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言語を扱う「風景画家」。マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホー インタビュー

KOTARO NUKAGA(天王洲)で個展「SOMETHING SO BEAUTIFUL IS SO EASILY FORGIVEN」(2023年4月8日〜6月3日)を開催したハワイ生まれのアーティスト、マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホー。ギャラリーの壁に直接描いたレタリングを石膏ボードごと剥がしたペインティングと、露呈した壁面に施されたレタリングの組み合わせによって構成した展覧会で、展示作品や言語が果たす役割などについて話を聞いた。

聞き手・文=藤生新 通訳=丹原健翔

マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホー

 「ぼくは、自分が広東・日系のアメリカ人であるという条件を取り外したところで作品に向き合っています」。 

 マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホーは、広東系の父親と日系の母親のもと、1996年にハワイで生まれた。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)への進学を機にアメリカ本土に渡り、バーバラ・クルーガーやアンドレア・フレイザーといった「言語」を扱うアーティストたちに師事するようになった。

 ほかにもジェニー・ホルツァーローレンス・ウィナーなど、コンセプチュアル・アートの巨匠からの影響を公言するホーは、なるほど、自身も「言語」を扱った作品を制作している。なぜ、ホーはこうした作風に至ったのだろうか?

 「UCLA在学中にトランプ政権が誕生して、人種差別が激しくなりました。そのときに周囲からは『アジア系アメリカ人として発言すべき』という圧力を感じたんです。学生時代から興味を持っていたバーバル・クルーガーやジェニー・ホルツァーなど、往年のコンセプチュアル・アートには『鑑賞者にアクションを強いる』という共通点があります。そういう意味では、ぼくの取り組もうとしていた言語の作品は『政治の季節』にぴったりだと思われがち。でも、ポストSNS時代のいまでは、人とテキストの関係性は大きく変わりつつあります。ぼくはその変化に注目しているんです」。

マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホー

 人とテキストの関係性の変化──果たしてそれはどのようなものなのだろうか?

 「現代では、あまりにも多くの人が多くのことを主張するので、誰も強い言葉を信じられなくなっています。それよりむしろ、言葉が発せられる文脈やニュアンスのほうが見られるようになってきている。そうなると、言葉の魅力はそれ自体の意味より、言葉が伝わる過程でその意味がどんなふうに変わっていったかを見届ける過程に宿るようになると思うんです」。 

言葉の文脈をパッケージすること

 KOTARO NUKAGA(天王洲)で開催されたホーの個展「SOMETHING SO BEAUTIFUL IS SO EASILY FORGIVEN」(2023年4月8日〜6月3日)では、ギャラリーの白い壁に直接レタリングを施し、その部分が石膏ボードごと切り出されていた。石膏ボードはパネルに固定されて「タブロー」と化している。それに加えて、石膏ボードが切り出されることで露呈した壁面にも直接レタリングが施されており、本展におけるホーの作品はこの「タブロー」と「壁画」のふたつのパーツからなる全10点で構成されていた。

「SOMETHING SO BEAUTIFUL IS SO EASILY FORGIVEN」展の展示風景より

 そのうちのひとつ《TIME TO SHINE》(2023年)には、「輝く時間だ」を意味するポジティブなメッセージ「TIME TO SHINE」が記されている。しかし「SHINE(輝く)」をローマ字読みすると「シネ」となり、「死ぬ時間だ」という逆の意味が暗示される。「SHINE」という言葉は、日本のネットユーザーがスラング化したことがあったが、このようにホーの作品では、その言葉が用いられる文脈がまるごと巧みにパッケージングされているのだ。

展示風景より、中央は《TIME TO SHINE》(2023)

 ホーによれば、これらの作品には「敗北主義的な諦めのようなトーン」が通奏低音のように流れているという。そのトーンは《TIME TO SHINE》における「壁画」パーツを見ると顕著に感じられる。

 そこに書かれているのは「IT’S OKAY TO GASLIGHT YOURSELF(自分自身をガスライトしてもいいんだよ)」という言葉だ。ここでいう「ガスライト」とは、2018年以降に英語圏で定着した新たな語彙で、DV加害者が被害者に対し、わざと誤った情報を与えることによって、被害者が自己認識を疑うように仕向ける悪質な手法のことを指している。

展示風景より、《TIME TO SHINE》(2023)

 「もちろん、この言葉も敢えて使用しています。自分に対して『ガスライト』することで、自らを感情的に操作して社会と向き合うということが現代では当たり前のように起きている。自分が自分に対して『大丈夫だよ』と洗脳することで、様々な不安や心配を無視しているという状況をユーモラスに諦めたようなトーンで表現しているんです」。

「あなたは孤独である」

 別の作品にも目を向けてみよう。YOU MAY FEEL ALONE》(2023年)には、「YOU MAY FEEL ALONE BUT YOU ARE(孤独に感じるかもしれないけど そうである)」というレタリングが施されている。ここで着目すべきは、最後の「ARE」の部分で画面が切れていることだ。その先に言葉が続くのか/続かないのかは誰にもわからない。

展示風景より、《YOU MAY FEEL ALONE》(2023、部分)

 「この『YOU MAY FEEL ALONE BUT YOU ARE』という言葉は、鑑賞者に自然と『NOT』という言葉を期待させます。すると文章の意味は『孤独に感じるかもしれないけど、そんなことないよ』という慰めのトーンになる。でも『ARE』で文章が切れているので『あなたは孤独である』という突き放した意味になっています。ここでぼくが示しているのは、ある文脈で言葉が期待される役割のようなもの。ここでは『慰める』という役割を敢えて投げ出すことによって、『そんなことないよ』という言葉よりもリアルな現実を描いています」。

 さらに面白いのは、この言葉が描かれた「タブロー」の反対側の「壁画」には(ほかの展示作品にはおしなべてある)レタリングが施されていないということだ。

展示風景より、《YOU MAY FEEL ALONE》(2023)

 「ほかの作品ではタブローの裏にあたる壁画の部分にサブコメンタリーを置くことで対にしているのに対して、この作品では『あなたは孤独である』という現実を突きつけるように、壁画にも何も描かれていません。これは言葉を使わずにニュアンスを伝えようとする試みで、何もないところには何もない、という諦めのトーンを示しているんです」。

としての引用、色彩としてのフォント

 なぜ、ホーはこうした「諦めのトーン」に魅力を感じているのだろうか?

 「ぼくが表現しようとしているニュアンスはZ世代的なものだと思っています。この世代の特徴として、『死』や『孤独』などの苦しみや悩みをユーモラスに受け入れてしまうメンタリティがあるんじゃないかと思っているんです」。

 実際にホーが用いるフレーズの多くは(SHINEもそうであったように)インターネットやソーシャルメディアなどから引用されたものが多い。Z世代ならではの言語感覚であるといえるだろう。

 「例えば『DAER MOM AND DAD』と書かれた作品にある『CAN WE STILL BE FRIENDS』というフレーズは、タイラー・ザ・クリエイターというヒップホップのアーティストの歌詞の引用です。その曲自体に意味があるのではなく、この歌詞を抽出することで、楽曲を聴いていたときに感じたことなど、鑑賞者の体験や想いがこもる『器』としてフレーズが機能したらいいなと思っているんです」。

作品が「器」として果たす機能について話すホー

 さらに気になるのは、ひとつのフレーズのなかにいくつものフォントが見られることだ。ホーによれば、複数のフォントの使用は「様々なトーンをコラージュしている感覚」のようであるという。

 「文章を読むとき、脳内で流れる声にあたるのがフォントだと思っています。そういう意味では、ぼくがフォントを扱う感覚は画家にとっての色彩のようなもの。あるかたちを描くとき、どんな色を選ぶかによって、言葉では伝えられないニュアンスが伝えられます。それと同じように、フォントが変わるだけで、読み上げの速度、勢い、アクセントなどが変わります。そういった調整をフォント選びで行っているんです」。

風景画家として

 冒頭でホーは、バーバラ・クルーガーやジェニー・ホルツァーといった「言語」を扱うアーティストからの影響を受けていることを紹介した。実際に彼の作品は、そうした先人のコンセプチュアル・アートと一見したところよく似ている。しかし、徐々にその違いが明らかになってきた。それは次のようなものだ。

 かつてのコンセプチュアル・アートの作家たちは、指示を出すこと、観客を動かすことといったパフォーマティビティに重きを置いてきた。そのためには、強い口調のメッセージが作品に添えられることも珍しくなかった。

展示風景より

 それに対してホーは、かつてのアーティストほどには「言葉の持つメッセージ性」を信頼していない。その代わりに彼が拠り所とするのが「言葉の属する空間」だ。

 これまでに見てきたように、ホーは言葉の流通する文脈や期待される役割の脱臼、そしてフレーズの由来やフォントの選択などによって、言葉の意味そのものよりも、その言葉の意味が成立する「空間」への注意を促してきた。ここから浮かび上がるのは、ホーが言語を扱いながら、その言語が流通する場を表現しようとする「風景画家」であるのではないかという視座だ。本人にこのアイデアを伝えてみたところ、 次のような回答が返ってきた。

 「風景という比喩は面白いですね。いや、実際にそうかもしれません。本やウェブの文章の場合、言葉はひとつの方向に流れます。それに対して展覧会場では、鑑賞者は様々な方向に歩き回れるので、任意の順番で組み立てられたフレーズが総合的な体験を創出する。それもある意味で風景的ですよね。たしかにぼくの作品では、言語の背景に広がる空間に目を向けようとしています。スケール感は身体のサイズに依存しますが、ぼくがイメージしている空間は、何もない無限の広がりのなかに文字が流れているようなもの。ですから、この展覧会場はそういう場になったのかもしれないと思っていました」。

展示風景より、中央は《TRY AGAIN TOMORROW》(2023)

 ハワイ生まれの広東・日系アメリカ人というハイブリッドな出自を持つホー。その出自も相まって、自らが属する主たるコミュニティが見つからないことに長らく悩みを抱えていたという。

 しかし最近になってホーは「ハイブリッドな人々にとって『明確な居場所がないこと』こそが当事者性であること」に気が付いたという。「特定のどこかに属することのできない不安」と「どこにでも属することができるかもしれないという期待」──ホーの作品からは、こうした不安と期待の入り乱れる空間が感じられる。それは見方によっては不安なものにも、自由で可能性に満ちたものにも見える空間だ。

マイケル・リキオ・ミング・ヒー・ホー

編集部

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