東京・上野の東京都美術館で、画家・田中一村(1908〜77)の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が開催される。担当学芸員は中原淳行(東京都美術館学芸担当課長)、監修は松尾知子(千葉市美術館副館長)。
栃木県出身の田中はその画才から幼少期より神童と呼ばれ、1926年には18歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学(同期は東山魁夷、橋本明治ら)。しかし、2ヶ月余りで退学し、その後は独学で制作を行うようになった。47年には第19回青龍社展に入選するも、その後は日展や院展に相次いで落選。画壇から離れて制作を行うようになり、58年、50歳にして鹿児島県・奄美大島へ移住。以降、亜熱帯の植物や鳥などを題材とした新たな日本画の世界を切り拓いてきた。
本展では、一村が神童と呼ばれた時期から奄美の地で描かれた最晩年までの全貌を、田中一村記念美術館の所蔵品をはじめとする約250件以上の作品で紹介される。担当学芸員の中原によると、「これまでの同館企画展においてももっとも多い展示数になる」とともに、「生前に一村が語っていた『最後は東京で個展を開いて、絵の決着をつけたい』という機会が実現する」ものになるという。
会場は大きく分けて3章立てとなる。「第1章 若き南画家の活躍 東京時代」では、5歳で東京へ移り、彫刻師の父から書画を学び「米邨」の号を受け、制作された作品がまず初めに紹介される。その制作活動はなんと数え年8歳(満6〜7歳)から始まるというのだから驚きだ。現役入学を果たした東京美術学校を2ヶ月で退学してからも、一村は中国近代の文人画家による吉祥的画題の書画に影響を受けながら南画家として身を立てていった。
20代になると家族の不幸で苦労をしたり、自身の画風が支援者の賛同を得られなくなっとことで「南画と訣別」した空白期間があると考えられてきた。しかし、近年新たに紹介されてきた《椿図屏風》(1931)といった作品や資料からは、その期間も新たな画風へ挑戦するための制作活動が意欲的に行われていたことが伺える。
「第2章 千葉時代」では、27歳にして父も亡くし、30歳で親戚を頼りに移住した千葉市千葉寺町での一村の活動を追うこととなる。農作業や内職をしながらも周囲の支えもあり絵を描くことを続けることができた一村は、千葉の風景を描いた絵画やデザイン的な仕事、季節ものの掛け軸などといった、丁寧な作品を数々生み出していった。
また、画号を「一村」とした1947年に川端龍子主宰の青龍社展で初入選を果たした作品《白い花》も本展では展示される。
「第3章 己の道 奄美へ」では、単身で奄美大島の名瀬市へと移住した一村の活動に目を向けるものとなる。与論島や沖永良部島を取材したり、国立療養所奄美和光園の官舎に間借りし人々と交流しながら景観や動植物の写生を行っていた一村は、この地で《アダンの海辺》(1969)や《不喰芋と蘇鐵》(1973)といった代表作の数々を生み出すこととなる。
東京美術学校の退学から、独自の道のりを歩んできた一村。そこには、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ「不屈の情熱の軌跡」を見ることができるだろう。