ポスト3.11時代の美術家・中島晴矢に個展の意気込みを訊く

『美術手帖』2015年5月号で企画された若手作家特集「日本のアート、最前線!!」にて、Chim↑Pomを率いる卯城竜太の誌上キュレーションに選出されるなど、オルタナティブな領域から起きつつある日本の現代美術の地殻変動を象徴する作家のひとりとして、注目を集める中島晴矢。6月26日〜7月5日、TAV GALLERY(東京都・阿佐ヶ谷)で開催の個展「ペネローペの境界」にかける意気込みをインタビューした。

 中島晴矢は、映像、絵画、立体など、さまざまな手法によりコンセプチュアルな作品を制作する作家。2014年には、「ナオ ナカムラ」(東京都・高円寺)で従来の活動の集大成ともいえる個展「ガチンコーニュータウン・プロレス・ヒップホップー」を、「原爆の図 丸木美術館」(埼玉県・東松山)で、個展「上下・左右・いまここ」を開催した。

 「マッチョイズムと情けなさの応酬」(『美術手帖』2015年5月号より)と評される中島晴矢の作家性を、インタビューを通して、作家自身の言葉から紐解いていく。

今回インタビューに応えた中島

根底にワナビー感を抱える現代美術家

──個人としての作家活動に加え、渋家(しぶはうす)というアーティストグループ・コミューンの設立メンバー、HIP HOP ユニット・スタッグビートのラッパー、そしてアンダーグラウンドな演劇役者など、中島さんは極めて多角的かつ横断的な活動をしています。どのような経緯で活動を始めたのでしょうか?

 浪人生時代に美学校に出入りし始めました。当時は文学を志していましたが、ただ表現欲求だけが肥大してなにをやればいいのか分からなかった私は、表現の懐が深いと感じた現代美術に惹かれていきます。

 初めてのアート表現は、10代の頃に行った、三島由紀夫のパフォーマンスだったと思います。三島文学にのめり込んでいた私は、三島の自決事件をパロディにしました。

 「盾の会」の格好で「天皇陛下万歳!」と叫びながらマスターベーションをするという、リビドーまかせの表現でしたが、そこで自分の実存をさらけ出せたことが面白くて、メディアを問わずに作品をつくるようになっていきます。

中島がはじめて行ったパフォーマンス 左右レボリューション21 2008 文房堂ギャラリー

──中島さんは、2014年のナオ ナカムラでの個展「ガチンコーニュータウン・プロレス・ヒップホップー」に象徴されるように、現代的なサブカルチャーをモチーフとした作品を制作されていますが、美術作家として、こういったモチーフを扱う理由を教えてください。

 具体的なモチーフとしては、「ニュータウン」があります。ニュータウンは私の地元であり、この街の小綺麗な秩序に対して、両義的な思いがある。そしてそこに介入するのが、プロレスとヒップホップです。

 プロレスは圧倒的な身体性と祝祭性をもって、ヒップホップはノイジーなサウンドとブロークンな言語体系をもって、私の日常を囲んでいるシステムの息苦しさを揺さぶってきました。

ナオ ナカムラで開催された「ガチンコーニュータウン・プロレス・ヒップホップー」(2014)

 それらを表現したのが、郊外住宅地で実際にプロレスをする映像作品《バーリトゥード in ニュータウ ン》であり、住宅広告の上にグラフィティを描いた作品《WaNNa☆Be》などでした。自分には曖昧なルーツしかないのにもかかわらず、ハイ・ロウ問わず様々なカルチャーに憧れてしまうという、自身のワナビー感が根底にあります。

境界線を更新し続け、新たな美を提示する

──今回、TAV GALLERYで開催されている「ペネローペの境界」は、ギリシャ神話の「織ってはほどかれるペネローペの織物」を題材に、国境、原理主義、前衛芸術、震災、近代などの「境界」をコンセプトにした展示です。この展示の構想にはどのような関心が潜んでいるのでしょうか?

 ホメロスのギリシャ神話『オデュッセイア』の登場人物であるイタケーの王・オデュッセウスの妻・ペネローペのエピソードを、ベースとしています。ペネローペは夫の帰りを待つ間、押しかけてきた求婚者たちに対し、織っていた織物が織り上がったら、求婚者の中からひとりを選ぶ、と言う。しかし、彼女は昼に織った織物を夜になると解いていて、織物をずっと完成させなかった。

 この、「織ってはほどかれるペネローペの織物」のイメージが、展示全体の象徴になっています。

「ペネローペの境界」展に展示された《Walk this way》(2015)

 ペネローペの行為は、境界を引き、あるいはほどいて、絶えず境界線を刷新し続ける現代社会のメタファーとして機能するのではないでしょうか。そして、そもそも現代美術とは、そういったムーブメントをその本質とするのではないでしょうか。

 前時代の美を書きかえ、新たな美のあり方を示すという性質ゆえに、その痛切な革新性において、歴史を塗り替える役目を担っているのです。

オデュッセイア 2015 砂、フレコンバック、ブラウン管テレビ、石膏像などのミクスト・メディア

──グローバリズムが急速に進行するアートシーンのなかでは、それによる弊害も露呈しつつあると思います。中島さんは、自身の立ち居地と日本の現状についてどう思いますか?

 私が一貫して描きたいのは「日本の自画像」です。いま、日本のリアリティから出発し、それを徹底して掘り下げることで、逆説的に世界に至るような表現を志向しています。

 その意味で、私と同世代か、私の周りにいるアーティストたちは、この問題にとても自覚的に制作を行っているように思えます。欧米のアートシーンへの過度な憧憬も、日本への過剰な信頼もなく、自身の立脚する地平から世界を見ている。

 そのモチーフは取るに足らないサブカルチャーかもしれないし、自分の家族かもしれないし、日本の政治的状況かもしれない。しかし、それらがごく自然に、グローバルでコンテンポラリーなファイン・アートの歴史に連なる状況が、できあがってきつつあるように思えるのです。

 私も、そういった新しい作家たちのひとりに位置付けられれば、と思いますし、こういった動きが、日本の美術シーンを更新し得るとも思っています。

編集部

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