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2017.3.11

福島県で暮らし、見つめるメディアの過去、現在、未来。
竹内公太インタビュー

メディアの性質に着目しながら、近代史や個人の記憶をテーマとした作品を発表している、1982年生まれの竹内公太。東日本大震災による事故後に東京電力福島第一原子力発電所の作業員として勤務した後、発電所内のライブカメラを指差す姿が話題となった「指差し作業員」についての展覧会を開催し、注目を集めた。SNOW Contemporary(東京・六本木)で3月4日まで開催された個展「写真は石碑を石にする、それでも人は」にあたり、出品作やこれまでの活動について聞いた。

《石碑を二度撮る》より 107p300 四倉魚市場記念碑 左:竹内公太 右:斎藤伊知郎撮影写真

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──開催中の展覧会「写真は石碑を石にする、それでも人は」では、活動拠点である福島県いわき市にある石碑を題材とした作品を発表されています。まずは、今回の展示作品《変身》(2017)と、その元となった《石碑を二度撮る》(2013-16)について聞かせてください。

写真作品《石碑を二度撮る》を制作したきっかけは、いま住んでいる福島県いわき市の図書館で、斎藤伊知郎さんの『近代いわき経済史考』(1976)という本に出会ったことです。新聞記者であり教育者でもある著者が、市内の石碑について写真と文章で記録しながらいわき市の近代史をひもとく、紀行的な本です。もともと東日本大震災の津波被害から連想して、石碑や産業遺産の古い建造物などに関心があって手に取ったのですが、宗教や文学の研究ではなく、近代史を扱うために石碑を巡るという視点がユニークだと感じました。

石碑を正確に記録することが第一の目的なら、フォーマットを決めて接写したり、拓本をとったり、碑文を書き写したりするのが普通ですが、この本に載っている写真はそれほど統一された構図を持つものではないうえに、人が写っていたり、影があったり。石碑の由来や周辺の歴史については別に記述されているのですが、この写真自体は「ここに行ってきました」という、個人的な旅の「記念」としてのもの。主観的なものが交じった記録を学術的に扱うのは難しいかもしれないけれど、そういった私的な動機に人間的な魅力を感じ「この人の足跡をトレースしよう」と思いつきました。

《変身》のインスタレーション風景。『近代いわき経済史考』に掲載されている石碑のなかには、ほとんど標識や看板のような役割を持ったものもあったという 撮影=木奥恵三 © Kota Takeuchi, Courtesy of SNOW Contemporary

2013年に掲載されている石碑を実際に訪問し始めて、2016年にだいたいすべてを巡り終えました。本が刊行された1976年からちょうど40年です。途中から、斎藤さんの写真を再現する構図で写真を撮り、著者の足取りをたどること自体を作品としようと考えました。掲載されている180以上の石碑のなかから、現存する約170か所を撮影し、本展ではそのうち開発・産業・土地・建築・人物・事故・戦争に関わる120点の石碑の写真を展示しています。

──展覧会タイトルの「写真は石碑を石にする、それでも人は」とは、一読したところ意味が取りづらいですが、どのような意図でつけられたのでしょうか。

ニュースで、東日本大震災で津波被害に遭った道路ののり面から、地中に埋まっていた1933年の昭和三陸地震に伴う大津波の記念碑が発見されたというエピソードを知り、石碑の「寿命」について考えたんです。この場合は物理的に地中に埋もれていたわけですけど、それはインターネットをはじめ多くのメディアに情報があふれる現代において、石碑が忘れ去られてしまっている状況にも通じるように思いました。「こんなところに石碑があったんだ。毎日通ってるのに、気づかなかった」というようなことがよくあるのは、石碑が大量の情報のなかに「埋もれ」、意味にまでたどり着くのが難しいものになってしまっているからなのかもしれないと。また、写真に撮ることによって見え方が変わり、メッセージをもつ石碑が風景のなかのたんなる「路傍の石」に見えるようになってしまうこともある。石碑という存在が埋没している現代の状況を象徴するために、いちばんわかりやすいのが写真という手段なのではないかと思い、タイトルにも使いました。それでも人間、そして僕はなんらかの目的を持って写真を撮るので、「それでも人は」と続けています。

《変身》より。「僕が巡った石碑はつくられてから100年以内のものがほとんどでしたが、それでも相当風化していたり、壊れていたり、ときには移動していたりする。石碑はつくって終わりではなく、残していく努力が必要なんです。そして、そのためにはしばしば権力が必要になることもあるということを考えると、単純に古いから良いものだとも言い切れない」 撮影=木奥恵三 © Kota Takeuchi, Courtesy of SNOW Contemporary

この展覧会では写真作品《石碑を二度撮る》のみ展示する予定でしたが、紆余曲折あって、訪れた人がひとつずつ持ち帰ることができる、画像と情報が入ったUSB-UDPチップの彫刻を含めて《変身》と題して展示されています。写真だけだと、たんに石碑へのリスペクトを表現しているだけ、(写真を撮ることで、石碑の)「埋没」に手を貸しているだけともとられかねない。でも、結果的にその記録の一部を持って帰れるようになったことで、石碑が忘却されることと、語り継ぐことの、人間社会の両面を提示することになったと思います。見る人には「僕が撮影した」写真である、ということにも目を向けてほしいし、記録の「寿命」というメディアの性質についても考えてもらえれば嬉しいです。

昔ながらの人が拓本をとる代わりに、いまの人はカチカチクリックしている。メディアに付随する手つきや習慣は、儀式や文化につながっていく可能性をもつものです。古いメディアといまのメディアの関係は、いまのメディアと将来のメディアの関係と、きっと相似のものになるから、新旧のメディアを使うことで、未来を想像するきっかけをつくれれば良いなと思います。

──石碑巡りをトレースするプロジェクトの記録であると同時に、メディアの性質に着目した作品でもあるのですね。次に、これまでの竹内さんのキャリアについてお聞きしたいと思います。東京藝術大学の先端芸術表現科を卒業され、現在は福島県を拠点に活動されているということですが、そもそも美術に興味をもったきっかけは?

僕は小さい頃から芸術に関心があったわけではないんです。福岡県の理系大学に通っていた頃、「美術といえば印象派」といったイメージしかなかった。当時、たまたま訪れた福岡県立美術館で中国のアバンギャルド絵画を見て、なんとなく心にひっかかりのようなものができました。美術館に行くのもほとんど初めてで、作品のこともよくわからなかったのですが、とても印象的な体験で、「美術」のイメージが変わりました。

それでも、「芸術とはなんぞや」といったことにはまるで興味がなく、自分に関係あることとは思いもしなかったのですが、クラブでDJをして遊んでいたときに、流行りの曲をかければみんなノってくれるのに、自分がかけたい曲をかけるとフロアから人がいなくなることや、そのバランスをとれる「上手いDJ」との違いなんかが気になっていて。いま思うと、そのあたりで表現する場づくりやその双方向性について、体感的に学んだり、考えたりし始めたように思います。だから、あるとき先端芸術表現科のウェブサイトで当時教授を務めていた川俣正さんの文章を目にして、「学科をつくること自体をプロジェクトととらえる」という考え方に惹かれました。自分が気になっていたことについて勉強できる場所があるのではないかと思い、福岡の大学をやめて受験、入学しました。

藝大では展示の実行委員になったり、イラク戦争を題材にした映画『Little Birds─イラク 戦火の家族たち─』(綿井健陽監督、2005)の上映イベントを企画したり。制作よりもそういった活動に力を入れていた気がしますね。日本全国にインタビューの旅に出てそれをまとめたプロジェクト的な作品をつくったり、議論好きな人の集まりや研究会に顔を出したりもしていました。

竹内公太 ふるさとの合成 2010 ビデオ 54秒
竹内公太 ポータブルマインド、横浜 2008

卒業後は、ビデオ屋さんでアルバイトをしながら、いろいろな映像作品を見たり、好きな海外作家の作品集を翻訳したりして過ごしていました。特に、イタリアのパフォーマンス・アーティスト、ジャンニ・モッティの作品は、必ずしもわかりやすいメッセージやスローガンを打ち出さないのに、ユーモアをもって社会問題にも触れていて、すごく憧れました。2009年に東京国立近代美術館(東京・竹橋)で「ヴィデオを待ちながら」展を見てからは、現代ではYouTubeなどを使ってたくさんの人が画像や映像を発信できるけれど、その人たちも昔からのビデオや写真というメディアのありかたにコントロールされている部分が大きいのではないかと感じるようになり、メディアそれ自体について考えるようになりました。

「写真は石碑を石にする、それでも人は」展出品作のひとつ。「写実主義の画家・クールベが洞窟の前で自撮り棒を使ったら……」という設定の「セルフィー」《セルフィー・イン・サブライム – 洞窟》(2016)と、ある研究施設を見学した際の自身のセルフィー《セルフィー・イン・サブライム – HADES》(2016)を併置。取材しながら作品をつくるが、ニュートラルな記録ではなく、「誰が何を見るか」を意識的にパフォーマティブに演出しているという 撮影=木奥恵三 © Kota Takeuchi, Courtesy of SNOW Contemporary

──2011年の東日本大震災後に福島県に移り、一時は東京電力福島第一原発の作業員として勤務されました。発電所内のライブカメラの前に立ち、カメラを指差し続ける姿が話題となった「指差し作業員」の「代理人」として活動するほか、ブロガーとして東京電力の記者会見にも出席しています。どうして福島第一原発と関わることになったのでしょうか。


個展「公然の秘密」(SNOW Contemporary、2012)の展示風景 撮影=土田祐介 ©Kota Takeuchi, Courtesy of SNOW Contemporary
「指差し作業員」の映像。個展「Memory Bug」(Arts Catalyst 、ロンドン、2016)での展示風景 © Finger Pointing Worker

東日本大震災が起きたとき、自分にはどのような支援の仕方ができるか考えて、藝大の知り合いで陸前高田市でボランティアをやりながら記録活動をしていた、瀬尾夏美さんと小森はるかさんに連絡して寄付を申し出ました。そしたら2人に「そのお金で東北を見に来てください」と言われ、ボランティアに行くことに決めました。泥かきなどに協力した後、東京電力福島第一原発の作業員として短期間働くことにしました。これは金銭的な事情もありますが、当時東京や被災地から離れた地域で「いま私たちに何ができるのか」や「原発の実態」という議論をすることに対して、少しシニカルに見る気持ちも入り混じってはいました。

原発では、掃除や備品調達、扉の管理などの後方支援的な仕事を担当しました。いざ働き始めると、待遇への不満が募る時期もありました。そんななかで出てきたのが「指差し作業員」さんです。彼は「活動家」として取り上げられることも多いけれど、あれはビデオアートの文脈にのっとった表現ともいえるし、さまざまな解釈ができます。「いいねやRTの数を見て悦に入ってるだけだ」という批判を先読みして、それを彼のウェブサイトで自嘲的に取り上げていて、ヴィト・アコンチやブルース・ナウマンなど初期のビデオアートに対する反応と興味深い連関を持っているように思います。僕にはそれが、震災後ネットの一部で湧き起こった、議論とも呼べない口げんかにまつわる承認欲求への意趣返しのように見えたりもして。彼はそういった多義性を意識してやっていたそうなのに、それがうまく伝わらないのは気の毒だと思って、作業員を辞めた後、僕が「代理人」となって「公然の秘密」展(SNOW Contemporary、2012)で紹介することにしました。

それから、ブロガーとして参加した東京電力の記者会見は、ボトムアップの要求が通しにくい環境へのアプローチでもあり、元作業員として素朴な疑問を聞きたいという動機がありました。請負契約と労働環境に関する問題は、本来社会のなかで共有しやすいものだから、一般的な労働問題の延長線上として、もっと広く考えられるはずなのに……という思いもあって。実際に、全体から見れば小さなことですが、このときのはたらきかけで改善していただけた部分もありました。原発作業員の仕事は普通にハローワークでも募集しているし、すごく特殊な職業というわけでもないと思います。僕自身の政治的な活動に対する関心も、働くことも、自分の身の周りのことに関する単なる個人的な発露だと思っています。自分の質問へ一通りの回答がもらえて、2011年11月にメディアの公式取材が実現したので、その後まもなく記者会見に行くのはやめました。

──「代理人」としての展覧会開催、記者として記者会見への出席など、自分自身として作品をつくるだけでない「代理性」も竹内さんの活動に特徴的な点だと感じました。その後は、いわき市に拠点を移し、展覧会も開催されています。

竹内公太 三凾座の解体 2013 ビデオインスタレーション

いわき市の常磐湯本町にある、明治時代につくられた劇場「三凾座(みはこざ)」の再活用運動「三凾座リバースプロジェクト」の実行委員長である檜山直美さんが「公然の秘密」を見に来てくださり、三凾座を題材にした作品制作のお話をいただきました。それで制作したのが《三凾座の解体》(2013)です。スクリーンの前に置かれた長椅子に腰かけた鑑賞者は、三凾座の中から解体の様子を眺めている感覚を体験できます。建物が崩れていくとともに、映像にも光が入ってきて、画面がだんだん真っ白になり、映像に映っていた鑑賞者の姿も消えていく。鑑賞者が、取り壊しが決まった建物の終焉を悼む時間を過ごせるようなインスタレーション作品を目指しました。

いわきに住むようになったのは、もともとどこにも定住するあてもなかったので、そのとき取材する対象がある場所にいたいと思ったからです。家の周りに常磐炭田の遺産が多くあり、それを見て回っている人たちに付いて歩いて、いろいろな話を聞かせてもらうようになったことは、石碑巡りを始めるきっかけのひとつでもありました。それを初めて作品に落とし込んだのが、石碑の文字を1文字ずつ借りて文章を構成する映像作品《ブックマーク》(2013-15)。2013年に武蔵野美術大学の元教授・森豪男先生の私設ギャラリーである森美術館(福島・いわき)で開催した個展「影を食う光」で《三凾座の解体》と一緒に発表しました。

《ブックマーク》(2013-15)の展示風景。複数の石碑の文字をひとつずつ撮影して「我たシは石碑で無イケレど」という文をつくる 撮影=木奥恵三

 

──帰還困難区域で行われている展覧会「Don’t Follow the Wind(DFW)」(*)の実行委員を務め、作品も出品されています。これまでも福島県を拠点に活動を行ってきた立場から、どのような心持ちで関わっているのでしょうか。

「DFW」はChim↑Pomが発案したプロジェクトですが、僕が「実行委員」として関わる以上は、不手際があったときに自分がそれを背負う気持ちで関わらなければいけないと思います。「DFW」は事実関係をしっかりと確認しないと危険なプロジェクト。事実でないことを事実のように、科学でないことを科学のように語ってしまったらいけない。原発事故関連では、僕ら以外にもいろいろな団体や活動がありますが、「DFW」は(個別のアーティストの作品はともかく、展覧会としては)単指向的な政治的目標のためにあるのではなく、事故によってもたらされた現状について様々な視点から考える場をつくるためにやっている、と僕は思っています。手を広げすぎず、協力者との信頼関係を大事に、とにかく「維持」を第一に考えて尽力してきて、なんとかクラッシュせずにここまできています。それでもまだ、たったの2年しか経っていないけど。

僕が設置した作品は《タイムトラベラーズ》(2015-)。帰還困難区域のある住宅内に散らばっていた服をお借りして、それを着て撮ったポートレイトを、等身大に引き延ばしてその場所に置いています。「DFW」は立ち入り禁止区域の指定が解除されたときに初めて入場して実物の作品を見ることが可能になる、タイムスパンの長い企画なので、未来の人の目線を意識してつくった作品です。この作品はこれからも数を増やしていきたいと思っています。

──《三凾座の解体》も過去の解体作業の記録映像ながら、見ている人にとっては「いまの出来事」でもあり、《タイムトラベラーズ》と同様に「時間の旅」を意識した作品となっています。メディアそのものを扱うだけでなく、そのメディアの時間を往還するような表現へと展開していると感じました。最後に、今後はどういった活動をしていきたいですか。

ロンドンでの個展「Memory Bug」(Arts Catalyst、2016) で展示された《消えたマガモを追う》(2016-)。フリックスボローの化学工場爆発事故(1974)の記念彫刻の再現作品。オリジナルの彫刻は事故から10年目の元旦に何者かによって盗まれた ©Kota Takeuchi

福島県を拠点にしていると、海外や遠方から訪ねてくる人と会う機会があり、そういう人を立入可能な避難区域周辺へ案内したりしています。最近はそうやって出会った人に逆にお誘いいただいて、ロンドンでは滞在制作と展覧会を行ったりもしました。これからは、そうして得たつながりを頼りにして、制作につなげていきたいと考えています。福島の原子力災害について、強制避難という事態はもとより、何が誤解や軋轢を生んでいるのかも含めてこの現況を考えるためには、原子力についての表現の歴史的な経緯や、「post-truth」と呼ばれる政治状況を分析する必要性を感じています。

例えば、第二次世界大戦で日本軍が使った気球型の「風船爆弾」によって、原子爆弾用のプルトニウムをつくっていたアメリカの核施設群「ハンフォード・サイト」で停電が発生したという話があります。その「ハンフォード・サイト」は、近年は土地の除染作業をやっていたりするし、この地で活動した芸術家の話も聞く。風船爆弾の放球基地は現在のいわき市や北茨城市などにありました。そういった、原子力や日本の歴史に関わりのある場所を訪ね、対話を重ねながら、アプローチする方法を考えていきたいです。

* 東京電力福島第一原発付近の帰還困難区域を舞台に、2015年3月11日より行われているプロジェクト。避難中の人々が住んでいた場所などを借りて作品が設置されており、立ち入りが可能になったときに初めて作品を見ることが可能になる。アイ・ウェイウェイ、小泉明郎、タリン・サイモン、宮永愛子ら12組が参加。発案者はChim↑Pom(アーティスト)。実行委員会はChim↑Pomのほか、窪田研二(キュレーター、筑波大学准教授)、椹木野衣(美術批評家、多摩美術大学教授)、竹内公太(アーティスト)、藤城里香(無人島プロダクション代表)、緑川雄太郎(アートディレクター)、山本裕子(山本現代代表)で構成。

《変身》より 094p245 米軍用機遭難追悼碑 (左:竹内公太撮影 右:斎藤伊知郎撮影)

PROFILE
たけうち・こうた 1982年兵庫県生まれ、2008年東京藝術大学美術学部先端芸術表現科卒業。現在、福島県を拠点に活動する。主な個展に「影を食う光」(森美術館、福島、2013)「公然の秘密」(SNOW Contemporary、東京、2012)、グループ展に「PERFECTUAL UNCERTAINTY」(Buidmuseet、スウェーデン、2016)「MOTコレクション After images of tomorrow」(東京都現代美術館、2013)など。「指差し作業員」代理人。