス(Felice Rix)で、「リチ(Lizzi)」は愛称。結婚後の名前をリチ自身は、ドイツ語式に「Felice Ueno-Rix」と綴り、自ら愛称を用いて「Lizzi Ueno-Rix」とも記している。日本では後年の勤務先である京都市立芸術大学でも「上野リチ」とその名が記載されているため、本展ではその表記を踏襲しつつ、「上野リチ・リックス」が正式な表記として採用された。
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