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南條史生が振り返る、森美術館館長としての13年と日本のアートシーン。「それでも現代美術しかない」

2019年12月末で森美術館館長を退任した南條史生。2006年よりこの美術館を率いてきた南條が、13年間の森美術館と日本美術界を振り返る。

聞き手=編集部 ポートレート撮影=稲葉真

南條史生

日本でも屈指の集客力を誇る、東京・六本木の森美術館。この美術館で2002年から副館長、06年から館長を務めた南條史生が、19年末を以て退任した。「医学と芸術展」(2009)、「メタボリズムの未来都市展」(2011)、「宇宙と芸術展」(2016)、「未来と芸術展」(2019)といった多数の展覧会を手がけてきた南條は、この17年間をどう振り返るのか?

「現代美術は面白い」という空気はつくれた

──南條さんは2002年に森美術館の副館長に就任し、06年から館長を務められました。この美術館に在籍されていた長い時間を振り返ってみて、何が残せたと思いますか?

 いろんなことをやってきたけど、「目に見える部分」と「見えない部分」があって、僕自身としては後者の見えない部分への貢献が大きかったんじゃないかっていう気はしてるんですよね。

 まず「目に見える部分」=世の中の変化として「現代美術は面白そうだな」っていう空気はつくれたんじゃないかなと思います。

南條史生

 ひとつの例ですが、中堅の作家を、一般の人に見えるように可視化することをやりましたね。「面白そうだな」「見てみたいな」と思わせるような広報をしていくことによって、現代美術でも多くの人が見に来るわけです。

 例えば、レアンドロ・エルリッヒ(「レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル」2017-18)。私はシンガポール・ビエンナーレ(2008)で紹介して以来、面白い作家だなと思っていました。アートファンだって、最近「大地の芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」で見ているでしょう。でもそれを東京の真ん中で大規模な個展として紹介すれば、インパクトは違う。多くの人に面白さが伝わる。

「レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル」より《建物》 2004/17

 今年開催した塩田千春も現代美術のアーティストですが、一般の人にそんなに広く知られていたわけではなかった。しかし、その強烈なイメージが、SNSなどを通じて、一般の人たちに広がって、歴代2位の入場者数(66万6271人)になった。そういうふうに考えると、森美術館は現代美術を楽しく、面白いもの、クールで知っている方がかっこいいもの、という印象を与えながら、誰にでもアクセシブルにしてきたとも言える。

不確かな旅 2016/19 鉄枠、赤毛糸 サイズ可変 Courtesyof Blain|Southern, London/Berlin/New York 「塩田千春展:魂がふるえる」(森美術館、東京、2019)での展示風景 撮影=Sunhi Mang 画像提供=森美術館

 別の言い方をすると、「現代美術はファッショナブルだ」という雰囲気をつくって、美術館のミッションである「アート&ライフ」の方向に社会を進めたのではないでしょうか。いつでも生活のなかでアートを楽しめるような社会、文化を生み出すことに貢献した。

 それは、東京のど真ん中のビルの上にあるこの森美術館だからこそできたんだとも思うんです。それには展覧会のラインアップがすごく重要だった。ある側面はオタクっぽくて、ある側面はジャーナリスティックで、ある側面は博物館的で......そういういろんな側面を見せながら、違うマーケットに訴求していった。でもそのコアにはいつも現代美術がある。

 例えば、地域にフォーカスした展覧会はしばしばジャーナリスティックな側面も持ち、「アラブ・エクスプレス展」(2012)なんかはすごくタイミングが良かったと思います。というのはあの展覧会は「アラブの春」が始まって、これからアラブ圏が民主化するぞという期待が満ちている時に開催することになった。でもシリア問題が起こる前だったので、紛争のイメージはまだなかった。そのほんの数年間の良いタイミングの時だったから、楽観的な気分でアラブの現代美術が見られたわけです。つまりあれより数年前でも数年後でもあの展覧会はできなかった。

 ほかにもインドや中国など、あまり知らないエリアの現代美術を紹介することによって、その土地や地域についての新鮮なイメージや知識を提供することができた。

 いっぽう、美術館という概念の拡張につながる新しい路線として僕がつくったのは「医学と芸術展」や「未来と芸術展」などの学際的(インターディシプリナリー)な展覧会です。これは、現代美術というものの文脈のとらえ直し、あるいは拡張につながるし、美術館そのもの定義の再考にもつながる。現代美術というジャンル分けの意味は何か、現代美術が博物学的な資料や科学技術の最先端の事例などと一緒に展示されたとき、現代美術はどういう意味を持つのかと。

「医学と芸術展:生命(いのち)と愛の未来を探る」(2009-2010)展示風景 撮影=渡邉修 画像提供=森美術館

 僕は若い頃、アジアや中東の古代遺跡を旅して回っていたので、そういう考古学的な長い時間の遠近のなかで現代美術を見ていくことを最初からやっていたような気がします。その意味では、現代美術の文脈を見直し、美術館概念の定義を広げたっていう側面はあるんじゃないかと思いますね。でもそのことの意味は、15年ぐらい後で理解されることかもしれない。

 個展にしてもアジアの作家、日本の作家、それ以外のエリアの作家をそれぞれ1/3程度のバランスでやってきました。アジアと日本の作家だけにするとそれはアジア美術の美術館という島宇宙になるので、それではいけない。やっぱり外の広い世界に開いていくべきだろうと。でもアジアと日本を重視することによって、この美術館の場所的なアイデンティティは明確化しているわけです。

 普通、欧米の美術館はコレクションによってアイデンティティが明確になります。でもこの美術館はもともとそんなにコレクションを持ってスタートしていません。だからコレクションというより、プログラミングの流れ──3年から5年のスパンで見たときにどのような美術館かがわかってくる、というやり方をしてきたのです。プログラミングの総体によって「世界の中のアジアにあり、その極東に位置する日本の美術館」っていう立場がはっきり出てくる。プログラムが美術館のアイデンティティを明確にしたとも言える。

「宇宙と芸術展:かぐや姫、ダ・ヴィンチ、チームラボ」(2016-2017)展示風景 撮影=木奥恵三 画像提供=森美術館

日本の美術館も安穏としてはいられない

──そうした試みは、実際に入場者数にも表れていますね。いっぽうで冒頭に仰った「見えない部分」というのは?

  例えば、まあ皆さん気がついていないかもしれないけど、美術館で最初に撮影を許可する方向に振ったのは森美術館でしたよね。あれは、新しい著作権システム「クリエイティブ・コモンズ」の導入によって可能にしたわけですが、そのために、これを創案した米国の法学者、ローレンス・レッシグ氏を招聘して、クリエイティブ・コモンズの仕組みや実例などの話をしてもらうなど、検証もしっかりやったわけです。

 そして、アーティストには、この新しい著作権システムを用いれば大丈夫だから撮影を許可しましょう、という話をした。最初はアイ・ウェイウェイ(「アイ・ウェイウェイ展─何に因って?」2009)でした。そういうかたちで、美術館と観客のあり方を変えて、いまでは、その考え方はほかの美術館にも広まっていますね。

 また「会田誠展:天才でごめんなさい」(2012-13)のとき、猥褻問題と著作権問題が起こりました。そこで我々は、美術館は実験的な表現の場であり、そこではできるかぎり「表現の自由」を守っていくというメッセージも発信しました。

「会田誠展:天才でごめんなさい」(2012−2013)展示風景 撮影=渡邉修 画像提供=森美術館 Courtesy Mizuma Art Gallery 
「会田誠展:天才でごめんなさい」(2012−2013)展示風景 撮影=渡邉修 画像提供=森美術館 Courtesy Mizuma Art Gallery 

──「表現の自由」と言えば、今年は「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由展・その後」展示中止で美術界が大きく揺れました。

 あいちトリエンナーレが残した一番大きな問題は、日本は検閲がある国なんだと世界中に思わせてしまったことです。そうなると、これから開催される「ヨコハマトリエンナーレ2020」やその他の芸術祭が全部その色眼鏡で見られる。例えば、海外の作家は日本の芸術祭に招待されたけど、参加したら何かしら政治的な視点とか、自分には理解できないような理由で検閲され、裁かれるのかなと思ってしまう。それが一番大きな損失です。国際的信用、とくに欧米の自由主義、民主主義諸国からの信頼が損なわれてしまった。

──日本の文化政策やアートマーケットについてもお聞きしたいと思います。日本はほかの先進国と比較するとやや変化のスピードが遅いと感じますが、いかがでしょうか?

 最近、日本のアートマーケットがほかの経済大国のなかで異例に脆弱なんだという認識が生まれてきましたね。「なんとかしなきゃいけない」と、国も政策に乗り出している。まだ有効な策は示されていないけれど、そのような認識を政府が持つに至ったというのはとても大きな変化です。これがいい方向に行けばいいなと思います。

 ただそのためには、本腰を入れてロビー活動するような美術の専門家と、にわか勉強じゃない政治家が必要なわけです。2018年に文化庁による「先進美術館構想」が炎上しましたよね。(構想の中では)美術館が使わない所蔵品を売るという構図が描かれていましたが、これでは根本的に美術業界の構造がわかっていないということになる。美術館の役割は作品を評価することです。その評価は展覧会と購入という行為で表現されます。美術館機能を強化したければ、もっと展覧会と購入の予算を増やすのが一番いい。作品を売る仕事はギャラリーやオークションです。その分業ができていることが重要です。両者の間に線引きがあるからこそ、美術館の評価行為は信用が高いことになる。

南條史生

──美術館の作品売却については、マーケットが強大なアメリカでさえ、その目的に制約(コレクションの再構築などに限る)があります。日本の文化政策についてはどう思われますか?

 現在の政権では「文化を観光資源、地域振興資源にする」という基本的な考え方が感じられますよね。それ自体は否定する必要はないと思います。文化財もいままでは保護することだけに専心し、PRや利活用ができていない。やはり素晴らしい美術品が沢山在るなら、モナリザやゲルニカのように、美術館の資産、國の文化資源として可視化して、この国の文化の厚みを象徴するものとして内外に広報し、活用するべきだと思うんですよ。そういう流れのなかで、日本の文化・芸術業界をどうやって活性化するかという課題が、いま目の前にある。それがある程度可視化されてきた時代ではあったと思います。

──いっぽうで中国やシンガポールなどはすでに文化に対して相当力を入れていますね。とくに中国では新しい美術館が次々と誕生し、香港にはM+もオープンします。

 中国の美術館には中身がないものもたくさんある。だけど勢いがあって学ぶのも早いですよ。批判をすればパッと対応してくるし、そういう意味で恐るべき国。M+は欧米的な意味できちんとやってますね。アジアで最大級ではあるけれども、まだオープンしてないからなんともコメントのしようがないかな。ただ香港の社会情勢を見ると、M+が検閲を心配せずに自由に展覧会が組織できるのかどうか、心配です。

──日本では国公立美術館がかなりの数を占めており、美術畑ではない館長がいる美術館もあります。いっぽう森美術館は欧米の美術館と肩を並べるような存在を目指してきたと思うのですが、この認識はあっていますか?

 その議論をするためには、まず美術館をアメリカ型とヨーロッパ型に分けて考えなくてはいけません。

 ヨーロッパの美術館は、基本的に公金で運営するシステムでやっているわけです。いっぽうアメリカの美術館はワシントンの美術館以外は、予算調達を全部自分たち、民間でやっている。どちらが正しいのかということはできないですが、日本の美術館はいずれにせよそのふたつの極の間のどこかに位置することになるはずです。

 流れを見ると、日本はかつてヨーロッパ型だったにも関わらず、ある時期に国が5つの国立美術館を独立行政法人化して、自分でも予算調達しろと言い出して、予算を減らし始めた。だけど日本のいままでの美術館には民間から寄付金を調達する文化も技術も蓄積されていません。また税法なども、整備されているとは言いがたい。だから本当に民間資金にシフトさせたいなら、そのための新しい人材を教育したり、雇う予算をつけたりしなければ無理でしょう。

南條史生

 ネーミングライツを導入する美術館も出てきたけど、まだ右往左往している状態だと思いますよ。アメリカの美術館では展示室に名前がついている場合は多いけれど、それもファミリーの名前であって企業名ではない。なぜなら文化は個人の問題であるという意識が強いから。寄付する主体も個人が多いわけです。

 もし日本の美術館が完全に民間のお金でやっていくべきなんだというポリシーに変わるのならば、そのための教育や、専門的な人材育成など、システム全体を育てるべきだと思います。

 森美術館は新しい美術館ですから、もともとそういうノウハウや蓄積は持っていませんでしたが、森ビルの支援に頼るだけでなく、自助努力もするべきだろうと考え、幅広いネットワーキングを通して、ファンドレイジングもやってきた。森美術館には「ディベロップメント」という部署がありますが、4人のスタッフがフルに働いて寄付を集めている。MoMAは40~50人くらいいるそうで、おそらく数十億円を調達しているから、全然比べ物にならないですが。我々はファンドレイジング担当者をニューヨークに送って、アメリカの美術館の仕組みを勉強してもらったりしています。

 そういう理由から、アメリカの館長は場合によると、資金集めが上手い人がなっています。それは美術の専門家というよりビジネス寄りの人。それはその方がアメリカにおけるある種の必然性があるからです。日本だって、公立美術館で美術専門家でない館長が来て、年間1億集めてくれたら、それはそれでいいと思うんですよ。でも無理かな。

 いまは世界的に美術館の基礎的な考え方が再度問い直されていて、美術館とは誰がどのように支援をするべきなのかという問題に対する回答が宙づりになっているんだと思います。だからその過渡期にあるなかで、日本の美術館もどういうミッションがあり、そのために誰が支援すべきなのかを考える時代です。美術館はどこで、誰が、誰の金でつくりたいと思っているのか、という背景、出発点によって、全部違う時代だと思います。「これなら正しい」というモデルはない。

リニューアルしたMoMAの外観

──とくに日本の美術館では、テレビ局や新聞社が展覧会の主催に入るという特殊な事情があります。美術館とメディアの関係性についてはどうお考えですか?

 森美術館は、(メディアに企画を)持ち込まれるよりも展覧会を持ち込んでいる。この企画を一緒にやってくれませんかと。そこがほかの美術館と全然違います。でも本来そのようであるべきではないですか?

 ただ、こちらの企画を持ち込んでもメディア側は「そんなの人が入らないでしょ」と言う可能性がある。でもそこは「ただ人が入る展覧会をやっていればいいのか」という反論もありうる。

 だいたい、なぜメディアが展覧会をやるのかと言えば、本業のミッションから照らして、ジャーナリズムとして「これは知っておいたほうがいい芸術ですよ」という意味もあったはずです。商業的なメリットだけを追うのでなく、「学術的にも意味がある」「メッセージ性が高い」「いまの社会事象と通底している」などの意義があるからこそ、メディアがやる意味があるはずで、そこが議論されるべきです。切磋琢磨して、いろんな議論をして、ギリギリのラインで両者が「じゃあこれならやる意義もあるし、投資も回収できそうだから力を合わせてやってみよう」となるようなありかたが正しい道だと僕は思います。

それでも現代美術しかない

──南條さんがこれまで手がけられてきた展覧会で一番チャレンジングだったなと思ったものはありますか?

 「未来と芸術展」だって相当チャレンジングですよ(笑)。

南條史生

──建築からファッション、バイオまで、濃い展覧会ですよね。これは南條さんにとっての集大成的なものとしてキュレーションされたのでしょうか?

 結果的にそうなったんですよ。なぜなら「未来」っていうのは、なんでも入る大きな器みたいなところがあるからね。

 もともとは「ネオ・メタボリズム展」構想を出発点にして、都市・建築論からライフスタイル、ライフスタイルから人間の身体へ、そして最後に哲学と美学を問題にするまで、というように繋がっていったんです。だから博物、科学技術、ファッションや漫画、現代美術を含む広大な領域になってしまった。

 ただ「未来」とは言っても「展示している」ってことは「いますでにある」ということなんですよ。じつは未来ではない。でも将来、我々の生き方が根本的に変わる原因になりそうなものを集めたということにはなる。未来の種みたいなもので、このままこれが発展すると甚大な変化につながりますよという警告でもあるんです。

「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」(2011-2012)展示風景 撮影=渡邉修 画像提供=森美術館
「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命―人は明日どう生きるのか」(2019-2020)」展示風景
「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命―人は明日どう生きるのか」展示風景より、ディムート・シュトレーべ《シュガーベイブ》(2014-)

──南條さんは「未来と芸術展」以外にも、冒頭で言及されたように「医学と芸術展」「宇宙と芸術展」と、何かと芸術を組み合わせた展覧会を積み重ねられてますよね。そこには先ほども仰った「現代美術の文脈化のやり直し」をしていこうという狙いがあったと。

 それは大きいですね。美術は、美術の中だけで見ていたら美術としてのコンテクストで見ることになるわけですよね。でも美術をもっと大きなものの中に位置付けたら、美術の意味は変わってくるわけです。

 広いパースペクティブの中でアートを見ていくべきです。どうしても現代美術の関係者・専門家って現代美術業界の判断基準で見ているわけじゃないですか。「art for art sake」(アートのためのアート)っていうのは、それはそれで、少数のエリート意識に支えられ、強力な島宇宙をつくっている。でもそれだけでは十分ではないんじゃないか。

 人間が生きているなかで美術とはなんなのか。人間の生活のなかで美術とはなんなのかっていう基本に戻るべきなんじゃないかと僕は思う。

「宇宙と芸術展:かぐや姫、ダ・ヴィンチ、チームラボ」(2016-2017)展示風景 撮影=木奥恵三 画像提供=森美術館

──南條さんがそのような考えに至った背景には何があるのでしょうか?

 さっきも言ったように、僕は若い頃ものすごく多くの遺跡を見ているんです。そうした何千年も生き残った遺跡を前に、「いまつくられている、すぐにでも壊れそうな現代美術に意味があるのか」と思ったことがある。しかし考えた結果それでも「現代美術しかない」と思ったんです。なぜならいまの人間にはそれしかやりようがないから。そういう想いで僕は現代美術の世界に入っている。

 だからアートに関わる人間はそういう長いスパンで現代美術を見直すべきだし、周りにいる人たちもそういう視点を持つべきなんじゃないでしょうか。

──森美術館の新館長には片岡真実さんが就任します。最後に、今後の森美術館に期待すること、そしてアート界に期待することをお聞かせください。

 彼女は僕よりも国際性を強く押し出せると思う。国際美術館会議(CIMAM)の会長になったこともその可能性を表しているし、大きなネットワークの基礎になると思う。いままでの日本の美術館ができていなかった国際性が期待できると思いますよ。

 それに女性館長が重要になってくる時代ですから。時代精神としてもそういう方向にいけばいいと思う。

 アートは奥が深い世界だと思う。「未来と芸術展」では相当テクノロジーを入れましたが、いっぽうで、人工知能やバイオ技術が盛んになる時代には、アートの役割が見直され、より重要になると思います。アートは見ている角度によって違う側面を持っている。個人の趣味の対象であるかと思えば、学術研究の対象であり、また流行の一部になったり、あるいは商品となって投機の対象にもなる。深く見なければアートがなんであるかを見誤る。私は、アートは一生かかって付き合うべきもの、そして一生かかってもまだ新しい側面に出会う、不思議な世界だと思っています。人間が生きていくという現実の前で、アートがつねに重要というわけではない。しかしいっぽうで、好奇心を失わずに一生アートとともに生きることが大事だと思います。

南條史生

編集部

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