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有識者が選ぶ2022年の展覧会ベスト3:南島興(横浜美術館学芸員)

数多く開催された2022年の展覧会のなかから、有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。今回は横浜美術館学芸員でコレクション展レビューサイト「これぽーと」の代表でもある南島興のテキストをお届けする。

「あいち2022」展示風景より、河原温 《I AM STILL ALIVE》(1970-2000)の「テレサ・オコナーに宛てた電報、1970年4月15日、1970年4月29日、1970年5月7日」(1970-74)

あいち2022(愛知県各所/7月30日~10月10日)と「地球のまわる音を聴く」(森美術館/6月29日~11日6日)

展示風景より、ヴォルフガング・ライプ《ヘーゼルナッツの花粉》(2015-2018)

 静けさの際立つ一年だった。その象徴がこの二つの展覧会である。一方であいち2022は名称変更のうえで、その都市型芸術祭モデルを国際芸術祭と地方芸術祭のハイブリットとして解体し、全方位的な「私たち」に配慮されたひとつの処方箋を提示した。他方で同じくコロナ以後をテーマとした「地球のまわる音を聴く」展は、あいち2022の「Still Alive(河原温)」に対して、オノ・ヨーコの私家版『グレープフルーツ』を参照源として、「I」=私の精神と身体に向けた細やかな呼び掛けに徹していた。私たちと私と、互いに補完し合う二つの展覧会の、しかし共通してもつ穏やかな「静けさ」は政治的もしくは倫理的な熱狂に対する予防策であるだけでなく、コロナ禍からの恢復期の同時代的な温度感をよく表したものだったと思う。

比田井南谷 生誕110年「HIDAI NANKOKU」展(√K Contemporary/11月12日~2023年2月4日)

展示風景より

 現代の書の専門知識がなくとも、前衛の可能性を実感できる展覧会。 例えば、南谷は絵描きのメタファーから逸脱した「書」ならではの造形言語をもっているように映った。それは墨と水分を含んだ筆の内部を意識させる技術である。石川九楊に倣い、書の起源を「筆蝕」と表現すれば、石刻から紙に写し取られるかたちは三次元性をもつ文字の転写された影に等しい。南谷は筆触でも筆致でもなく、筆のなかにある潜在的な空間を紙面上で実現することで、その筆蝕を「再演」しているのではないか。作品論から抽出が可能に思える、起源の別の仕方での再演というアイデアは、亡霊のようによみがえる前衛の復活を肯定するための指針になるだろう。現代美術のギャラリーでの開催も含めて、新しい観客の批評心をくすぐる企画であった。

 スクール的なものの始まり(PARA、「この国の芸術:『日本美術史』を脱帝国主義化する」オンライン連続講座、蜘蛛と箒の批評ゼミ通信講座)

『この国(近代日本)の芸術──「日本美術史」を脱帝国主義化する』オンライン連続講義のメインビジュアル

 コロナ禍で再検討を迫られたことのひとつが展覧会の開催形式だったと思う。またコロナと東京オリンピック2020を経た2022年からすれば、過去10年のコレクティブの活動の実態は変質を余儀なくされた。こうした現状にどれだけ対応しているかは定かではないが、今年になって学びの空間自体を劇場に見立てるPARA(岸井大輔/齋藤恵汰)や『この国の芸術:「日本美術史」を脱帝国主義化する』オンライン連続講義(小田原のどか/山本浩貴)、蜘蛛と箒の批評ゼミ通信講座(石川卓磨/沢山遼)などの自主レクチャー/スクール的な活動が始められたことには注視すべきである。そもそも展覧会だけが美術の舞台ではない。期せずして、昨年の群像新人評論賞を受賞した二つの論考(*)は、それぞれ演劇教育における自由の条件、今日の政治運動のありうる形を模索しつつ、学校という場を再発明する必要性を論じているように読めた。展覧会と学校的なもの、コレクティブと学校的なもの。両者の関係を前向きに再考できる時期なのではないだろうか。

*──渡辺健一郎 「演劇教育の時代」・小峰ひずみ「平成転向論」(どちらも「群像」2021年12月号、講談社、2021)

編集部

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