新しい美術館をつくるべく大阪市が1983年に構想を発表し、約40年を経て北区の中之島エリアに今年開館した大阪中之島美術館。その建設計画は90年以降に始まり、98年には基本計画を策定したが、財政難のため整備費が工面できず凍結された。再起動は2010年代に入ってからで、市は同年11月に規模と費用を大幅に縮減した2度目の計画を発表する。しかし、ようやく建設の機運が高まった新美術館計画は翌年、「待った」がかかる。新市長に就任した橋下徹氏が「一から構想を練り直したい」と表明し、計画を白紙撤回したためだ。関連して国内有数の歴史を持つ既存の市立美術館(天王寺区)の統廃合問題も持ち上がる。
一度「白紙」に戻された新美術館計画はその後、どう筋道がついて実現へ向かったのか。本企画の2回目は、大阪府・市の特別顧問で計画の再検討に関わった上山信一・慶応義塾大学総合政策学部教授に話を聞いた。上山教授は民間の手法を官庁・自治体に導入する行政経営の専門家で、大阪市営地下鉄の民営化や東京都の五輪予算の見直し等に携わってきたほか、東京都や川崎市、静岡県など各地の公立ミュージアムの評価や改革、再建計画にも携わってきた。
トリガーになったのは国との契約
──上山教授は著書『ミュージアムは都市を再生する』(日経新聞社、共著)で美術館や博物館の存在価値を経済的視点から分析・評価しました。今回、完成した大阪中之島美術館をどう見ますか。
建物内部に広々とした「パッサージュ」(遊歩空間)を持ち、出入り口も複数あって1、2階は自由に行き来できる。地域に刺激と活気をもたらしてくれそうです。建築を含む総施設整備費は約156億と規模に比して抑え目ですが、立地は非常に良く、遠藤克彦建築研究所が手掛けた設計も優れている。国内外や地元の近現代美術・デザイン作品などのコレクションは、まだ市が財政に余裕がある時期から予算を投じて集めてきたうえ、寄贈品も多く、充実したものになりました。同館がある中之島は水辺の景観に恵まれ、府立中之島図書館をはじめ歴史的建造物や国立国際美術館・市立東洋陶磁美術館(1982年開設)など文化施設が数多くあります。フランスのパリで言えばシテ島のような存在です。そうした地域のポテンシャルを発信する「文化装置」として、大阪の都市戦略的に極めて重要な美術館が完成したと考えています。
──同館は構想から開館するまで約40年を要しました。建設計画はいつお知りになりましたか。
40年かかったプロジェクトですから、初期から詳細を知る職員はいまではほとんどいない。菅谷館長が一番お詳しいはずです。私は2004年12月くらい、当時助役だった弁護士の大平光代さんに行政改革の職員向け講演を依頼されて初めて大阪市と付きあいができました。市職員の不適切な厚遇問題が報じられていた時期で翌年、同助役の要請を受けて「カラ残業」や「ヤミ年金」にメスを入れる市の委員会に入りました。次いで市政改革の改革委員会の委員長として事業分析や関淳一市長への助言を行いました。当時の大阪市は巨額の赤字財政を抱えて次々と不祥事が発覚し、行財政の抜本的な見直しが急がれていました。「身の丈改革」がキーワードという状況でしたから、新美術館の建設計画は知っていたものの、論点にすら上がってこない感じでしたね。予算がないから当分は推進できなくて当然と役所内で認識されていた。やがて関市長は3選を目指した07年の選挙で落選し、大平さんも退任され、私も一度市と縁が切れました。しかし翌年、府知事に当選したばかりの橋下さんから府の特別顧問を依頼され、その延長で、11年秋に橋下さんが知事から市長になった際に、一緒に大阪市に入っていって、市の特別顧問として再び大阪市の改革に関わるようになりました。
──凍結された新美術館の建設計画は、府知事から転じた橋下市政下で2010年代に動き出し、3回目となる基本計画がつくり直されました。それから約10年でいまの大阪中之島美術館ができました。構想から約30年も経った当時、計画が再始動したのはなぜでしょうか。
トリガー(引き金)になったのは国との契約でしょう。市は用地として中之島の国有地を国から購入しましたが、その際に交わした契約では一定年度まで美術館が完成しなかったり、美術館以外に転用したりすると違約金が発生することになっていた(*1)。契約の期限が近づく2011年秋に市長になった橋下さんは、早急に対応する必要に迫られていました。
市立美術館統廃合の危機
──橋下さんは「しょぼい美術館なんかできても大阪の力は高まらない」と表明し、市長就任後に市が前年に発表した縮小計画を白紙撤回します。どのような背景があったのでしょうか。
まず当時の政治状況を簡単に説明しておきましょう。橋下さんは府の赤字財政再建と組織改革には2年ほどで目途をつけ、2010年には府・市の「二重行政」解消を目指す「大阪都構想」を打ち出します。また前年に府庁移転問題を機として自民党府議団が分裂し、その後に橋下改革を支持する「大阪維新の会」ができて、2011年春の統一地方選挙では府・市議会ともに大躍進しました。次いで秋のダブル選で大阪維新の会の松井一郎さんが知事、橋下さんが市長に当選しました。
橋下さんは新美術館の建設自体には賛成で、当時は府との共同事業にする腹づもりでした。ただ彼が代表を務める大阪維新の会としては、財政難のなか、美術館の数は増やさない立場を取っていた。新しい美術館を建設するなら市の財源だけでなく民間資本も活用して質の高い施設をつくり、既存の市立美術館は廃止して新美術館に統合すべきだとしていました。たしかに築80年近い天王寺の市立美術館は老朽化していたし、紙の上の計画では、一元化すれば維持管理費は圧縮できる。これは行政改革の議論の延長線上で生じた一見、正しい主張ですが、私は正直困ったことになったと思いましたね。
──なぜですか。
2011年の春の大阪維新の会の躍進後、私はいったん府の役職を離れて大阪維新の会の政策特別顧問として政策づくりや新人議員の教育を手伝っていた時期があります。もともと、市と府は水道など同じ事業や似たような施設をそれぞれ自前で持っていました。それで大阪維新の会は「二重行政による無駄」こそが大阪のガンと考え、府と市の施設や役所自体の統合を主張し、それが都構想につながったのです。いわば「2つあるものは1つにする」という合理化が、大阪維新の会の原理原則になっていた。私も「官から民へ」の論理と既存の組織・施設をスクラップ&ビルドする必要性を新人議員に説いてきました。
しかし、美術館はコレクションと建物、立地、歴史的経緯まで含めたトータルな存在です。ただ「機能」だけ取り出して、他と合体できません。体育館やホールとは違います。そもそも東洋美術を多く所蔵する市立美術館と近現代美術を扱う新美術館では性格がまったく異なる。新美術館は天王寺の歴史の上にプラスする新設が大前提だったし、関係者は当然そうなると思っていた。私もそうでした。とはいえ、行財政改革の視点から言えば大阪維新の会の主張も理解できる。自分が投げた行政改革のブーメランが戻ってきたようで困惑しました。
──市は市立美術館を廃止統合する方針を固めたとメディアは一時報じました。
2013年2月に市の戦略会議で美術館の新設は再決定しましたが、統合か併存かは専門家の意見を聞いて最終的に決定することになりました。美術の専門家や市民からも疑問や反対の声が上がりました。そこで私を含めた外部有識者6人を交えた市の検討会がつくられ(*2)、意見交換や市立美術館の現状評価、他の公立館との比較、コスト試算などを行い、集客の可能性も分析しました。
有識者は全員が「新美術館に統合せず、市立美術館は存続させるべきだ」という見解でした。「2つの美術館はコレクションの性格が異なり、統合すると中途半端になる」「戦前開設された歴史的経緯からも市立美術館は残すべき」「都市戦略的に大阪の北と南に2つ美術館があるメリットは大きい」など、統合案に対し慎重論が相次ぎました。さらに天王寺の収蔵品も合わせた巨大な収蔵スペースを確保するには川べりにある新美術館を高層化する必要があり、その分の整備費が跳ね上がると予想されました。要するに統合する文化的、財政的メリットがなさそうだとわかったのです。
──いったん固めた方針と違う結論が出たわけですが、橋下氏は提言をすんなりと受け入れたのでしょうか。
非常に現実的に考える人ですから、具体的な数字を見ると納得されました。また、大阪は比較的早い時期から観光振興に力を入れ始め、2012年には橋爪紳也さん(建築史家・大阪府立大教授)らを招いた府市合同の有識者会議もできていました。インバウンドをにらんだ議論が行われ、国際都市として魅力向上を目指す文脈のなかで中之島の文化資源が見直され、そこに美術館の新設はうまくフィットした。橋下さんは、都市の集客装置としての美術館の意義には非常に理解と関心がありました。
──結果的に市立美術館は廃止されず、存続しました。
あの時の検討会で改めて市立美術館の意義を再評価できてよかったと思います。同館はそもそも住友家が邸宅跡地と庭園を寄贈し1936年に開設されました。公立美術館として東京都と京都市に次ぐ歴史があります。関西の財界人が収集品を寄贈したコレクションは、仏像や中国書画など東洋美術の逸品が数多く含まれ、「国立博物館に匹敵するレベル」と検討会では評価されました。瓦ぶき屋根を持つモダニズム建築の建物、隣接する作庭の名人・7代小川治兵衛らが手掛けた「慶沢園」も貴重です。しかし当時は会場が他にないこともあり、所蔵品と必ずしも関係のない西洋美術の巡回展などを開催して、館本来の特色が打ち出せていませんでした。建物は耐震補強の必要があり、設備は老朽化し、レストランや売店の利用者満足度も低く、入館者数が減少傾向にありました。ターミナル駅に近い天王寺公園にある地の利が生かしきれていませんでした。そこで検討会ではたんに存続させるだけでなく、積極的に投資して再生すべきだと結論付けました。もちろん中之島への統合による廃止には反対と表明した。ちなみに天王寺の市立美術館は今秋から約2年半の長期休館に入り、耐震化や展示設備、サービスエリアを刷新する大規模改修を行います。当時の検討会の提言がそのまま活かされることになり、結果的にはあのとき、中之島との統合の是非を議論したことが功を奏しました。
2館はペアでとらえるべきです。平たく言うと市立美術館が「大阪の財界人、町衆がつくり上げたコレクション」なら、大阪中之島美術館は佐伯祐三や吉原治良ら「大阪が育んだアーティストの作品群」です。それぞれ市南部と北部に位置して地域バランスも取れている。大阪の公立館には他に東洋陶磁美術館もありますが、これほどの大都市なので、東京やニューヨークと同じく性質が違う公立美術館が複数あって当然だと思います。
大阪の文化行政の未来
──2019年に市立の美術館・博物館を束ねる地方独立行政法人「大阪市博物館機構」(*3)が設立されました。美術館と博物館の地独法化は全国で初めてです。どのような狙いがあるのでしょうか。
大きな目的は専門人材を継続して安定的雇用、確保することです。かつては各館とも指定管理者制度による運営でしたが、契約期間が5年ほどなので長期的視点に立った事業計画、雇用や人材確保が難しかった。たまたま財政難で人件費も抑制され学芸員の人数は減り非正規雇用が増えていました。人手不足で企画力が低下し来館者数の減少を招く悪循環に陥っていると思えました。加えて、関西の優秀な人材が東京等へ流出するのをくい止めたいと考えた。その処方箋が、市立館の経営と運営を独立行政法人のもとで一元化する方法でした。学芸員は法人の正規職員として雇用され、各館で仕事をするので、安定した雇用環境のもと、知識と経験を蓄積して展覧会の企画や収集ができる。事業の継続性や館の個性の創出につながります。
──府・市双方の文化、博物館行政に関わっています。今後の展望はどのようなものですか。
全体的な見通しで言えば、いまは山を登り始めたばかりです。最初の1歩は独立行政法人をつくって、民間出身の理事長のもと経営改革を行う。独立組織として主体的に予算と人材を回す。第2歩が長年の懸案だった大阪中之島美術館の開館。3歩目が天王寺公園のリニューアルと軌を一つにした市立美術館のリニューアル。その次に来るステップは、おそらく大坂城に近い国史跡・難波宮跡の保存整備と活用でしょう。大阪市は、古代に宮殿があった全体像が体感できるような公園にすることを計画している。民間の力も借りて2025年の大阪万博に向けて機運を盛り上げていきたい。その他、府内には他に多くの古代遺跡や史跡があります。府立の近つ飛鳥博物館なども見事なものです。しかし今までの大阪の歴史展示は大阪城を中心とする近世が中心だった。産業都市だったので京都や奈良に比べ行政による文化の資源化が進んでいなかった。これから大阪の歴史をいわば再発掘していく必要がある。そのけん引役としても独法には期待をしたい。そこまで完了して、やっと大阪の都市の大きさにふさわしい文化施設と運営体制が整ったと言えるのではないかと考えています。
*1──大阪市は美術館用地に大阪大学跡地の1600平方メートルを国から購入。国との契約では公立美術館を整備しない場合は約48億円の違約金が発生した。
*2──大阪市の美術館のあり方検討会。外部メンバーは上山氏のほか、梶谷亮治(東大寺ミュージアム館長)、鈴木博之(青山学院大学総合文化政策学部教授、博物館明治村館長)、高瀬孝司(株式会社ジオ・アカマツ取締役会長)、建畠晢(京都市立芸術大学長、埼玉県立近代美術館館長)、柳沢秀行(公益財団法人大原美術館学芸課長)=五十音順、肩書は当時
*3──大阪市博物館機構に所属するのは市立科学館、市立東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館、市立自然史博物館、市立美術館、大阪中之島美術館。理事長は真鍋精志氏(元JR西日本会長)