2018年に生誕120年を迎えた画家・福沢一郎(1898~1992)。シュルレアリスムを日本に紹介し、戦時中には弾圧を受けながらも、晩年にいたるまで社会を批評する絵画を描き続けた。その画業を約100点の作品で振り返る展覧会「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」が、東京国立近代美術館で開催される。
当初は彫刻家を志していた福沢。しかし1924年からのパリ留学中に絵画制作へと進み、そこでマックス・エルンストの作品に出会う。福沢はエルンストに影響を受けて古い雑誌の挿絵を奇妙に組み合わせた《Poisson d’Avril(四月馬鹿)》(1930)などの作品を制作し、一躍注目を浴びることとなる。
31年に帰国した福沢は、パリで身につけたシュルレアリスムの手法を応用し、独自の諷刺的な作品を描くようになる。30年代半ばに入ると、評論家・小松清らがファシズムに抗する「行動主義」を提唱。この思想に共鳴した福沢は《牛》(1936)などを発表し、若手画家たちに影響を与えた。
前衛画家たちのリーダーとして活躍した福沢だったが、シュルレアリスムと共産主義の関係を疑われ、41年に瀧口修造と共に検挙される。以降、前衛的な絵画活動を制限されることとなる。
戦後活動を再開した福沢は、混乱する世相をダンテ『神曲』に託して表現し、代表作《敗戦群像》(1948)を発表。その後は52年に渡欧、56年に渡米し、中南米の風俗の原初的な生命力やアメリカの公民権運動のエネルギーに影響を受けた作品を制作する。
70年代に入ると、福沢は再びダンテ『神曲』に基づき、オイルショックなどの世相をユーモラスに描いた「地獄」の連作に取り組んだ。晩年には、21世紀への警鐘を示す《悪のボルテージが上昇するか21世紀》(1986)などの作品も手がけている。
謎めいたイメージのなかに知的なユーモアを込めつつ、ただの時事諷刺に終わらせずに普遍的な人間の問題として表現する姿勢を一貫して持ち続けた福沢。その人間批評の実践の数々は、現在私たちが直面する、表現や言論をめぐるさまざまな状況を考えるヒントを与えてくれるかもしれない。