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2022.5.22

なぜ開館できたのか? 大阪中之島美術館の40年から考える公立美術館の過去・現在・未来(1)

構想から約40年という異例の時間を経て今年開館した大阪中之島美術館。財政難や整備計画の白紙などいくつもの困難を、関係者たちはどのように逆転したのだろうか? 3名のキーパーソンと識者にインタビューし、開業までの経緯や将来像などを振り返る。第1弾は館長・菅谷富夫。

文・聞き手=永田晶子

大阪中之島美術館 撮影=筆者
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 大阪市が構想を打ち出してから約40年。大阪中之島美術館が今年2月ついに開館した。隣接する国立国際美術館をはじめ文化施設や歴史的建造物が集積する中之島エリアという好立地。黒い直方体の建物は内部に巨大な吹き抜けがあり、全体の延べ面積約2万平方メートルと関西最大級の美術館だ。6000点を超す所蔵品は国内指折りの近現代美術・デザインのコレクションと言われ、日本第2の都市が培ってきた文化の厚みが実感できる。

 完成した美術館を見ると改めて疑問がわく。充実したコレクションはどのように形成されたのか。そもそも館自体なぜ誕生できたのだろうか。1983年に市が構想を発表した近代美術館の建設計画は、当初90年代の完成を想定していたが、財政難や計画地で発掘調査が行われるなどして10年以上中断した。規模を縮小し2010年に策定した整備計画もいったん白紙になり、計画の見直しや作品売却の可能性も取り沙汰された。一体どんな〝逆転劇〟があったのか。また公立美術館を取り巻く環境が厳しさを増すなか、どのような美術館を目指すのだろうか。

 まず登場して頂くのは同館の菅谷富夫館長。1992年に市の美術館準備室に学芸員として着任以来、開設準備に携わり、2019年に初代館長に就任した。

美術館建設を急ぐ姿勢がなかった

──約40年の準備期間を経て、大阪中之島美術館はオープンしました。コレクションから代表的な作品を紹介する開館記念展「Hello! Super Collection 超コレクション展―99のものがたり―」(すでに終了)は盛況で、現在は開館記念特別展「モディリアーニ―愛と創作に捧げた35年―」(7月18日まで)などを開催中です。開館から3ヶ月たった感想を教えてください。

 開館記念コレクション展は予想以上に大勢の方に来ていただき、当日券が売り切れて残念そうに帰る方もいらして、申し訳なく思いました。十分準備したつもりでしたが、いざ開館すると予期しなかったことが起きました。例えば、あれほど多数の問い合わせの電話が来るとは予想していませんでした。アクセスや鑑賞券購入に関する質問が大半でしたが、電話回線が全て埋まることもあって、応対する人間を一時的に増やしました。今は開館というエポック的な出来事が終わり、館内が少し落ち着き始めたところです。

開館記念展「Hello! Super Collection 超コレクション展―99のものがたり―」より

──大阪市は1983年、市制100周年記念事業として既存の市立美術館の他に新しく近代美術館を建設すると発表しました。大阪の実業家・山本發次郎の収集品約600点が寄贈されたのを受けた計画でした。菅谷館長は1992年に準備室に入られましたが、開館までこれだけ年月を要すると思いましたか?

 まったく思っていなかったですね。1980年代から90年代にかけ日本各地で公立美術館をつくる動きがありましたが、大体5、6年の準備期間を経て開館していきました。当館の場合、時間が掛かった要因は色々ありますが、今思えば美術館建設を急ぐ姿勢がなかったことも一因に挙げられるかもしれません。つまり、まずコレクションありきだと。作品をしっかりと収集し、それに合わせて美術館を建設する考えが当初からありました。美術館構想が出た1980年代は、既存の公立美術館は建物が立派だが生命線のコレクションがやや貧弱ではないかと専門家が指摘して、多くの公立美術館が作品収集に苦心していました。そんな批判もあるなかで、当館はコレクションが少ないまま開館するのを避けようとして一呼吸出遅れた。やがて1990年代に入るとバブル経済の崩壊などで税収が激減し、市は美術館整備を延期せざるを得なくなりました。

菅谷富夫館長 撮影=筆者

──「まずコレクション」は、どこから出た考えでしたか?

 1988年に美術の専門家を含む美術館構想委員会が発足し、そこで方向性が決まりました。私が準備室に入る前のことです。

筆者注:市は1989年、海外作品第1号としてイタリア生まれでエコール・ド・パリの画家アメデオ・モディリアーニの《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917)を購入。価格の19億3000万円は、地方自治体が購入した美術品として史上最高額だった。購入手続きや価格の妥当性を疑問視する新聞報道などもあって、議論を呼んだ。

──1990年代半ばに大阪で新聞記者をしていました。当時も市による高額な美術品購入に反対する声があったのを覚えています。しかし近年、《髪をほどいた横たわる裸婦》と似たタイプの裸婦像が海外オークションにおいて200億円前後で相次ぎ落札されるなど、モディリアーニ作品は高騰が続いています。

 当時批判されましたが、あの時に市が購入してよかったと思います。今では公立美術館には到底手が届かない価格になりました。《髪をほどいた横たわる裸婦》は、当館構想のきっかけになったコレクションを収集した山本發次郎の旧蔵品だったゆかりがあります。モディリアーニの同様の裸婦像は世界に30数点しかないので、国内や海外から出品要請が多く、当館のコレクションを代表する作品の一つになりました。

展示風景より、アメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》 撮影=筆者
筆者注:作品収集は準備室が開設され学芸員が配置された1990年から本格的に始まった。ジョルジオ・デ・キリコ《福音書的な静物》(4億2800万円)、サルバドール・ダリ《幽霊と幻影》(6億7800万円)、フランク・ステラ《ゲッティ廟(第1ヴァージョン)》(6億3000万円)などを次々に購入。これまでの総購入額約150億円は、市が89年に設置した美術品取得の基金が充てられた。このころ相次いで開館した他の公立美術館、例えば名古屋市美術館の約27億円や横浜美術館の約65億円と比べても、恵まれた購入予算と言えるだろう。

美術館の核をなす代表作たち

──開催中のモディリアーニ展は、《髪をほどいた横たわる裸婦》も登場します。ほかにコレクションから代表的な作品を幾つか挙げていただけますか。

 まず、重要文化財に指定されている福田平八郎の《漣》(1932)。福田は大分に生まれ京都で活動した近代日本画を代表する画家で、《漣》は東京国立近代美術館所蔵の《雨》と共に代表的な作品です。当館は大阪生まれの画家・佐伯祐三の絵画約60点を所蔵しており、なかでも最晩年作の《郵便配達夫》(1928)は有名ですが、同年描いた《煉瓦焼》もひけを取らない傑作だと思います。パリ近郊の村へ山口長男らと一緒に写生旅行に出かけた時の作品で、建物の重厚な量感が新しい展開の芽を感じさせるし、黒い線の力強い表現も魅力的です。

 モディリアーニ展で紹介しているウンベルト・ボッチョーニ《街路の力》(1911)は、未来派の記念碑的な絵画と言われます。もともと未来派は作品数が限られ、とくにボッチョーニは早死にしたので数が少ない。これは国外にあった作品で、収集は難しかったですね。購入の際は、審査会での議論や議会の承認など市規定の手続きを踏む必要があるのですが、それが海外のスピード感と合わない(苦笑)。この時は他に購入を希望する美術館があり、担当者が苦心して交渉してなんとか収蔵できました。

ウンベルト・ボッチョーニ 街路の力

──世界的作品になると、競争相手は海外の美術館になるのですね。

 そうです。議会を通る前に「買う」と確約できませんから、海外からの購入は粘り強い交渉がしばしば要ります。

──どのような作品が海外から引き合いがありますか。

 ルネ・マグリット《レディ・メイドの花束》(1957)、キリコ《福音書的な静物》(1916)は、シュルレアリスムの巨匠の代表的な絵画なので出品依頼がよくあります。ジョゼフ・コーネルの平面コラージュ《無題》(1931頃)も、海外から依頼が多いですね。コーネルはオブジェを配したボックス作品で知られますが、これは初期の重要作なので回顧展に欠かせないんです。デイヴィッド・スミス《吊るされた人物像》(1935)もそうです。彼は金属部材を溶接する手法で彫刻表現の可能性を広げた米国の現代彫刻のパイオニアで、本作は最初期の作品だから。鋳造でなく、1点しかないので米国の美術館から「なぜ日本にある?」と思われているかもしれません。スーパーリアリズムの代表的画家、チャック・クロースの《ジョー》(1969)はニューヨーク、シカゴ、ソウルと世界各地に貸し出しました。ミニマル・アートの第一人者、フランク・ステラの《ゲッティ廟(第1ヴァージョン)》(1959)は、出世作になった絵画シリーズの1点なので、やはり出品依頼がきます。

ルネ・マグリット レディ・メイドの花束
デイヴィッド・スミス 吊るされた人物像

──ビッグネームの代表作が含まれた質が高いコレクションだと思います。当館は当初「近代美術館」として構想されましたが、所蔵品は現代作品も目立ちます。収集方針に変化はあったのですか?                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

 じつは最初からです。近代美術というと19世紀から第二次世界大戦前までとする定義もありますが、近代美術館は英語だとModern Art Museum。モダンの言葉には「現代」も含まれています。代表的な例がニューヨーク近代美術館(Musem of Modern Art)で、近代美術館と名乗りつつ、現代作品を多数所蔵しています。近代のとらえ方や定義は時代と共に変わり、近年公立美術館が館名から「近代」を外すケースが増えているのはそのためでしょう。当館では当初から現代も視野に入れ、作品を収集してきました。もともと「近代美術館」は仮称でしたし。

──なるほど。

 例えばチャック・クロースの《ジョー》は、準備室に私が入った92年にもう購入してありました。早い時期から現代美術にも着手し、ジャン=ミシェル・バスキアの絵画は彼がグラフィティ・アーティストとして注目が高まった90年代初頭に購入しました。今や恐ろしい価格ですが(笑)。先日、表参道のエスパス ルイ・ヴィトンでの展示が話題になった英国のギルバート&ジョージの大作も92年に収蔵しました。

大阪の美術館としての役割

──先見があったのですね。先端的表現まで目配りした収集に意気込みを感じます。

 幸い予算はつけてもらっていたし、数は少なくとも良い作品をという共通認識のもとで作家の代表的作品を収集しました。1989年に市が設置した基金は年度初めに基金額が30億円になる方式で、それが5年続きました。極論すると毎年30億の予算があったようなもので、それだけあれば当時はいろいろ買えたのです。その後、市が財政難に陥って予算ゼロになり、2004年から作品購入はストップしました。購入できなかった間も、作家の遺族や市民からの作品寄贈が毎年のようにあり、新美術館への期待を感じました。開館が確定した2018年以降、再び購入予算がつくようになり、収集活動を再開しました。

──開館記念コレクション展は、小出楢重らの洋画、北野恒富らの日本画、前田藤四郎の版画、昭和初期の前衛写真など、大阪と関わりがある作品が印象的でした。大阪を拠点に活動した具体美術協会(具体)も、創設者の吉原治良の絵画を紹介しました。「具体」は戦後日本を代表する前衛集団として注目が高まっていますが、活動当時は東京中心の美術界からあまり評価されなかったと言われます。大阪の美術館としてどう考えますか。

 大阪の美術を収集展示する目的は、「大阪だって良い作家がいる」と自慢したいわけではありません。「具体」に限らず、時代を遡ると明治時代の岡倉天心は大阪の画家を評価しませんでした。当時の大阪を代表する美術は文人画だったので、平たく言えば素人の作品だと相手にしなかった。江戸時代以降、港がある大阪は長崎を経由した中国文化が集積し、刺激を受けた先鋭的な文人画家がいましたが、他の職業に携わりながら描いていたので軽視されてしまったのです。昭和初期に日本の前衛写真をリードした「浪華写真倶楽部」などのメンバーも、今でいうアマチュア写真家が大半でした。当時高価なカメラが買えた商家の主人や跡取りといった人たちで、家業に携わりながら実験的作品を制作しました。また大阪の商家は子女に習い事をさせる慣習があり、日本画の島成園をはじめ、そこから才能を開花させた女性画家が何人も出ました。

開館記念展「Hello! Super Collection 超コレクション展―99のものがたり―」より、小出楢重《菊花》(1926)

 プロ・アマチュアの区分にこだわらなかった意味では、「具体」もそうだと言えます。リーダーの吉原治良は関西学院大学を出食用油会社の社長をしながら制作を続けたし、主要メンバーで美術学校を卒業したのは白髪一雄ら数人位でしょう。別の仕事をしながら制作する作家が周囲に多くいました。とはいえ「具体」の活動はたんに我流でなく、海外の最新動向にもこまめにアクセスして、ニューヨークやパリの美術界と繋がりを持っていました。

開館記念展「Hello! Super Collection 超コレクション展―99のものがたり―」より、左から吉原治良《White Circle on Red》(1963)、《作品》、《作品》(ともに1965)

 そうした大阪の美術の特徴が、理解や評価を妨げてきた面はあると思います。つまり、東京や京都の美術学校に入り、○○先生に師事し研鑽を積む──といった過程を踏んでいない作家が多い。明治以来150年間、東京美術学校を中核に形作られてきた日本の近現代美術の文脈に収まらず、位置付けが難しかったのではないか。それは恐らく大阪に限らない傾向で、いわゆる「大文字の日本美術史」に含まれずにきた土地固有の美術が他にもたくさんあると思います。大阪は都市の規模が大きく、文化を支える基盤があったから目立つだけです。

 当館の役割のひとつは、これまで当たり前とされてきた美術のあり方や見方に対し、そうでない美術を提示することです。展覧会や普及活動を通じ、画一的でない美術の歴史や価値、創作のあり方を示していく。そうすることで私たちの見方が変わり、創作する際の選択肢も増えて、美術の世界はさらに豊かになるでしょう。作家像や作品のとらえ方がより広がる可能性もあります。そうしたことに貢献できればと思っています。

「新しい美術館」の姿、打ち出せるか

──公立美術館として最後発です。どのような特徴を打ち出しますか。

 アーカイブ機能を充実させます。当館は美術資料も多数所蔵しており、まず「具体」と大阪にあった広告代理店の草分け「萬年社」の資料を公開します。具体的には作家が残した手稿や図面、展覧会記録、記録映像などで、専門のアーキビストが保管整理とデータベース化を行い、閲覧しやすいシステムを構築して運営します。外部の専門家や団体と連携した活動にも力をいれます。すでに準備室時代から教育普及の分野で大学やNPOと協働した実績がありますし、適切な人材・団体と組むことで美術館の可能性も広がるととらえています。

 展覧会は年間8本を予定しています。モディリアーニ展の後は、岡本太郎展が7月23日から始まりますし、秋からは国立国際美術館と共同企画した具体の展覧会を開催します。大阪の日本画展や、色鮮やかな抽象画と映像作品で知られるサラ・モリスの国内初個展も予定しています。所蔵品を中心に紹介するテーマ展は、外部から借りた作品を加えて企画性を高めています。

──貴館は、日本の美術館で初めてPFI法に基づくコンセッション方式が導入されました。年間約7億円と試算された運営事業費のうち、約3億円を大阪市が市博物館機構を通じて支払い、残りは入場料などの美術館収入で事業者が賄います。当館も属する市博物館機構は公立美術館・博物館を束ねる全国初の地方独立行政法人(2019年設立)です。〝初もの尽くし〟の美術館運営を、どう舵取りしていきますか。

 公共事業に民間の資金とノウハウを生かすPFIのなかで、コンセッションは民間の自由度が高い方式です。当館の場合、株式会社朝日ビルディングが設立した特別目的会社に博物館機構が運営権を設定するかたちになり、契約期間は15年です。事業者は利益が出たら収入にでき、損失が出れば赤字をかぶることになります。自治体直営なら、展覧会が予測より集客できず見込んだ入場収入が得られなくても、「来年度は頑張ります」と言えば許されることも多いでしょう。ところが、この方式だと赤字を背負って次年度へ進むことになります。確実に目標値を達成しないと、美術館がやがて立ち行かなくなるのです。こういう話をすると、「利益優先にならないか」「独自の展覧会活動が難しくならないか」と心配する声をいただくのですが、要はバランスの問題だと思います。つまり収入が見込める展覧会を開催しながら、学術的意義があり当館方針にも則した「やるべき展覧会」もやる。後者の展覧会も、内容の意義や良さを広く伝えるように努めて来場につなげ、目標値をしっかり達成する。そうやって全体の収支を合わせていきます。収集展示や普及活動だけでなく、運営面でも「新しい美術館」の姿を提示していければと思っています。

美術館を象徴する「パッサージュ」(2021年7月撮影)