1954年に、次代の芸術評論を切り拓いていく新しい才能の開花を目指し、月刊『美術批評』の「新人評論募集」として創設された「芸術評論」。第2回以降は『みづゑ』『美術手帖』『国際建築』『デザイン』各誌の連動のもと、第8回以降は『美術手帖』を媒体に、評論家の登竜門として多数の才能を発掘してきた。
これまで、東野芳明や中原佑介、李禹煥といった多数の入選者を輩出してきた同賞。2014年の第15回(審査員は谷川渥、椹木野衣、松井みどり)では、69件の論考が寄せられ、第一席にgnck(ジーエヌシーケイ)の「画像の問題系 演算性の美学」を選出した。そして今回、『美術手帖』創刊70周年を記念して5年ぶりに行われた「第16回芸術評論募集」では、112件の応募の中から、次席としてウールズィー・ジェレミーと北澤周也の2名が、佳作として大岩雄典、沖啓介、はがみちこ、布施琳太郎の4名が選ばれた(第一席は該当者なし)。
5月9日に東京・神保町の出版クラブで行われた入選者授賞式では、6名の入選者と今回審査員を務めた椹木野衣、清水穣、星野太が登壇。審査員講評と、受賞者の言葉が述べられた。
審査員講評では、椹木は「幻の第一席」として小田原のどかの評論に触れつつ、「外国籍の方で次席以上の受賞は初めて。また6名の入選者のうち、3名がアーティストとなった。これだけの数のアーティストが佳作以上に入ったのは初めて」と今回の特色を指摘。
清水は審査をワインのテイスティングにたとえ、「ここに6本のワインがあって、どれもあまり美味しくないとする。味が混乱していたり、酸っぱさが際立ったり。だけどそれが5年、10年経ったときに素晴らしいワインになるのだろうと思います。10年後の味を考えながらワインを飲むのはとても難しかったですが、その未来は恐るべしだと思うので、今後も美術批評を書き続けてください」と語った。
いっぽう星野は「評論」の性格を踏まえ、「批評・評論が祝福の対象となることは極めて珍しいことだと思います」としながら、「批評と祝福は根本的に相性が悪いものではないでしょうか。鋭利な批評であればあるほど他者の反発を招く。それが本来的な批評ではないかと。願わくば今回の祝福をすべて忘れていただいて、今後挑発的な仕事をされることを心から願っています」と入選者に鋭い言葉を贈った。
なお、3人の審査員座談会は『美術手帖』6月号に収録されている。また、受賞者6名のコメントは以下の通り。
ウールズィー・ジェレミー 3月末に東京藝術大学大学院を修了し、今年9月からアメリカの大学で博士課程に進みます。これから英語でも日本語でも批評・評論を出そうと頑張って参ります。 >>インターネット民芸の盛衰史 ウールズィー・ジェレミー
北澤周也 自分たちは(評論の)対象に対して愛憎一重でなければなりません。東松照明にラブレターを書くつもりはさらさらない。この先も、祝福されない人生を歩んでいきたい。 >>東松照明『日本』(一九六七年)と「群写真」―社会化された自由な「群れ」― 北澤周也
大岩雄典 批評というメディアがどのように読者、あるいは否応なく巻き込まれる作者を動かしていくかをずっと考えています。批評は制作と地続きなものとして取り組んでいる自覚があります。批評がどういうフォームを持てるかを考えていければ。 >>別の筆触としてのソフトウェア——絵画のうえで癒着/剥離する複数の意味論 大岩雄典
沖啓介 学生の頃に応募したことがあり、その頃の審査員東野芳明さんだった。そこから何十年も時間が経ってしまいました。今回の評論は、80年代以降のアートの流れと、いま自分が取り組んでいるデジタル・アート、あるいはバイオ・アートなどを組み合わせたもので、これからも書き続けていきたいと思います。 >>Averages 平均たるもの エドワード・ルシェから始める 沖啓介
はがみちこ 自分自身は「アートメディエーター」として、アーティストに伴走する存在だと思っています。そんななか、「ドキュメンタリー的だ」と評していただいたことは嬉しいです。実践者として、審査員の言葉を意識しながら頑張っていきたいと思います。 >>『二人の耕平』における愛 はがみちこ
布施琳太郎 「孤独を孤立させない」ということをコンセプトにしたミュージシャンに、大森靖子さんという方がいます。その方の歌とミュージック・ヴィデオをヒントにしながら書きました。その歌を教えてくれた人は、毎日ネットに自撮りをアップされていて、その一つひとつを「作品」と呼んでいる。僕にはその意味がわからなくて、でもそういうことについて考えたいなと思ったし、それを「作品」と呼ばなくてはならない人がいるのなら、それがどういうことなのか、言葉にして肯定できたらーー僕はアーティストですがーー文章を書く意味があるのかなって思います。 >>新しい孤独 布施琳太郎