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近代洋画という「密造酒」。
梅津庸一が見た、「東京⇆沖縄
池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展

戦前・戦後の池袋と、戦後の沖縄・首里における画家たちのコミュニティを切り口に、近代洋画を紹介する展覧会が板橋区立美術館で開催された。本展を、自らも洋画をモチーフとした絵画作品を手がける、美術予備校・パープルーム主宰の梅津庸一が論じる。

文=梅津庸一

会場風景

「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスと ニシムイ美術村」展 近代洋画を巡る言説の改修工事は不要なのか? 梅津庸一 評

 本展は「日本近代洋画」におけるもっとも豊穣な時期を、共同体を切り口に紹介する秀逸な展覧会だったと言える。「パープルーム」という疑似家族のような共同体を主宰する筆者にとってもとりわけ重要な展覧会だった。靉光の《鳥》や古沢岩美の水彩画など、作品単体でも思わず時を忘れじっと見てしまう作品もあった。アトリエ村の地図や「さくらが丘パルテノン」と名付けられた木造のボロ屋の写真資料が自分たちの活動と重なり、思わず目頭が熱くなったりもした。全国の画家たちが都心に集まりアトリエ村を形成し、それが沖縄など地方にも花粉のように飛散し波及し合うさまにも感じ入ってしまった。しかしインターネットがない時代にも関わらず、彼らの作品は全体的に均質で、バリエーションが乏しいことが気になった。

 名渡山愛順は沖縄の文化保護の分野でも活躍し、戦後は琉球舞踊を画題とした作品を多く残した。不透明でグレーがかった絵の具をのびのびとしたストロークで手際よく配するさまはあまりにも素直に黎明期の洋画の様式に拠ったものだった。つねに潜在的に中央、画商への目配せがあったのだろうな、と思わせる作品が少なくなく、本展の出展作品の半分くらいは凡庸なものだと言わざるをえないだろう。

 油彩画というメディウムが、テキストや写真では汲み取りきれない澱のようなものを底に沈殿させることができる優れた器であるいっぽうで、洋画を専門とする研究者や学芸員の洋画家たちに対する遠慮や謙虚さはかえって実像を見えづらくしているように思う。作品の技術的な面での美点や長所は、素人でも少し絵をたしなめば実装できる程度のものであり、洋画の大半が時代の産物としての資料的価値に依拠しているという前提なくしては近代洋画の批評は成り立たないと、わたしは考える。もっと言えば、作品の汚点や欠点を覆い隠す好意的すぎる眼や「独特のマチエール」などに代表されるマジックワードこそが、洋画シーンを閉塞させ衰退させてきた要因ではないだろうか?

 あまり好きな言い方ではないが、コンテンツとしての近代洋画の魅力は年々、目減りするいっぽうである。洋画家たちが挙って参加した、もしくは仮想敵とした団体展、帝国美術院展、太平洋画家会展、二科展などは、いまや周知の通り思考停止した巨大なカルチャーセンターとなって存続している。例えば本展に出品されていた杉全直の《沈丁花》は、かつて黒田重太郎や熊谷守一によって創立された二紀会の、現常務理事である山本文彦らの「絵づくり」と地続きであると言える。そんな連続性のなかでとらえると本展は戦前、戦後のある一定の期間だけを美化して褒めそやしている、という見方もできる。出展作家たちの解説文をざっと見ても、交友関係やどこに所属していたか、という情報だけが列挙され、美術史、絵画史のなかで何を達成しようとしたのかという点はほとんど記述されていない。つまり飴色になった洋画たちにまつわるエピソードは、個々の作家の実存に由来する葛藤や苦しみ、そして共同体としての画家たちの人間模様に終始していて、展覧会自体はよほどの洋画ファンでないと楽しめない内向きなものになってしまっている。

靉光 鳥 1942 宮城県美術館蔵

 思い返せば19世紀末に突如、日本にもたらされた西洋画なるものは、めちゃくちゃな順番で様々な様式を早急に受容し醸造された密造酒のようなものである。だとすればそれが順当に素晴らしいものであると考えるほうが不自然である。

 そしてしばしば、現代美術と近代洋画は断絶していると言われるが、そんなこともないだろう。断絶しているのはたんにコミュニティ上の問題だったりもする。意識的な切断も接続もなされない日本の現代美術では、いまだに近代洋画のパラダイムが続いているのかもしれない。

 本展が終わると板橋区美術館は2020年に向け大規模な改修工事を行うという。たしかに本展を観ていて壁の汚れや穴は気になった。しかしながら壁や建物がきれいになったところで、今回の改修工事の概要に書いてある「美術館の魅力をさらに高める」は達成できるのだろうか? 洋画が美術の制度の上に成り立っているジャンルである以上、わたしたちは過去の画家たちの業績や連帯にロマンティシズムを感じるだけの「受け手」であってはいけないのだ。残された作品や資料を積極的にとらえ直し、現代の表現やそれ以外の何かと紐づける態度が求められる。それは作家、鑑賞者という配役を越えて、思考のなかで新しい共同体を組織するということでもあるのだ。

編集部

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