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2020.5.21

絵画における主題、そして演劇性と物質性の探求。サーニャ・カンタロフスキーインタビュー

モスクワ出身でニューヨークを拠点に世界的に活躍するサーニャ・カンタロフスキーは、絵画のみならず、多様なメディアを用いながら、絵画や彫刻の可視性の実験を行ってきた。アジア圏での初個展となる「Paradise」展のために来日した作家に、本展で発表された新作の木版画や絵画作品について、また作品をめぐる思索について話を聞いた。

文=島田浩太朗

タカ・イシイギャラリー東京にて 撮影=高見知香
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 絵画だけでなく、映像、アニメーション、彫刻、デザインなど、多様なメディアを用いつつ、心身ともに苦悩する人物をモチーフに描くスタイルで知られるサーニャ・カンタロフスキー。近年はクンストハレ・バーゼル(2018)、サンドレット・レ・レバウデンゴ財団現代美術館(トリノ、2017〜18)などで個展を開催。さらにバルティック・トリエンナーレ3(ビリニュス、2018)への参加など、国際舞台での注目を集める。今回、カンタロフスキーは、日光の輪王寺社寺境内に建つアントニン・レーモンド設計(吉村順三担当)によるモダニズム建築、トレッドソン別邸に1ヶ月間滞在制作したインクと水彩による素描シリーズをもとにした木版画(制作はアダチ版画研究所)と絵画を発表した。

 「展覧会タイトル”パラダイス”は、ある意味で作品の延長に位置づけることができます。主題とイメージは、もともと互いに二重のもつれをはらんでいて、ダブルテイクする(二度見する)ようなもので、無意識的に多様な意味を持ち合わせる可能性を秘めています。例えば、潜在的に無邪気なもの、暴力的なもの、醜いもの、美しいもの、邪悪なもの、永続性のあるものなど、作品に含まれる多様な言語をタイトルに込めています。私にとって“パラダイス”は、死後の生活を含む連想のようなものです。また、大抵の場合、私の作品に物語はありません。それは一連の問いであり、そしてより複雑な課題でさえあります。私は作家や詩人ではなく、画家です。絵画は非言語的なメディアであり、一度、自分の手元を離れると、もともと心のなかでかたちづくられていたもの、意図していたものに反して、多様な意味が独立して生まれてくることがありますが、とても美しいことだと思います」。

Woe to Wit II  2019 キャンバスに油彩、水彩 215.9×165.1cm

絵画におけるイメージの演劇性と物質性

 歌川国芳や月岡芳年、ゴヤなど、東西の19世紀古典絵画の伝統を参 照するカンタロフスキーは、大人から不当で抑圧的な扱いを受ける子供、背後に迫る悲惨な出来事のすぐ側で平然と果物の皮を剥き続ける女性、ホステスのスカートの中に群がる男たちの滑稽で無防備な後ろ姿、浜辺の惨劇を無関心に見つめる海鳥など、不穏なイメージによって現代を風刺する。こうした作品の主題や登場人物、物語性はどこから生まれるのだろうか。

 「私は“生きた経験”を率直に描くようにしています。基本的にやりたいことはなんでもやれるように、つねに十分な自由度を確保できるよう努力しています。とりわけ国吉や芳年、あるいはゴヤやボードレールが私を感動させるのは、作品のなかに絶え間なく続く欲望が描かれているからです。彼らの作品は、かなり暴力的で、不公平な、苦しみのある、偽善的で、矛盾した世界に生きることに意味を与えようと強く望んでいて、死の恐怖をそのまま提示するかのようです。また浮世絵には、その民主的な性格のおかけで独特の形式があり、無数の人間が目にするこの大衆向けの媒体を通じて世界に何か痕跡を残したいという、“免れえない死への恐怖”が内包されています。作品に含まれる物語性は、例えば、誰かと出会った記憶、心地の良い記憶、何か奇妙なことをする見知らぬ人に会った経験のような、私たちの日常生活のなかでしばしば起きる出来事の典型と考えることもできます。それらは、いわば日々取られたメモのようなもので、最終的にその記録は作品の主題として具現化されます。描かれた人物は誰なのか、多くの人から尋ねられることがありますが、彼らは特定の人物ではなくあくまでも主題です。彼らは絵画が存在するための“絵画の骨組み”であり、また“主題の典型”でもあるのです」。

Hostess 2019 キャンバスに油彩、水彩 190.5×139.7cm

 カンタロフスキーが画面上に描き出す、ある瞬間を誇張した演劇的なイメージ群は、作品の主題と登場人物、場面の設定だけでなく、図と地、輪郭線の動き、透明性と不透明性、抽象と具象のあいだの複層的構成など、色とかたちの探究をめぐる、いわば伝統的な絵画的主題と現代的な主題の衝突、干渉と重ね合わせ、振動とせめぎ合いのなかでつくり出される。本展のために彼が参照した日本の浮世絵にかぎらず、西欧でもベラスケス、クールベ、マネ、ゴーギャン、マティスなど、絵画におけるイメージの演劇性、パフォーマティヴィティを探究した作家は多い。

 「私はいつも絵画を自分にとって不慣れなところへと追い込もうとしますが、それこそが成功の瞬間で、まさに自分自身から引き離されるような感覚が生じます。私自身のパフォーマティヴィティ、あるいは作品におけるテクストとイメージの相互作用的なパフォーマティヴな側面は、絵画史が慎重に扱ってきた不安にあるのではないでしょうか。それは不安を描くという衝動、また不安を描く歴史に加わる衝動を解き明かすことです。このテーマは多くの時代で同じように存在したため、過去を参照することができます。例えば、ゴヤの絵画を見たとき、明らかに、その絵画やモチーフに不安を感じ取ることができます。画家と絵画のあいだのそれは、繰り返し描かれてきました。歴史的空間と感情的空間の、狂気じみた変遷の断続性とでもいいましょう か、私はその連続性の何かに取り憑かれてていて、自分もその一部であることを自覚しています。私が興味を抱くのは擬態や描写、錯覚に頼る絵画ではなく、その表面と物質性です。絵画はイメージに覆われることで表面を消失してしまいます。写真も同様ですが、絵画がパフォーマティヴでない理由はそこにあると思います。絵画はイメージではなく、物質であるべきです」。

混沌渦巻く旧ソ連から新天地ニューヨークへ

 1991年8月、モスクワでクーデターが発生。同年12月、ソビエト連邦崩壊。翌年2月、当時10歳のカンタロフスキーは、家族でモスクワからニューヨークへ移住し、人生の大きな転機を迎えた。当時のモスクワの状況について、「児童たちが一斉に制服を脱ぎ捨て、テレビでは初めてのコマーシャルが流れ、街には大量のアメリカ製品が出回り始めた」と述懐する。まさに歴史が劇的に動く瞬間に居合わせたカンタロフスキーは、急激な環境変化のなかで、どのような時間を過ごしたのか。

Woe to Wit 2019 和紙に木版画 47×33cm

 「私は幸運でした。というのも、母と祖父母に育てられたのですが、彼らは美術と文学を愛する人たちだったからです。つねに美術や本とともに育ちました。かなり早い段階から絵を描き始めましたが、私のドローイングは一般的なものではなく、家族もそれに気づいていました。やがて美術館に通い始めます。昔通った学校のひとつがプーシキン美術館のすぐ裏側にあって、まだ少年だった頃、そこは第2の家でした。10歳になるまでモスクワで育ち、その後、アメリカに移住しましたが、美術の勉強は続け、美大に進学しました。デザインの学校にも通いました。当時、60〜70年代の抽象画の系譜にある先生がいて、彼の授業はとても人気がありました。ほかの生徒たちは彼に心酔していましたが、私はクライアントに求められるイメージを生み出すデザインの仕事以上のことに興味があると気づきました。その時、私は明らかに“絵画の虜”になっていました。その後、絵画を学ぶために大学院に行きましたが、当時はまだ自分に何ができるのか理解していませんでした」。

 大学進学後、彼は進路について、画家と商業イラストレーターのあいだで悩むが、ある先生から「君は画家だ。イラストレーターではない」と言われたことをきっかけに、画家の道に進むことを決断する。 20歳前後には、交換留学でローマに1年半ほど滞在し、カラヴァッジョなど巨匠たちから大きな影響を受けた。さらに大学院は西海岸のカリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学するなど、カンタロフスキーは人生における多感な時期に世界各地を転々とすることで、絵画を中心に多様な思想や表現に出会い、時には時空を超えて、先輩画家たちから多くを学んだ。

制度化された美術史に対する問題意識

 ところで、なぜ彼は描くのか。また、自身の作品と芸術史や思想史との関係性について、どのような問題意識を持ち、制作に取り組むのか。

 「愛されたい、評価されたい、描くことを愛している、絵画を愛して いるなどいろいろありますが、シンプルな答えはそれが好きだから、でしょうか。私はこれまでにかなり多くの芸術理論や著作集、そして哲学に向き合う経験をしてきましたが、“制度化された美術史”に興味はありません。それはまさに嘘と矛盾に溢れていると思います。実際、アーティストとその格言──いかに物事が進むべきか、どこに向かうべきかということに関する統一見解のような──に対して、より大きな関心を抱きます。また、いま美大で学生たちに教える際、学生たちがアカデミックな約束事に傾倒し、頭のなかを理論に占拠されてしまわないように気を配っています。絵画を体系化して説明しようとする試みは、私にはすべて失敗しているように見えます。実際の作品と向き合うことに勝る経験はありません。もちろん、歴史的・理論的な見方は面白いと思いますが、意識的に自分の作品を分類しようとすることはありません」。

タカ・イシイギャラリー東京での「Paradise」 展示風景 Photo by Kenji Takahashi Courtesy of Taka Ishii Gallery

 近年、アーティストがもうひとつの表現手段として展覧会を企画する機会が増えているが、カンタロフスキーもその例外ではない。2017年には展覧会「スパッタランス(作家ルネ・ダニエルの詩に由来。「sputter(口ごもる)」と「utteranc(言葉を発する)」という2つの相反する行為を組み合わせた造語)」(メトロ・ピクチャーズ、ニューヨーク)を企画した。現在は、絵画を1点も含まない、映像と写真を中心とした「ポスト・クラウド」に関する展覧会を準備しているという。自身が画家であることに誇りを持ち、それを強調する彼が、なぜ展覧会をキュレーションするのだろうか。

 「アメリカではいま、政治権力など世界的なモラルの崩壊に対する反応として、コミュニケーションに関する教訓的な展覧会が数多く開催されていますが、私の企画するものは、必ずしもそうした主題に関するものであるべきとは考えていません。本当に価値のある人々や声を取り上げたいと思っています。私にとって、キュレーションとは物事を通して考えることの拡張であり、物事を詳細に分析することです。 例えば、スパッタランス展は、とりわけ絵画に焦点をあてた展覧会で、19世紀末の世紀の変わり目の時代の作家、1960年代の作家、現在の作家たちのあいだに、強い親和性を見出すことができました。私にとって展覧会を企画することは、作品を通して何かを記述する行為に近いです。また、自分の企画に自作を展示することはありません。展覧会を企画するという行為は、私自身を、一作家あるいは一作品として文脈化するためではなく、私がそのときに興味のある作品について、深く考えるための機会なのです」。

 いま画家であること──ミクストメディアによるインスタレーションが主流の今日的状況のなかで、カンタロフスキーが“画家として”ブレずにいられるのは、同時代の社会に対するまなざし、絶え間ない人間観察、そして古典を参照しつつ弁証法的に新しい表現を模索する姿勢にある。そうしたプロセスを経て見出された選りすぐりの役者たちを題材に、アーティスティックな脚本家・監督を務めるだけでなく、歴史的・批評的な視点を持つ演出家もこなす彼の今後の展開に注目したい。

『美術手帖』2020年6月号「ARTIST PICK UP」より)