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2020.10.28

ポスト資本主義は「新しい」ということを特権としない Vol.2:卯城竜太(Chim↑Pom)

いま必要なのは、「ポスト資本主義」ではなく「ウィズ資本主義」だ──。道具やスペースのシェア、見返りを求めない贈与的な活動、プロジェクトを通じた異なる階層の出会いの創出など、アートはそもそも経済的価値では測れない独自の芸術的価値を生きてきた。ひとつのシステムに「包摂」されない、こうした脱中心的な態度は、経済体制だけでなく、作家活動における「展覧会」の相対化、真に多様なコミュニティへの志向、人間を超えた「サブジェクトの多様化」など、アートの世界にさまざまに現れ始めている。「美術手帖」本誌10月号で「ポスト資本主義とアート」をめぐる対談に臨んだChim↑Pomの卯城竜太が、そこで語ろうとした思考の全容をあらためて綴る。なお本稿3回分のフルテキストはPDF ZINE(涌井智仁デザイン)として無料ダウンロード可能。本文最下部をチェックしてほしい。

文=卯城竜太(Chim↑Pom) 編集協力=杉原環樹 デザイン=涌井智仁 リサーチ協力=ジェイソン・ウェイト、卯城公啓、東海林慎太郎、山本裕子

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錬金術師としてのボイス

 ヨーゼフ・ボイスの代表的なプロジェクト「7000本の樫の木」。1982年のドクメンタ7から始められた、カッセルの街なかに7000本の樫を植える同プロジェクトは、アーティストによる社会活動や環境問題を扱った作品の先駆けとして語られるが、じつはポスト資本主義の視点で見ても凄い作品である。

 このプロジェクトの資金捻出のため、ボイスは7000体の彫刻を制作して販売したのだが、ワタリウム美術館にボイスが営業に来たときの話を関係者に聞くと、1本【体】をおよそ数十万円で交渉してきたというのだ。これはボイスほどのアーティストの作品としてはクソ安いが、「×7000本」だと少なくとも7億以上を動かしたことになる。そんなプロジェクト、いまでも簡単には見当たらないけど、それをギャラリーを通さずにボイス自身が交渉していたというから驚きである。

 この資金集めは、いまで言うクラウドファンディングに近いが、それ以前に、なぜあの小汚いコンセプチュアル/ポリティカル・アーティストが、そこまで大規模なディールを世界中のコレクターや機関、企業と行えたのか。じつは一時期、キャピタル誌において、ボイスはウォーホルを抜いて美術市場のNo.1に選ばれていたそうだ。事実、世界中のメガコレクターによるプライベートミュージアムには、マーケットタイプの作品と並び、ボイスのゴミのような見た目のピースが収められている。彼を資本主義やマーケットと切り離して語ることはできない。

 にもかかわらず、ボイスがその観点から語られることは、あまり多いと言えない。まさしくマーケットという場所こそ主戦場であるウォーホルや村上(隆)さんが「資本主義の体現者」であるのに対して、ボイスは同じドイツ人であるマルクスの直系であり、資本主義を解剖してシステムをハイジャックした、「錬金術師」だった。

不当逮捕の示談金を、観客に還元

「富の再分配はどう行われるか?」という問いを可視化したようなプロジェクトがある。ペンシルバニア州出身のコンセプチュアル・アーティスト/フェミニストであるコンスタンティナ・ザヴィットサノスが2015年に発表した「Sweepstakes」だ。タイトルの意味をgoo辞書で引くと、「1 (賭け金が1人または数人に与えられる)競馬;宝くじ;その賭け金」「 2 (競争者の出す賭け金による)賞金レース;その(総)賭け金」とある。プロジェクトのきっかけは、2004年にさかのぼる。

 共和党の集会で、イラク戦争反対を叫んだ多くのアクティヴィストが不当逮捕された。その内のひとりがコンスタンティナだった。NY市警に対しての10年間にわたる集団訴訟の結果、これが不当逮捕であったことが認められて、示談金が全員に合わせて約18億円支払われることとなる。コンスタンティナはこれに受け取り拒否の態度を示し、しかし同時に「受け取った上で」の作品化を目論んだ。その示談金を、展覧会で不特定多数に再分配したのである。

 99日間の会期中、ニューヨークのニューミュージアムの受付カウンターには、あらゆる人たちがアクセスできるデザインとして、車椅子の目線に調整されたトレイが設置された。横には「これはアート作品である」とのキャプションが付されて、トレイには、作家がデポジットしたvisaのギフトカード、25ドル、50ドル、100ドル、500ドル(?)の4種類(日によっては$1000も)が用意された。誰もが自由に使えて、毎日示談金から補充されるという仕組みだった。

メキシコのツリーハウスと「アートのダイナミズム」

 マウリツィオ・ カテランによる、本物のバナナを壁に貼り付けにしただけの作品《コメディアン》が、12万ドルで売買されて話題になったことは記憶に新しい。そのことが報道されたとき、「富裕層の道楽にすぎない」とか「それをニュースにすること自体が不健全なポピュリズム」といった疑問の声をあげる人がわりと多かった。これが「貴族の遊び」であることは間違いないが、その格差社会批判をコピペしたような反対意見には違和感があった。その違和感を、Chim↑Pomがメキシコとアメリカの国境付近で行ったプロジェクトを引き合いに出しながら少し語りたい。

アート・バーゼル・マイアミ・ビーチ2019で展示されていたマウリツィオ・カテラン《コメディアン》(2019) Courtesy Art Basel

 Chim↑Pomはこのプロジェクトで、メキシコ側の国境沿いのスラムに住む人々と協働をし、アメリカ側の管制塔と向き合うようにその場所にツリーハウスを建てた。作品としてはアメリカに入国できないエリイや地元の人たちによる、自分たちのためのアメリカのビジターセンターである。そのツリーハウスは、いまでは地元の子どもたちの遊び場として、「使用価値」が生まれている。一方、このプロジェクトの記録は、東京における展覧会で、いわば一種の「贈与」として観客に無料で観せられた。しかしマーケットでは「商品価値」を持つものとして記録のパッケージが売買されて、管理されることで未来の観客の鑑賞ツールとなる。

Chim↑Pom U.S.A. Visitor Center 2016 Photo by Osamu Matsuda © Chim↑Pom Courtesy of the artist, ANOMALY and MUJIN-TO Production

 プロジェクトを展開していくうちに、アーティストや作品は、超貧困層とも超富裕層ともつながりを持つのである。実際、ロスやメキシコシティから友だちのコレクターが現地のツリーハウスを訪れたりもするわけだけど、僕はこの普通は出会わない階層の人々が作品を媒介に突然つながる「アートのダイナミズム」が大好きなのだ。

 これは、善悪や公共論とはまた違う論理で構成される、不思議なネットワークである。多分まだ社会モデルのパターンとしては議論されていないが、誰か本気で解明した方が良いような興味深い社会像だと思われる。僕は、このダイナミズムによって、動かしがたく見える社会のヒエラルキーを無効化できるのが、「アーティストの職能」なのではないかと思うことがある。

 そのうえでカテランに戻れば、アートマーケットの貴族性への批判は簡単だけど、では富裕層を排除したり、アーティストがフェアを遊び場にすることをやめることが善を為すような顔で行われたら、それはもう一般社会と変わらない、ユニークな世界をひとつの論理が包摂することを意味してしまう。その先では、アーティストがスラムに介入することも、逆説的に偽善と取られるようになる。アーティストや作品は、世界に存在するあらゆる属性と、友好的であれ敵対的であれ、「隣人」として会話することができるのだ。

プロジェクトが開く、無数の回路

 さらに、Chim↑Pomの他のプロジェクトも解剖してみよう。

 メキシコのプロジェクトは完全に僕たちの持ち出しだったけど、台湾の国立台湾美術館に建物の外から中へと連続する200メートルの道を作る作品はコミッションワークだった。制作費は美術館持ち。いわゆる公共事業の一種だから、施工業者は入札で選ばれた。フィーや記録の売買があったとしても、その巨額の製作費以上の利益は、当然誰にももたらしていない。

 会期中、屋外の公共空間とも、美術館という空間とも違う第三の公共圏として独自のルールをつくり出すために、その「道」を舞台にブロックパーティやゲリライベントが開催された。しかし、そこが「道」である以上は有料は邪道、という「使用価値自体がコンセプト」みたいな作品だったから、参加費は無料。道の通行人からも通行料は取らなかった。

Chim↑Pom 道 2017 Photo by Yuki Maeda © Chim↑Pom Courtesy of the artist, ANOMALY and MUJIN-TO Production

 この「道」はシリーズである。一本目は高円寺につくられた。これもプロジェクトの一環であり、歌舞伎町の建て壊し間近のビルで行われた展覧会と、壊されたあとの建物の瓦礫がその素材になった。展覧会を賄ったのは、展覧会の入場料とグッズの収入である。展示された作品たちは売り物ではなくて、ビルとともに解体されたのち、道の素材として高円寺のスタジオに埋め立てられたからだ。その道にもむろん、入場料は発生しない(現在はファッションコンプレックスの一部としてChim↑Pomの手を離れている)。値段に換算できるようなプロジェクトではないが、Chim↑Pomの価値はこんなところにあるんだろうと思う(本当はコレクターにその「道」自体を買ってほしいと思い続けているのだけど)。

 このように、プロジェクトは様々な回路を持つ。それによって作品には異なる価値観の綱引きが、分権的に生まれるのである。ひとつのプロジェクト内に限った話ではない。たとえばメキシコでの協働相手はスラムの家族、台湾では現地のコレクティブやミュージシャン、歌舞伎町ではホストの皆さんが監視やイベントの運営をやってくれたりと、作家には活動するうちにいろんなバックグラウンドの人たちとのコラボが生まれる。プロジェクトタイプのアーティストがマーケットに過度に依存せず、同時にその活用をはばからないのは、こうして社会とつながりを持つこととも無縁ではないだろう。

ポスト(ウィズ)展覧会

 プロジェクトにおいて、「展覧会」はひとつの要素でしかない。出版されて、現場で作品が使用されて、と展開が多様だからである。展覧会の形式自体も、コロナを機にオンラインだ電話だともう何でもありになってきた。発表の場としてのプラットフォームやプロジェクトの場が多岐にわたるなか、展覧会はもはや唯一的なものではなくなっていく。これから僕らアーティストが生きる発表の場は、そんな文化の生態系の中にある。

 その観点で、ネイティブアメリカン3人組による秘密結社(正確には”Public secret society”と表記)「ニューレッドオーダー」(NRO)を取り巻く文化の生態系は独特である。たとえば、現在彼らが展開中の「Join the Informants!」というポップカルチャーのなかにある先住民文化(「羽根」のファッション化など)の参加型リサーチ活動は、「triplecanopy」という寄付によって成り立つ新興出版グループのサイトのトップページに介入しているのだけど、一見しても「triplecanopy」のサイトだとはわからない。なぜならこの「triplecanopy」も曲者で、既存の出版業界のしがらみから解放された方法論でもって、プロジェクトや出版、イベントを、オンラインと現実空間で手がける非営利団体だからである。

https://www.canopycanopycanopy.com/contents/join-the-informants

 ライター、デザイナー、アーティスト、技術者など900名近い専門家とコラボして、ホームページでは、テーマごとにカテゴライズされたキーワード検索から記事が閲覧できるようになっている。それぞれの記事のデザインが全然違うのも面白い。寄付元は無名の個人から、ニューヨーク市、シンディー・シャーマンやウォーホル財団なんかの名前もある。

 また、NROのコアメンバーであるアダム・カリールとザック・カリールの兄弟は、映像作家としても活動中だ。アメリカや日本、ヨーロッパなどの典型的な映画理論からではなく、出身部族であるオジブウェー族の価値観や考え方を軸にした方法論(撮影は何を使うか、編集はどうするか)で、《INAATE/SE/》という映画の制作を試みた。作品はMoMAでのワールドプレミアののちに、「Vdrome」という推薦型・会期性のオンラインプラットフォームで発表された。その後も各地の映画祭やアートスペースで上映され続けている。オジブウェー族の考えによると、過去7世代、未来7世代の連続性こそが「今日の行動を反映している」ということらしく、それを文化人類学的な視点でははない、ローカルの視点で作ることによって、「映像」を自分たちのものとして再宣言したのである。

 ビエンナーレや美術館など従来のアートのシステムも取り込んで、まるで資本主義のスピンオフとして登場してきたような、これら既存の資本や展覧会、白人中心主義を相対化した生態系は、あらゆる価値観をウィズ化した有機的なネットワークと言えるだろう。こうして発表の場や方法が多様になるなかで、展覧会オンリーで完結する作品には、今後は「あえて」の美学が宿るかもしれない。

いかにバラバラな集団であるか

 ほとんどの人たちの価値観が資本主義に包摂される現在、アートコミュニティやコレクティブが社会に存在感を持つ理由は、それが社会のなかに独特のコミュニケーションを作るオリジネーターだからである。多くのコミュニティが世界にあるものの、集まる理由は千差万別、さまざまである。ジャンルや趣味を共有するグループが多いのは昔からだけど、そうでないものもある。

 かくいう自分たちChim↑Pomも、メンバーに共通の一貫性がない。自分たちが何者であるかというパッケージが定着しそうになると、必ず誰かが異を唱えるからまとまりが悪い。おかげでほとんどのメンバーは「Chim↑Pomのプロ」を自認しているけど、Chim↑Pom自身は素人のままである。数年前までは、「Chim↑Pom」という集団としてのパッケージが個々のメンバーの性格よりも優位にあった。だけど、大人になったからか、時代の変化からか、最近は簡単にまとまるなんてことが世界平和並に難しくなった。だから、じつは僕は2年前にリーダーを辞めた。些細なことなので周知はせずに、メンバーには事後報告とした。なので、いまだに「リーダー」として紹介されるけど、これを読んだ人には、今後は卯城はひとりのメンバーだということでご了承いただきたい。

 「コミュニティは、公は、一体誰にどうやって統治されるべきか」。「コンセプト」というものがアートを離れ、もはやすべてのスタートアップや都市開発のテーマとして使われ、消費される現在、わかりやすい、看板となるワンイシューを掲げないコレクティブには、つねにその実験がつきまとう(コミュニティでいえば新大久保のUGOにその魅力を感じた)。段階的に考えると、そのような集団が増えるほどに、社会も一筋縄ではいかなくなるわけで、その先には、会社は、組織は、美術館は、自治体は、国家は、国際社会は、誰にどう統治されるべきか、という問いが地続きで広がっている。

 個々の集団が、いかにバラバラさを保ちながら存在できるか。そして、どう自閉せずに、公に自らを実装できるか。かつて多くのヒッピーたちが「資本主義社会の外部」にコミュニティを形成したけど、現在のコレクティブは「資本主義の内部」に「特例」として現れてくる。

 さらに言うと、「コレクティブや工房の会社化」という動きがあるが、社会のルールを内在化する際に起き得るアーティストとしてのリスク、カイカイキキのように会社の維持に奔走するリスクにはどう対処するか。さまざまな課題があり、集団に入ることで面倒に巻き込まれるくらいなら「一人でいるわ」という真理もよく聞く。ひとまずここでは「コレクティブが資本主義とどう付き合うか?」という問いを立ててみて、日本の状況に三つのモデルを提案したいと思う。そして、いつまで経っても鯛が頭から腐るような日本の組織の体質への対策として、あらためてフェミニズムを原理原則としてとらえなおす。

強者を乗っ取る「弱いコミュニティ」

 ひとつ目のモデルは、コレクティブによる巨大な資本やプロジェクトの乗っ取りだ。ジャカルタのアートコレクティブ「ルアンルパ」が、2022年に行われる次回のドクメンタの芸術監督に就任したことは周知の事実である。アジア出身者としても初、コレクティブの登用も初の試みである。Chim↑Pomが来年、森美術館で回顧展を開くことにも同じようなことが言えるけど、基本的には両者とも、慣習から見ればイレギュラーだ。しかし僕は、Chim↑Pom自体をひとつのカスな公共概念としてとらえていて、ルアンルパの実践にも同じものを拡張しながら見ているから、何となく合点がいく。グループの独特な性質自体を、あたかも「公共概念」として社会に実装してみる......そんな実験が必要なくらいには、美術館も国際展も枠組みとしては行き詰まっている。

ルアンルパ Photo by Gudskul/Jin Panji

 数年前に比べたら、アートコミュニティの数は圧倒的に増えた。それらは全部ユニークだけど、路地裏のネズミが大手デベロッパーの展開するビルの最上階の美術館に進出するような、またはPARCOのファサードを改変するような、そんな接続は弱いように思う。オルタナティブなコミュニティの特徴は、マジョリティの論理から外れた「弱い社会性」、カスいアイデンティティにある。弱者が強者を目指す必要なく生きる「弱いコミュニティ」。これが細分化しながら増える状況は面白いけど、カスが特徴だからこそ、これは公共と交わることで化学反応を起こす、起爆剤たり得るのだ。

 しかし日本のコミュニティの多くは、公共に接続しない「本当に弱いコミュニティ」として存在しているように見える。規模の大小に関係はない。たとえば、オンラインサロンだったり、溜まり場だったり、世界のなかで見れば日本美術界そのものだったり。つまりはどこにでも現れてくるクラスタ気質のような、国民性の話である。

「公共」のグラデーション

 二つ目のモデルは、公共のなかにグラデーションをつくるあり方だ。今年の5月に、ウェブ上と、招待を受けた観客のみが見ることのできる実空間での展覧会の二つを舞台に行った「ダークアンデパンダン」展の実践は、僕にとって大きな実りだった。公共の場が当たり障りない表層的なものを志向するなかで、過激さを志向するガチなものは、自主規制・検閲を取るか、対立意見との際限ない衝突を取るか、この二択が迫られている。そうしたなかで、このプロジェクトはそれよりも、「もうひとつの世界をつくってしまえ」という極論から組み立てられたものである。

「ダークアンデパンダン」展ウェブサイト

 Twitterが7000件におよぶQアノン(陰謀論を唱えるアメリカの右派グループ)関連のアカウントを停止して、その多くが右派系SNS・パーラーに移動した際に、トランプ大統領が、大手SNSからパーラーへの乗り換えを呼びかけた。つまり、彼なりに「検閲」に抗議してもう一つの世界への移行を勧めたわけだけど、このダーク思想とも呼べる考え(現実社会のオルタナディブとしてのインターネット空間が一般社会化したことで現れた、ダークウェブなどその「外部」を求める潮流)は、ときに(主に?)アメリカのリバタリアンや、インターネットの自由を宣言した「サイバースペース独立宣言」を文脈とする自由主義者たちによって語られる。この流れのなかには、「自由と民主主義は両立しない」と言ったペイパルの創業者・ピーター・ティールや、オルタナ右翼たちの思想的背景ともなった暗黒啓蒙(資本主義を加速させた先のシンギュラリティを目指す加速主義をルーツにした、反民主主義的・反平等主義・反啓蒙主義な新反動主義)など、アメリカの右傾化を進めたラディカルな勢力も関係している事実は踏まえておきたい。

 それを支持するわけではないが(その思想の過激性は大好きだが)、それでも僕は、これをやっぱり世界のひとつのあり方だと思っている。プラットフォームはもはや一種類ではない。公共圏とは、ひとつの世界が反発しあう極論を排除しながら中立を目指すものではなく、地層のように異なる思想・文化・価値観・自然・実世界がレイヤーとして重なった、グラデーション丸ごと、そのものであるべきだと思うからである。そして忘れてはいけないのは、このバリエーションこそが「世界」であり、そこにはたとえば多くの日本人がもはや「別世界」のように日常の外へと追いやりがちな、帰還困難区域などの「世界の実態」も含まれている。そういう意味では逆説的に、僕らが発案し、福島の帰還困難区域内で開催中の国際展「Don’t Follow The Wind」もこの一種と言えるかもしれない。

BLMやサンフラワームーブメントのような直接的な行動

 三つ目は、Black Lives Matter(BLM)や香港の民主化デモのような集団的な直接行動だ。資本やプログラムの乗っ取り、また、公共のなかにさまざまなグラデーションを作る試みは、日本のディテールとしても語りやすい。いっぽう、日本に圧倒的に欠けていてリアリティを感じないのは、この直接的な行動である。BLMや香港の民主化デモと並べるならば、ここで振り返るべきはSEALDsだろうけど、これがどうにも後味が悪い。この感覚は台湾のサンフラワームーブメントをリサーチしたときから続いていて、なんなら年々深まっている。

ケイシー・ウォン Hong Kongese Warning Squad 2014 Photo by Apple Daily

 どちらも東アジア、同時期の新世代学生運動として注目されたけど、異なったのは市民の受け止め方と、「その後」だった。かたや盛大なアンチや殺人予告が起きたのち(支持も多かったけど)、ロビーイングとして野党や社会活動に入り込み、しかしまだ政権交代には至っていない。それに対して台湾では、オードリー・タンなんていう数年前には立法院(国会)を占拠していた無政府主義者のギークが、なんと大臣にまでなっている。日本では考えられないけど、その原因をSEALDsに求めるのはお門違いだろう。単純に、台湾は日本よりも明らかに「新陳代謝が良い」のである。

 台湾に限ったことではない。同じく東アジアから世界のエンターテイメントやアートシーンに国策として若者を輩出している韓国もまた、直接行動と熾烈な政権交代が多い国である。政権の中身がどうであれ、「公の新陳代謝の良さ」は、若者にパブリックとのチャンネルを作り出している。風通しの良さ。いっぽう、日本の新陳代謝の悪さは超絶だから、風通しが悪い。若者の才能がどうであれ、古い政治のセンスが公の概念を司どり、人々の公共観を包摂し続けている。ここに、若手が公に活躍できない見えない壁が存在する。

 オードリー・タンは、自らを公共エンジニアと呼び、台湾のデジタル民主主義を率いているけど、日本にそんなテクノロジストはまだ現れていないように思う(オードリーで言えばLGBTQ+もまた、日本では大臣になれていない)。誤解を恐れずにあえて物事をめっちゃ単純化して誇張すると、だから日本ではハッカーは仮想通貨に労力を使い、インフルエンサーたちはオンラインサロン化して自分の城を築いて完結するのだ。ホワイトリストに載りそうなアーティストは別として、エッジの効いた若手が世界に紹介されず、公的な機会がないのだから、これはもう、なるべくしてパブリックよりも私(プライベート)的な成功を求めるようになる。ドメスティックな日本のアートシーンにも同じことが言える。

「私的な城」に穴を開ける「人々」

 そのことを少し深刻に考えてみる。僕が友人のアーティスト・松田修と共著で出した『公の時代』では、「公」と「私」、そして「個」の関係を、「アーティストは『私』(プライベート)という『公共』と離れた領域に存在する『私人』ではなく、集合の中でこそ存在しうる『個』(インディビジュアル)の究極系」だと書いた。「個が立つ」とは言うけれど、「私が立つ」とは言わない。あらゆる集合体を揺るがすのは「私」ではなくて、「個」そのものの力なのである。この違いが無意識のうちにごっちゃになって、そのまま進んでしまうと、集団はいつかカリスマに「私物化」されてしまう。

 編集者の箕輪厚介さんをめぐるセクハラ騒動や、「カオス*ラウンジ」においてパワハラ、セクハラがあったとされる騒動を出すまでもなく、この構造は当人の気付きよりも先に「いつの間にか」、問題の種になっている。集団の論理がイレギュラーな個人よりも優位になって、そもそもはユニークな「個」であった構成員も、そこに包摂されてしまうからだ。「私的な城」のなかでは資本主義どころか封建制的な色が現れて、誰も望まなくても権威化が進む。個人の声は小さくなって、それを聴くはずのトップの耳は遠くなる。

 こうした状況に対して、その内部にいる当事者たちはどのように問題に気づいていけば良いのだろうか。他人事ではないのである。経験から言うと、あとはトップダウンならトップがよほどに敏感になるか、お笑いで言えば、ボスが後輩から徹底的にいじられているという上島竜兵率いる「竜兵会」のように、そもそもトップに権威がないか、あるいはイレギュラーな個人によるチェック機能が適切に働く環境が必要になってくる。現在、閉じた集団論理を打ち破っているのが、そこに「包摂」されなかった女性による告発をはじめとした、フェミニズムの潮流であるというのは、必然の成り行きと言えるだろう。

 これはサロンやクラスタに限った話ではない。美術館のキュレーターが規制を組織の論理で平然と言い訳にできている現状をみると、むしろ機関の方がじつは深刻なのではないかと思う。検閲やハラスメントは、集団や社会の論理に包摂されることで、その価値観を内面化した結果が招くものだ。そこには上司と部下、キュレーションする側とされる側、リーダーとその他、声の大きいものと小さいものなど、さまざまな立場の強弱が生まれる。そのなかで、人によってはできないことが強いられている。違和感を持ったとしても、しかし被害者も加害者もそういうものだと思い込むようになってしまうのだ。雰囲気が個人を包摂するのである。

 何度も言うけど、僕にとってもこれは他人事ではない。思い当たる節もある。ジェンダー論はもちろん、議論は組織や社会に属するすべての人間に自問を促しているのである。「女」が「女」としてでなく、「男」が「一人前の男」としてでなく、ただ個人として生きることに困難や苦しみが伴う。それがマジョリティであるような社会や組織に対して、その洗脳を率先して解きだしているのが「#MeToo」であり、フェミニズムであることに疑いの余地はない。そして、それが声の大きいものによって構成された論壇ではなく、声が上げられなかった立場を自認する「人々」によって広がっている現状は、これがまさに「革命」であることを裏付けている。

 奴隷制、封建制、資本制、あらゆる制度が個人の魂と全存在を包摂してきたなかで、いつの時代もその洗脳はあり得ないほどに強大だった。しかし、現在から過去を見ると、奴隷だ殿様だ、職業選択の自由が無いだのと、それこそあり得ないことのオンパレードだ、と誰もが迷いなく言えるのではないか。いま、僕らが自分に男性的な振る舞いを見つけて、その社会的な影響を自覚できるのは、すでに時代がひとつ更新されたからにほかならない。(Vol.3に続く)

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