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「つくる/つくれない」を往還し、彫刻制作の根源的な意味を問い続ける福岡道雄に聞く

1960年代より、既存の彫刻のあり方を否定し、制作と生活の接合点を探求してきた福岡道雄。真摯に現代美術に向き合うが故に、彫刻をつくり続けるために、「つくらない」という態度へと行き着いた2005年。初の大回顧展に際して作家の歩みをひもとく。

文=長谷川新

展覧会会場にて 撮影=麥生田兵吾

つくらないことを自覚していたのは 最初の2、3年で。あとはもう飽きてしまって。 だから、怖さもないんです

 「具体」から「関西ニューウェーブ」までの間には霧がかかっている──関西の戦後美術について言及する際、そう嘯かれるようになって久しい。しかし実際のところその霧は戦後という時間の内部に含まれているのではなく、そう口にしてしまう者の怠惰な眼球の濁りにほかならない。とりわけ近年再検証が進むなかで、関西に拠点を持ちながら多くの作家が試行錯誤を続けていたことがいっそう明らかとなり、いかに多様で豊かな表現で満ちあふれていたのかを、私たちはまざまざと見せつけられている。現在、国立国際美術館で開催されている福岡道雄の回顧展を通して浮かび上がってくるのは、そうした「関西」というローカルな磁場だけにとどまらず、広く戦後美術史や彫刻論としても重要な実践の地層であった。

国立国際美術館での展示より、手前が《Pink の残影又は黒の降下》(1972) 撮影=福永一夫

 「僕は知らなかったんですけど、400点以上つくっているらしいんですよ、彫刻をね」という福岡の作品は、砂浜に石膏を流し込みベンガラなどで着彩した最初期の「SAND」シリーズに始まり、宙に浮く彫刻、「風景の彫刻」、そして「つくらない彫刻家」を名乗る現在に至るまで、一貫して「彫刻をつくること」を厳しく問うてきている。彫刻における重力、色彩、台座、自律性、自己言及性、思考と技術、具象/抽象といった様々なエレメントを絶えず疑い、解体し、しかしまったくのカオスへと溶け出していくのではなく、再度彫刻として鋳直す。その連続のなかに、福岡の実践はある。

 戦後の彫刻界において具象彫刻という存在は劣位に置かれ、制作することそれ自体さえ許されないかのような風潮にあったなかで、福岡はあっかんべーをした自身の頭頂部(自分の舌の型を取ろうとしたが身体が拒絶してできなかったというエピソードは大変興味深い)や釣りをする風景の彫刻を果敢に制作していく。

オールデンバーグからの贈り物 1968 木、土草 170×240×123cm(現存せず)

 「正直僕も怖かったですよ。こんな具象の彫刻をつくって大丈夫かなと」と告白する福岡の射程は、しかしたんなる具象彫刻の再評価だけにとどまらないものだ。自身のアトリエを彫刻化した作品には、それまで彼がつくってきた蛾や風船の作品すら彫り出されている。彼は自身の彫刻を再度彫刻にしているのである。あの有名な関根伸夫の《位相:大地》(1968)が出品された第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に、福岡は《オールデンバーグからの贈り物》と題した作品を発表している。クレス・オルデンバーグが矩形に掘った穴をそのまま作品としたことに着想を得て、福岡はそのとき掘り出された土が須磨に送られてきたという設定で、土の入った草の生えた木箱を彫刻にしている。《地球を植毛すること》《月の影を変えること》(ともに1969)といったスケールの大きな彫刻は、曽根裕の《人工芝を月の裏側に敷くパフォーマンス》が1994年であることを考えるとあまりに早い。

          右が《地球を植毛すること》、左が《月の影を変えること》(ともに1969) 撮影=東泰秀

日常の再発見による「風景彫刻」の制作

 「自分がやりたいことはどうしても彫刻にならない」。いっぽうでそうこぼす福岡の実践は、彼の日常とも分かち難く結びついているように見える。パチンコ、ビリヤード、フナ釣りとそれぞれ夢中になって「プロレベル」にまで突き詰めていくが、ただ記録に走ってしまわないうちに、ある時点でプツリとやめてしまう。その繰り返し。あたかもそれは、福岡の制作が反復を重ねながら展開し、どこかで打ち切られ、また別のシリーズへと切り替わっていくこととも共振しているかに思える。「何もしないことが理想」と言い、作家の最盛期は「せいぜい10年」と言い切る福岡だが、しかしそれらはたんなる厭世的でニヒリスティックな態度ではない。そこには越境せず踏みとどまろうとする意志が存在している。展覧会を企画した福元崇志がカタログに寄せた論考で引用している福岡の次の言葉は大変示唆的だ。

 「魚の水槽の水を変えるべきか、それとも彫刻を作るべきか」。

 この一文は、日常と制作が等価であることを示してはいても、決して日常と制作が一致していることを意味しているのではない。むしろここでは、水槽の水を変えることと、彫刻をつくることは別の営為である。福岡は魚は釣れど料理はしないと言う。彼の「日常」はそれ自体が輪郭を明確に持っている。ある種の越境が禁じられていると言ってもよい。彼の毎日の反復と切断は、それがそのまま彫刻になるのではない。

 かつて村岡三郎や小清水漸とともに大学の教員として働いていた福岡は、現在とは異なりおおらかであった大学制度のなかで、比較的自由に振舞うことが許され、制作に没頭できたという。「いまの作家はいちばん力のあるときに先生をしないといけないからもったいないなと思う」「つくらなくなって13年ですかね、自分でも彫刻というものから引いてしまっていて。つくらないことを自覚していたのは最初の2、3年で。あとはもう飽きてしまって。だから、怖さもないんです」。

 自らの設定したルールの遵守。境界線の画定。しかしそこに福岡はある種の異物が呼び込まれることを、そのルールの破れ目を密かに待っている。

 (『美術手帖』2018年1月号「ARTIST PICK UP」より)

編集部

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