──近年のアート・ドキュメンタリー映画のなかでも3本の指に入る傑作だと思います。この映画を撮ろうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?
最初はサウジアラビア皇太子のテレビ用ドキュメンタリーを撮っていたのです。取材を続けるうちに、彼が2017年に巨額の大金を払って《サルバトール・ムンディ》を買ったということがわかった。そのときの私には、皇太子と絵画という2つのイメージがつながりませんでした。私は地政学的な観点でそのドキュメンタリーを撮っていたので、絵画という意外性に興味を持ったのです。
アートマーケットの人々に《サルバトール・ムンディ》の話を聞いて回ると、皆がルーヴル美術館の「ダ・ヴィンチ展」(2019〜2020)で《サルバトール・ムンディ》が展示されるかどうかに興味を持っていました。そこからさらに深堀りすると、ルーヴル美術館が(サウジアラビアとの)政治的な関係性を理由に作品の帰属について下手なことを言えず、国家機密状態になってることもわかり、私の好奇心はさらに強くなったのです。
──クリスティーズでの落札がきっかけではなかったのですね。
正直なところ、オークションでの最高額落札というのは、私の耳にはまったく入ってこなかったんです。サウジ皇太子のドキュメンタリーを撮るうちに知ったということになります。
──本作は《サルバトール・ムンディ》を「発見」した美術商やそれを買おうとする大富豪、大富豪のアートアドバイザー、美術史家、美術館関係者、そしてオークション関係者など、じつに登場人物が多彩です。ここまで多角的に《サルバトール・ムンディ》に迫ったドキュメンタリーはありません。
おっしゃるとおりです。多くの人物が登場するドキュメンタリー映画にしたかったというのはポイントのひとつですね。感性も、求める利益も違う人々が、一枚の絵を通してつながり衝突しているのは、グローバル化が進んだ現代を反映していると思います。
「絵」という同じ興味に対して多くの背景が異なる人々が集まることはグローバリゼーションによって実現する良い点だと思いますが、時にそれは逸脱してしまう。つまり、お金のことです。芸術作品でありながらそれを投機的な対象として扱う不誠実な人々も出てくる。この作品を通して、グローバリゼーションの限界というのも見えてくると思います。
──アート界の住人たちのなかには、金銭的なことになると口を閉ざす人も多いと思います。取材においては苦労しませんでしたか?
それほど苦労はなかったですね。というのも、《サルバトール・ムンディ》をめぐる話は尋常ではないことなので、そこに自分が登場人物として関わっていることを誇らしく思う人が多かったのです(笑)。自分の考えが否定されているから擁護したい人、あるいは他者を批判したい人など、それぞれが目的を持って取材に応じてくれましたよ。アートの世界ではお金のことについては口が堅いかもしれませんが、《サルバトール・ムンディ》は世界最高額作品なので話さずにはいられないのでしょう。
510億円という「価格」が絵画のアイデンティティになってしまったのは悲しいことでもありますが、その価値は作品の帰属によって大きく揺らいでしまいます。作品を高く売ろうと思ったら、美術商はダ・ヴィンチ作だということにしたい。そしてその価値を決めたのがマーケットです。結局はマーケットこそが真実だという結末になってしまった。
──映画のなかで、ニューヨーク・タイムズのジャーナリストがアート界を「いかがわしい闇の王国」だと評していましたね。本作の撮影を通して、監督の目にアート界をどのように映りましたか?
アートの世界は広く、クリエーション、美術館、ギャラリーなど、様々な要素がありますが、恐らくいまのご質問にあった「アート界」とはアートマーケットのことですよね。美術作品に対して価値をつけることで、現代/古典にかかわらずお金が動くし、作品を売らないと作家も生きていけません。だからアートマーケットが存在していることは当たり前だと思いますが、投機的な目的が生まれてくるのが現代の特徴だと思います。そこにいまのグローバルな世界が露呈している。つまり、豊かな者はより豊かに、ということですね。とくに現代アートには途方もない値段が付けられ、投機対象になっています。
最近、ダミアン・ハーストの展覧会に行ったのですが、完売を見込んで107枚の作品をつくったというのです。そうなるともはやアーティストが描いたのではなく、商売人が描いたということになるのではないでしょうか。アートの世界は経済に密接にリンクしており、作品が高額になること自体に異議を申し立てるつもりはありませんが、投機的な動きがあり、格差を生み、また政治的な駆け引きの材料になっていることは事実です。私はそこに焦点を当てたかったのです。
──映画は登場人物たちの言葉を淡々と(しかしドラマチックに)紡いで構成されています。そのなかでは、《サルバトール・ムンディ》を「ダ・ヴィンチ作」として展示したロンドン・ナショナル・ギャラリーのキュレーター、ルーク・サイモンのインタビューが際立っていました。彼はその帰属の真正性や美術館の責任について言いよどんでいましたね。
私自身、この作品でアートの経済的な側面だけでなく、「真実を語ることの難しさ」を描きたかったのです。あのキュレーターのためらった様子は、真実を語ることの難しさを示していると思います。彼は《サルバトール・ムンディ》をダ・ヴィンチ作だと断定したのはやや軽率だったかもしれないという見方もしています。でも、私のなかでもっと驚いたのは、《サルバトール・ムンディ》がダ・ヴィンチ作かそうでないかという真相を観客に委ねると彼が言い出したことですね。エキスパートたちが客観的な立場で価値を判断するのではなく、大衆に委ねるというのは役割の放棄でもあるし、非常に現代的だと思いました。
──作中、フランス国立美術館連合のクリス・デルコンは、《サルバトール・ムンディ》の帰属について公の場で議論すべきだと主張しています。監督はどう思いますか?
彼の言っていることは正しいですね。あの絵はサウジアラビアで展示され、そこでもう一度エキスパートによる議論がなされるべきだと思います。あの絵がどこに帰属するかというのはエキスパート泣かせですが、一度決まったことが覆されることはよくあります。オックスフォード大学の美術史家マシュー・ランドラスも劇中で語っていますが、《サルバトール・ムンディ》についてはダ・ヴィンチひとりで描いたのか、弟子が描いたのかなど、真実が断定できていません。もっと客観的に話し合いがなされるべきでした。しかしながら、そうした芸術的かつ科学的な検証をする前に、作品が外交的、政治的な問題に絡んでしまった。サウジアラビアの皇太子によって「ダ・ヴィンチ作」とするよう、圧力があったからです。
──監督自身は《サルバトール・ムンディ》の帰属についてどう考えますか?
私はダ・ヴィンチの工房が関わったのは間違いないと思います。
──《サルバトール・ムンディ》は未だに一般公開の目処が立っていません。今後もその行方を追っていくお考えですか?
絵画がこれからどのような運命をたどるかによりますね。おそらく一般公開されると思いますが、その後の展開によってはもちろん続編を撮る、という選択肢もあります。