子供時代の絵は別のものって区切れない
──「全景 1955-2006」展では、小学生時代に描いた漫画やスケッチなどに始まり、展覧会に向けた新作までが展示され、すごい見応えだったことを記憶しています。
あのときは初めての大規模な回顧展だったから、できるだけ時系列で、徹底的に作品量も並べることを重視しました。今回は時系列じゃなくて、この60年間ぐらいでつくったものを見せるために7つのテーマを考えたんですよ。もともと自分がコンセプトを打ち立ててものをつくるタイプではないから、60年間で自分が意図せず周期的に生まれた流れを言葉に置き換えたっていう方が正しいかな。
──展示を分類するうえで全作品を振り返り、大竹さんの内側にある流れをあえて言語化し、7つのテーマ(「自/他」「記憶」「時間」「移行」「夢/網膜」「層」「音」)にしたというイメージでしょうか。
そうだね。だから7つのテーマで分けたけど、どれも長いことずっと自分の中にある流れだから、作品によっては3つの流れに跨るようなものもあるし、あまり明確に線引きできるようなものではないんですよ。
──60年間で手がけた作品ということで、子供の頃の作品も含まれるわけですが、やはり大竹さんとしては、子供の頃に衝動的に描いたものとプロとして発表した作品とを区別したくないという思いが強いですか。
結局、何がプロかっていうのはわからないし、9歳くらいの頃につくったコラージュで無意識にやっていたことがいまにもつながっているから、子供時代の絵は別のものって区切れないと思うんだよね。アーティストだとか芸術だとかを意識する前に、無意識でやっていたことのほうが本質的な行為なんじゃないかっていう思いは強い。
もちろん、子供の頃の絵が全部純粋だとなんか思わないけど、なかにはそうやって純粋に生み出されたものもあるはずですよ。考え方によっては、子供の衝動でつくったものは作品とは呼べないと考えている人もいるかもしれないけど、じゃあどの程度考えてんだよって話じゃない。理路整然とコンセプトを語った作品はわかりやすいけど、人生80年あまりとして、物事の本質をわかることなど可能なのか?って逆に疑問に思う。もっといろんなことが不可解で、予想不可能で、だから自分ではつくり続けているわけですよ。
──子供の頃に絵を描いていて、誰かから褒められたり喜ばれたりしたことが動機になった記憶はありますか。
もちろんあります。子供の頃はマンガを描くのがすごく好きで、カバンだとか下敷きだとかに描いていたわけ。そうすると、同級生から「僕も描いて」って言われて、マンガを描くことがこんなに人を喜ばせるんだとか、生な反応を経験するとまた描こうっていう気分になる。
子供の頃に好きなキャラクターがいて、そのキャラクターを描くときに自分がつかんだニュアンスみたいなのがあるわけですよ。よく覚えているのは、そのニュアンスをつかんで、出せたときはうまく描けたって思うの。でも、トレーシングペーパーでそのキャラクターを写したらそのニュアンスが出るかっていうと、そういうことではない。子供の頃にもそういう発見はありましたよね。
──展示構成を考えるうえで、7つのテーマ設定と出品作品のセレクトはどちらが先に行われたのでしょうか。
同時に並行して進めました。選びながら7つのテーマという流れが思い浮かんできたし、その言葉によって作品が目に止まりもした。やっぱりいくつかのテーマにまたがる作品も多いから、流れが決まってからは、バランスを考えてそこに振り分けていきました。
「時間」っていうセクションがあるんだけど、例えばそこでは、時計が写っている印刷物をコラージュした作品と、20代の頃に実験的に描いた絵が並んでいます。その絵っていうのは、100号のキャンバスを壁に裏返して立てかけておいて、表に引っくり返して何を描こうか考えるところから30分で完成させるというルールで描いた作品なんですよ。無意味に時間を区切って絵を描くことに興味を持って描いた作品なんだけど、時間ひとつをとってもそういう風に連鎖しますよね。時間に対する様々な考え方に則した作品が集まるっていうのかな。
──30分というのは、パレットに絵具も出していない状態からですか。
そう。要するにキャンバスを引っくり返してからすべてが始まるから、何を描くかも決めていなければ絵具も用意していない。ゲームみたいなもんだよね。今回その100号の2点、《赤いヘビ、緑のヘビ》《4つのチャンス》は「時間」のセクションに展示しますよ。
──セクションごとに作品選出の視点を想像しながら鑑賞するのも楽しくなりそうです。「自/他」についても聞かせてもらえますか。
単純にまず、自画像があるじゃない。それともうひとつは、その自分をつくることになった外の世界っていうか、平たくいえば自分が影響を受けた人物やものっていう意味合いが強いかな。北海道とかロンドンで撮った写真も入っていますよ(注:大竹は武蔵野美術大学在学中の1年間、北海道・別海町の牧場に住み込みで働く。また、在学中には初の海外経験としてロンドンで1年を過ごし、ポートベロー・マーケットで手に入れたマッチ箱の数々がコラージュ作品のブレイクスルーとなった)。
──写真は学生時代から継続的に撮影していますか。
集中的に撮ったのは北海道の牧場にいたときですね。自分が見たものを残したいっていう欲求がすごく強かったっていうかさ、今日は明日と絶対に違うんだっていう思いがあるから、今日の印を残すための手段が写真だったんだよ。仕事中は忙しいから絵を描くわけにはいかないし、でも写真だと可能だからポケットにカメラを入れておいて、何かを感じたらそこでシャッターを押してたんですよ。何かを残すっていう意味合いが強かったよね。
──大竹さんの好むモチーフとは?
なんだろうな。なんだかボロボロなものをずっと撮ってますね。10代の頃から。ボロボロの壁とか、時間がすごく堆積したもの。街なかに普通に落ちてる看板とかもそうだし、人工的なもので、意味のないものが多いかもしれないね。無意味な人工物みたいな、主張がないものが目に入ってきたりするのかな。なんでそれに惹かれるのかは、自分ではよくわからないものですけどね。
──ものを拾ってきて作品に使用するときにも同じ視点ですか。
ものを拾うときは、基本的に作品のことは考えていません。前にフランスの蚤の市で買ったものがあるんだけど、木の道具で、わけわからないかたちだったわけですよ。カーブになってて指を入れるところがついて、草を刈る道具だったらしいんだけど、美しい骨董品とかでも全然なくて、ただかたちがわけわからない。そういうのは買っちゃうよね。でも作品にしたわけではないし、家にありますよ。
今回「記憶」のセクションに出す《憶片》という立体作品があるんだけど、それは造船所で拾った船の先端部分で制作した作品です。衝突して船の先端部分がねじ曲がって修理に来た漁船があったらしくて、造船所に捨ててあったんですよ。グニョっとねじれてて、もうわけわからないの。こんなかたちは絶対に俺には思いつかないと思って感激して、もらって帰ってきたんです。持って帰ってきてもやっぱり変なかたちで、そのままだとなんか気持ちが落ち着かないから、白い和紙を裏表にビッチリ貼ったわけですよ。貼り終えてみたら、人の記憶をかたちにしたらこんな感じなんじゃないかと思えて、《憶片》という作品にしました。だから完全に自分がつくったものではないし、こんなかたちはつくれないし、出会いから生まれたものなんですよ。
──ものを拾ってくるときや、楽器を改造してどんな音が出るのかを試す場合などに共通しているように想像しますが、自分だけでは思いつかないものや、自分ではコントロールできないものに惹かれるんですね。
それはありますね。得体の知れないものを見て、それに感激したり興奮したりすることがあるけど、それって自分のなかでモヤモヤしていて解決していないなんらかの形や事象との出会いがあるからこそ、そこに自分自身が説得力を感じるっていう事なんじゃないかな。
──では、そのように出会ったものを作品にする場合と、作品にしない場合とでは、どのような違いがあるのでしょうか。
いま話した《憶片》の場合も、作品にしようと意図したわけではないんですよ。造船所で見つけて自分に引っかかったものを自分の思うかたちに収めたいというか、わけがわからないグニャっとしたかたちのものを見つけて、そこに和紙を貼りつけたときに、ひとつの決着がつくんですよ。なんかこう、自分の気持ちが収まるっていうのかな。良い作品をつくろうと思っても大したものはできませんよ。自然とできちゃうものが重要。絵の場合もそう。欲を出すと良いものはできません。
「地名」への思い
──今回出展される《宇和島駅》にしても、駅舎が改装になることをきっかけに入手したネオンサインですよね。
制作の拠点を東京から宇和島に移してからしばらく経った90年代前半に、宇和島駅が全面改築になるということで、初めて意識したのが旧駅舎屋根に何十年と付いていたあのサインなんですよ。その時点で4文字ともネオンはなくてブリキ剥き出しの文字型だけでした。駅が改築されるっていうんで、当然ああいうサインは貴重な駅の歴史の一部だし、JRの倉庫なんかに昔のままで保管されると思ったわけですよ。でも駅に確認してみると、捨てちゃうって。それはまずいと思って、自分で外すならいいですよっていうからもらいに行ったんだよね。屋根に上って溶接をはずして、ロープでひと文字ずつ下ろした。それで一旦、気持ちは収まったわけよ。とりあえず貴重なものを救ったと。
──大事な郷土資料の廃棄を免れたと。
要するにこれも、作品をつくろうと思って手元に置いておいたわけじゃないんですよ。自分が生まれたところの地名って選べないから、進学なり就職なりをきっかけにその土地を離れることになると、それからその土地と自分の関係が始まると思うんだよ。俺は東京の出だから宇和島の人たちからすればまったくのヨソ者だけど、高校卒業後に北海道の牧場に住み込みで働いていたとき、ふと雑誌だか何かで東京の地名を見てぐっと切ないものが込み上げてくることがあったわけ。そのときに、地名って想像以上に人に影響を与えていることがわかったんだけど、そういう思いがあったから、宇和島駅のサインは絶対捨てちゃダメだって思ったよ。
宇和島駅の文字にネオン管が灯っているのを見て育った人にしたら、あのサインは出会いも旅立ちも含めてある種の象徴なわけじゃない。普段は当たり前のものだけど、なくなってみて初めて大事さに気づくっていうかさ。「全景」展のときもそういう感想をもらいましたよ。宇和島から東京に出てきてバンドをやってて、東京都現代美術館に展覧会を見に行ったらボンって「宇和島駅」のネオン管が目に入ってきて、反射的に泣きましたって。
──宇和島出身者からしたら強烈な不意打ちです! ところで、《宇和島駅》として最初に出品したのはいつですか。
駅のサインをもらってから少し経って、新津市美術館(現・新潟市新津美術館)が開館することになって、日本の地方とかローカルをテーマにした展覧会をしてほしいと美術館から頼まれたんですよ。美術館の新しいビルが田んぼの真ん中にボンとできるっていうから、そのときに宇和島駅のサインを思い出して、自分で考えた色のネオン管を入れてビルの上につけたら、建物が丸ごと新しい駅になるからいいんじゃないかと思ったんです。実際に美術館に行ったら、遠くからたまに踏切の音が聞こえる場所だから、駅として臨場感もある。ぴったりの場所だったから、その後も大阪、水戸、広島、福岡、東京と、いろいろツアーをして、皇居が見える東京国立近代美術館にも設置しようとなりました。
絵とは自分が常識だと思ってることを覆してくれるヴィジョン
──7つのテーマはあくまでも便宜上のもので、モチーフも素材も技法も様々に展開されてきたことが楽しめる展示になると思います。
素材でも手法でも、ひとつ自分で納得したものができちゃうと、それを続けるのに飽きちゃうんですよ。興奮がなくなるっていうのかな。だからあえて逆のことをして、また批判にさらされる方が燃えるっていうかね。自分としては常に違うことをやり続けないとダメなんだよね。ほんとに俺なんかさ、つくることがなかったら、わけわからないものを拾ってきて家に溜めちゃうゴミ屋敷の親父になってると思うんだよね。これで何もつくらなかったら、完璧にアウトだと思うもん。
──でも大竹さんは実際、つくらずにいられない衝動に突き動かされるわけですし、展覧会チラシに記された「あらゆるものが画材である」というコメントが象徴的です。《宇和島駅》にしても、あのネオン管を2階部分に設置することで、東京国立近代美術館をキャンバスに新しい絵を描いていると感じられて、そのコメントがしっくりきました。では、大竹さんにとって「絵」とはなんなのでしょうか。
自分にとって絵ってさ、自分が常識だと思ってることを覆してくれるヴィジョンなわけよ。美術館に飾られている絵画であってもそうだし、《宇和島駅》なんかにしても、自分が当たり前だと思ってきた景色を覆してくれるものだから。そうやって覆されたうえで、自分がどうやってものを見てきたのかに気付かされて、要するに、自分を見ることになる。自分の一部と出会うっていうのかな。そのきっかけになるものが、俺にとっての絵なんじゃないのかな。
──絵をアートに置き換えてもそうですか。
アートの定義とか考えるとまた難しいよね。それって人それぞれだと思うし、こうやって話している最中から刻々と変化しているものだと思うんだよ、アートって。「こういうものです」って言い切った瞬間から、アートは違うものに変わっていく。だから絶対につかみ取れないものだし、つかみ取れないから普遍的に続いていくものなんだろうな。自分にとっては「哲学」も「アート」同様に言い切ることができない。でも自分としてはそれをわかりたいし、わかろうとする欲求がある限り、つくり続けるんだろうね。
──では、つくっていてどういう瞬間に興奮がありますか。
やっぱりなんかこう、自分の内側でもどかしく思ってたようなものがさ、目の前にポンと出たような瞬間っていうのかな。自分の気持ちがポロッと目の前に出たっていうか、言葉にできないかたちと色が現れて、「こういうことなんだよね」って感じられる瞬間に、そう感じるのかもしれないね。